第8小節 調和の街、歪む音

 ハルモニアの街は、拍子抜けするほど穏やかだった。


 石畳の通りを、音楽が人の形をした存在たち、「音霊ムジカ」が行き交う。

 楽器を背負った者、譜面を抱えた者、子どもの手を引く者。

 パンの焼ける匂いと、遠くで鳴る管楽器の音。


「……普通に、街だ」


 坼音がそう呟くと、隣を歩くゴルトベルク変奏曲――ゴルトが肩をすくめた。


「音楽も生活するからね。

 毎日がコンサートだったら、疲れるでしょ」


 確かに、と坼音は思う。


 ただ一つ違うのは、

 街全体が微かに“鳴っている”ことだった。


 足音が和音を帯び、

 風が旋律を運び、

 沈黙ですら、休符のように意味を持っている。


「ここが音楽都市アポロン


 ゴルトは歩きながら説明する。


「ハルモニアの中心。

 古の音霊ムジカ・クラシカ――君の世界でいうクラシック音楽が暮らす都市」


「……みんな、音楽なんだ」


「そう。で、この都市は八つの“領”に分かれてる」


 ゴルトは指で円を描いた。


「それぞれに領主がいて、

 その上に立つのが“主音トニカ”」


「……主音って、誰なんですか」


八聖音オクターヴァの長。

 アポロン全体を統べる存在」


「……じゃあ、第九は?」


「第九はシンフォニア領の領主」


 ゴルトはさらっと言う。


「力も影響力も大きいけど、主音じゃない」


 情報量が多い。


 だが不思議と、混乱よりも“納得”が先に来た。


 音楽には中心があって、

 役割があって、

 秩序がある。


 そういう世界なのだ。


「……あれ?」


 そのとき、ゴルトの歩みが止まった。


「どうしたの?」


「静かすぎる」


 言われて気づく。


 街に満ちていた“鳴り”が、薄れている。

 音が、濁っている。


 気持ち悪い。


 旋律が、噛み合っていない。


 次の瞬間だった。


 石畳の影が、にじむように動いた。


 黒い塊。

 形が定まらず、音になりきれない存在。


 見ているだけで、耳の奥が痛む。


「……なに、あれ」


不協和音ノン・ムジカ


 ゴルトの声が、低くなる。


「不完全な音霊。

 この街にとって、異物だ」


 黒い影が、こちらに向かって蠢く。


 音が崩れ、

 頭が割れそうになる。


 坼音は思わず耳を塞いだ。


「動くな」


 ゴルトは一歩前に出る。


 何もない空間に手を伸ばすと、

 次の瞬間、黄金色の指揮棒が空から現れた。


 空気が、張り詰める。


 五線が、空に浮かび上がる。


 ゴルトは、静かに息を吸った。


「——旋律メロディア


 世界が、音を待った。

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