第2小節 円環の外側
食堂を出ると、朝の空気はひんやりとしていた。
阿保路音学園の中枢――トッカータとフーガの塔へ続く石畳は、ゆるやかな弧を描きながら伸びている。
その道を、今は無数の生徒たちが同じ方向へ歩いていた。
制服の裾が揺れ、楽器ケースが肩に当たり、靴音が重なっていく。
まるで巨大なオーケストラが、まだ音を出さないまま移動しているようだった。
「こうして見るとさ」
共史が歩調を合わせながら言う。
「この学園、ほんとにでかいよな」
「うん」
坼音は頷いた。
中等部の頃は、寮と校舎の往復だけで一日が完結していた。
けれど高等部に進むこの節目の日、学園の“全体”が初めて視界に入る。
七つの寮が、円を描くように外周を固めている。
それぞれが小さな街のようで、建物の様式も、漂う空気も違う。
「ジングシュピールは相変わらず要塞だな」
共史が遠くを指す。
白を基調とした石造りの建物。
無駄がなく、凛として、近寄りがたい。
「近づくと、音まで静かになる気がする」
「あそこは“完璧”の寮だからな」
カノン、リート、ポロネーズ……。
それぞれの寮を横目に見ながら、二人は歩く。
その中で、坼音は無意識のうちに、ひとつの方向を避けていた。
ジングシュピール寮。
そこに、今日行くはずがないと分かっているからこそ、視線が逸れる。
「……なあ」
共史が、少しだけ声を落とした。
「結果、どうだったら嬉しい?」
不意打ちの質問だった。
坼音は一瞬、答えに詰まる。
「……一緒なら」
正直な気持ちだった。
共史は、ふっと笑う。
「それは俺も」
軽い調子。
けれど、そこに嘘はなかった。
周囲から、断片的な会話が流れ込んでくる。
「絶対ジングシュピールだよな」
「いや、ムジーク=ドラマって噂もある」
「シンフォニアは安牌」
誰もが、自分の未来を予想している。
予想というより、祈りに近い。
塔が近づくにつれ、空気が変わっていく。
視線が前を向き、歩く速度が揃い始める。
無意識のうちに、全員が同じテンポになっていた。
「……こういうの、苦手だ」
坼音が小さく言う。
「分かる」
共史は即答した。
「点数で切られる感じ、嫌だよな」
「うん」
才能を測られる。
音楽を、数字で仕分けされる。
それが必要なことだと理解していても、好きにはなれない。
やがて、塔の影が視界を覆った。
トッカータとフーガの塔。
学園の中心にして、象徴。
見上げるほど高く、太く、動じない。
音楽史そのものが、石になったような存在感だった。
塔の前の広場には、すでに人だかりができている。
掲示板。
黒地に白文字で、寮ごとに名前が並ぶ、あの板。
「人、多すぎ」
「まあ、全学年分だからな」
二人は人波に飲まれながら、少しずつ前へ進む。
名前を探す目。
呼吸を止める背中。
笑い声と、泣きそうな沈黙。
「……いた!」
どこかで、歓声が上がる。
「よっしゃ……!」
別の場所では、言葉にならない声が漏れる。
坼音は、喉が渇くのを感じていた。
(大丈夫だ)
自分に言い聞かせる。
(シンフォニアでいい)
それは、逃げではないはずだった。
共史が、先に掲示板へ辿り着く。共史の背中越しに、掲示板が見えた。
黒地に白い文字。
整然と並ぶ寮名と、その下に刻まれた名前たち。
ジングシュピール寮。
シンフォニア寮。
カノン、リート、ポロネーズ――。
視線を走らせるうち、坼音の呼吸はいつの間にか浅くなっていた。
(……ない)
シンフォニアに、自分の名前がない。
予想していたはずなのに、胸の奥がひくりと鳴る。
そのときだった。
掲示板の、いちばん端。
他より少し小さく、まるで後から貼り足されたような紙が、そこにあった。
見覚えのない寮名。
——パッション寮。
「……こんなの、あったっけ」
坼音が呟くより早く、共史が一歩、前に出た。
その動きが、ほんのわずかに硬い。
パッション寮の欄には、四つの名前があった。
青中共史
イヴォナ・ケロル・グランヴァルト
符楽森坼音
——計4名。
共史は、まだ掲示板を見つめていた。
まるで、そこに書かれた文字の“意味”を、音として読み取ろうとするかのように。
「共史……?」
「あ、ああ」
呼ばれて、ようやく視線を外す。
そして、いつもの軽い調子で言った。
「4人だけって、逆に目立つな」
笑っている。
けれど、坼音は気づいてしまった。
共史の声が、ほんの少しだけ低いことに。
周囲では、ざわめきが広がっている。
「パッション寮って何?」
「聞いたことないんだけど」
「新設……?」
誰も答えを持っていない。
ただ一つ確かなのは、今日、この瞬間まで存在しなかったはずの寮が、確かに“ここにある”ということだけだった。
塔の影が、4人の名前の上に、静かに落ちる。
坼音は、自分の名前をもう一度だけ確認した。
並んだ文字は、間違いなく現実だった。
消えもしなければ、書き換えもできない。
ふと、塔の方を見上げる。
トッカータとフーガの塔の高い影が、ゆっくりと石畳を横切り始めていた。
さっきまで照らしていた掲示板の上を、静かに覆っていく。
日差しが、ほんの一瞬だけ弱まる。
その変化に気づいた者は、ほとんどいなかった。
生徒たちはそれぞれの寮へ散っていき、
笑い声と足音が、少しずつ遠ざかっていく。
坼音は、まだ立ち尽くしていた。
胸の奥に、言葉にならない違和感が残っている。
理由は分からない。
ただ——
今日という一日が、
これまでと同じでは終わらない気がしていた。
春の風が、掲示板の端をわずかに揺らす。
白い紙は、何事もなかったように、そこに貼られたままだった。
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