第3小節 森の向こうのパッション寮
掲示板から離れてしばらくの間、坼音は黙って歩いていた。
足元の石畳は、学園の中心部から外れるにつれて少しずつ荒れていく。
均一だった石の色がまだらになり、隙間に小さな雑草が顔を出している。
「……なあ」
先に口を開いたのは共史だった。
「鍵宮白音と、イヴォナ・ケロル・グランヴァルト、だっけ」
「うん」
共史は歩きながら、肩にかけたケースを揺らす。
「聞いたことある?」
「ある……たしか鍵宮さんは……」
坼音はぼんやりと脳みその奥を呼び起こす。
鍵宮白音。世界的ピアニストの娘。
双子の兄も有名で、幼少期からコンクールを総なめにしていた“神童”。
——なのに、今はほとんど人前で弾かない。
理由は知らない。
噂だけが、妙に多い。付いた渾名は「幽霊」。
「イヴォナの方は?」
「……悪魔」
坼音が小さく言う。
自分でも、言葉の強さに眉をひそめた。
「ほら、授業サボるとか、話しかけると殺されかけるとか」
「物騒だなあ」
共史は苦笑しながら言った。
「完全に尾ひれついてるやつだろ、それ」
「でもさ」
坼音は立ち止まり、共史の方を向いた。
「問題児って言われてる二人と同じ寮なんて……正直、嫌なんだけど」
本音だった。
ただでさえ、寮替えは不安なのに。4分の2が問題児は、彼としては大きな不安だった。
「まあ、しゃーないやん」
共史はあっさり言った。
「俺らも似たようなもんだろ」
「どこが」
「勉強しない、時間守らずよく怒られる、朝からサックス吹く」
「最後のは共史だけだよ!」
坼音が即座に突っ込むと、共史は楽しそうに笑った。
「ほら、問題児予備軍」
「予備軍って……」
言い返そうとして、坼音は口を閉じた。
完全には否定できない気がしてしまったからだ。
再び歩き出す二人。
気づけば、周囲の景色が変わっている。
校舎の白い壁は見えなくなり、
代わりに背の高い木々が視界を埋め始めた。
「……ちょっと待って」
坼音が足を止める。
「なんで、寮が学園の敷地外にあるんだよ」
「さあ」
共史はスマホを見ながら言った。
「メールだと、“雑木林を抜けた先”って書いてある」
「意味わかんない……」
阿保路音学園は、円環状に設計されている。
中心に塔、次に校舎、その外側に七つの寮。
——の、はずだった。
「他の寮は、ちゃんと学園都市の中にあるよね?」
「あるな」
「カフェもホールもコンビニもあってさ」
「便利だな」
「なのに」
坼音は前方を指さした。
舗装された道は途切れ、
代わりに細い土の道が森の中へと伸びている。
「ここだけ、キャンプ場じゃん……」
「静かでいいだろ」
「絶対虫多い」
「それはある」
共史は素直に頷いた。
ガラガラと、荷車の音が響く。
二人は無言になり、ただ森を進んだ。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳に残る。
遠くでカラスが鳴いた。
「……やめてよ」
坼音が小さく言う。
「なにが」
「ホラー演出」
「演出してない」
数分後、視界が開けた。
そこにあったのは——
「……」
「……」
二人同時に、言葉を失った。
ちょっと大きめの一軒家。
古い洋館風の造りだが、手入れはされていない。
外壁には蔦。
窓は曇り、柵は錆びている。
森の中に、ぽつんと。
「……これ、寮?」
坼音がかすれた声で言う。
「寮……らしいな」
「ぼろ屋敷じゃん」
「幽霊出そう」
「やめて!」
風が吹き、軋んだ音がした。
門が、ぎい、と鳴く。
坼音は喉を鳴らした。
「……ほんとに、ここで暮らすの?」
「暮らすんだろ」
共史は少しだけ笑った。
「なんかさ」
「?」
「逆に、面白くなってきた」
坼音は、ため息をつく。
不安しかない。
嫌な予感しかしない。
けれど——
扉の向こうで、何かが待っている気がした。
それが悪魔か、幽霊か、
それとも——まだ名前のついていない何かなのか。
二人は顔を見合わせ、
同時に玄関へと足を踏み出した。
玄関の扉の前で、坼音は深く息を吸った。
「……ほんとに、入る?」
「入らなきゃ始まらんだろ」
共史はそう言って、鍵のかかった古い扉に手を伸ばす。
だが——
その指が、ノブに触れるよりも先に。
ぞわり、と。
背中を、冷たい空気が撫でた。
森が、一瞬だけ静まり返る。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、嘘のように消えた。
「……?」
坼音は違和感を覚えたが、まだ振り返らない。
共史も、気づいていない。
二人の背後、
木々の影が落ちる小道の上に——
悪魔が、立っていた。
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