第1楽章

第1節

第1小節 二度寝を許さないための小協奏曲

 目覚まし時計が鳴るより先に、低く柔らかな音が部屋に満ちた。


 金属が息をするような、丸みのある音色。

 それは耳元で鳴るというより、布団の内側から染み出してくる感覚に近い。


 符楽森坼音は、うっすらと眉をひそめた。


(……やな予感)


 次の瞬間、音が一段、明るく跳ねた。


「――っ!?」


 坼音は跳ね起きる。


 視界に飛び込んできたのは、下段ベッドに腰掛け、サックスを構える青中共史の姿だった。

 寝起きとは思えない安定した姿勢で、彼はごく自然にフレーズを紡いでいる。


 アラーム音と即興演奏が、妙に噛み合っていた。


「おはよ。いい目覚め?」


「よくない! 心臓止まるかと思った……!」


 胸を押さえて抗議すると、共史は悪びれもせず口角を上げる。


「アラームに合わせて即興。名前を付けるなら――」


 一拍置いて、


「二度寝を許さないための小協奏曲」


「命名するな!」


 共史はくくっと笑い、サックスを膝に置いた。


「起きたでしょ」


「起こされたんだよ……」


 けれど、言い返しながらも坼音は内心で認めていた。

 この音が鳴ると、不思議と体が動く。腹立たしいが、共史の音はそういう力を持っている。


 坼音はベッドを降り、洗面所へ向かった。



 顔を洗い、髪を整えて戻る頃には、白髪のボブはすっかり落ち着いていた。

 柔らかな髪質と中性的な顔立ちのせいで、学園内ではたびたび女の子に間違えられる。


 鏡に映る自分を一瞬だけ見て、視線を逸らす。


「準備できた?」


「うん」


「じゃ、飯行こ」


 それだけのやり取りで、二人は部屋を出た。



 阿保路音あほろおん学園。


 音楽の道を守り、育てることを理念とする全寮制の学園であり、全国から、いや世界中から音楽に人生を賭けた生徒たちが集まる場所だ。


 指揮、器楽、声楽、作曲。

 専攻は違えど、ここにいる全員が「音楽を選んだ者」だった。


 朝の食堂は、すでに活気に満ちている。


 金属製のトレーが重なり合う音。

 パンの焼ける匂い。

 湯気を立てるスープと、コーヒーの苦み。


 二人は列に並び、それぞれトレーを受け取った。


「今日は和洋折衷だな」


「学園の気分次第だよね」


「このオムレツ、地味に当たり」


「昨日のよりふわふわ」


 そんな取り留めのない会話を交わしながら、空いている席を探す。


 向かい合って腰を下ろすと、ようやく朝が始まった気がした。


「今日、結果発表だっけ」


 共史がフォークでオムレツを切りながら言った。


「……うん」


 坼音はスプーンを持つ手を止め、少しだけ視線を落とす。


 中等部から高等部への進学に際して行われる選抜。

 通称「登竜門」。


 その結果によって、次に所属する寮が決まる。


 阿保路音学園には七つの寮がある。


 完璧を求める「ジングシュピール寮」。

 才に富む者が集う「シンフォニア寮」。

 学問重視の「カノン寮」。

 好戦的な「リート寮」。

 平和主義の「ポロネーズ寮」。

 表現力と個性の「シンフォニック=ポエム寮」。

 そして、圧倒的カリスマを誇る「ムジーク=ドラマ寮」。


 どの寮に入るかで、学園生活は大きく変わる。


「またシンフォニアかな」


 坼音がぽつりと言う。


「だろうな」


 共史は軽く肩をすくめた。


「四年連続はさすがに新鮮味ないけど」


「共史は楽しそうだけどね」


「まあな」


 そう言いながらも、共史はパンをちぎる手を止めない。

 彼は、こういうときに余計な不安を顔に出さない。


 食堂のざわめきの中、ふと周囲の会話が耳に入る。


「やっぱ音原はジングシュピールでしょ」


「当然でしょ、”天使”だもん」


「指宿も確定だよな。”無音”の花琳」


 視線の先、少し離れたテーブル。


 音原琴音おとはらことね指宿花琳いぶすきかりんの姿があった。


 琴音は柔らかな笑みを浮かべ、周囲と会話している。

 まるで音楽そのものが人の形を取ったかのような存在感。


 一方、花琳は背筋を伸ばし、静かに食事を進めていた。

 無駄な動きが一切なく、その佇まいはひどく完成されている。


 同じ食堂にいるはずなのに、空気が違う。


「……すげえな」


 共史が小さく呟いた。


「うん」


 坼音も頷く。


 近いはずなのに、遠い。

 最初から、選ばれている人たち。


「俺たちは、まあ……」


 共史は言葉を濁し、トーストをかじる。


「順当だよ」


 坼音はそう答えた。


 それが現実だと思っていた。

 疑いもしなかった。


 そのとき、食堂にチャイムが鳴り響く。


《五分後、トッカータとフーガの塔前にて、所属寮の掲示を行います》


 一斉にざわめきが立つ。


 椅子を引く音、トレーを片付ける音。

 空気が、少しだけ張りつめた。


 坼音は、最後にコーヒーを一口飲み干した。


 苦みが、やけに強く感じられた。


「行くか」


「……うん」


 二人は席を立つ。


 この朝は、まだ平和だ。

 けれど、知らないだけで――

 すでに、歯車は回り始めていた。

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