第1楽章
第1節
第1小節 二度寝を許さないための小協奏曲
目覚まし時計が鳴るより先に、低く柔らかな音が部屋に満ちた。
金属が息をするような、丸みのある音色。
それは耳元で鳴るというより、布団の内側から染み出してくる感覚に近い。
符楽森坼音は、うっすらと眉をひそめた。
(……やな予感)
次の瞬間、音が一段、明るく跳ねた。
「――っ!?」
坼音は跳ね起きる。
視界に飛び込んできたのは、下段ベッドに腰掛け、サックスを構える青中共史の姿だった。
寝起きとは思えない安定した姿勢で、彼はごく自然にフレーズを紡いでいる。
アラーム音と即興演奏が、妙に噛み合っていた。
「おはよ。いい目覚め?」
「よくない! 心臓止まるかと思った……!」
胸を押さえて抗議すると、共史は悪びれもせず口角を上げる。
「アラームに合わせて即興。名前を付けるなら――」
一拍置いて、
「二度寝を許さないための小協奏曲」
「命名するな!」
共史はくくっと笑い、サックスを膝に置いた。
「起きたでしょ」
「起こされたんだよ……」
けれど、言い返しながらも坼音は内心で認めていた。
この音が鳴ると、不思議と体が動く。腹立たしいが、共史の音はそういう力を持っている。
坼音はベッドを降り、洗面所へ向かった。
*
顔を洗い、髪を整えて戻る頃には、白髪のボブはすっかり落ち着いていた。
柔らかな髪質と中性的な顔立ちのせいで、学園内ではたびたび女の子に間違えられる。
鏡に映る自分を一瞬だけ見て、視線を逸らす。
「準備できた?」
「うん」
「じゃ、飯行こ」
それだけのやり取りで、二人は部屋を出た。
*
音楽の道を守り、育てることを理念とする全寮制の学園であり、全国から、いや世界中から音楽に人生を賭けた生徒たちが集まる場所だ。
指揮、器楽、声楽、作曲。
専攻は違えど、ここにいる全員が「音楽を選んだ者」だった。
朝の食堂は、すでに活気に満ちている。
金属製のトレーが重なり合う音。
パンの焼ける匂い。
湯気を立てるスープと、コーヒーの苦み。
二人は列に並び、それぞれトレーを受け取った。
「今日は和洋折衷だな」
「学園の気分次第だよね」
「このオムレツ、地味に当たり」
「昨日のよりふわふわ」
そんな取り留めのない会話を交わしながら、空いている席を探す。
向かい合って腰を下ろすと、ようやく朝が始まった気がした。
「今日、結果発表だっけ」
共史がフォークでオムレツを切りながら言った。
「……うん」
坼音はスプーンを持つ手を止め、少しだけ視線を落とす。
中等部から高等部への進学に際して行われる選抜。
通称「登竜門」。
その結果によって、次に所属する寮が決まる。
阿保路音学園には七つの寮がある。
完璧を求める「ジングシュピール寮」。
才に富む者が集う「シンフォニア寮」。
学問重視の「カノン寮」。
好戦的な「リート寮」。
平和主義の「ポロネーズ寮」。
表現力と個性の「シンフォニック=ポエム寮」。
そして、圧倒的カリスマを誇る「ムジーク=ドラマ寮」。
どの寮に入るかで、学園生活は大きく変わる。
「またシンフォニアかな」
坼音がぽつりと言う。
「だろうな」
共史は軽く肩をすくめた。
「四年連続はさすがに新鮮味ないけど」
「共史は楽しそうだけどね」
「まあな」
そう言いながらも、共史はパンをちぎる手を止めない。
彼は、こういうときに余計な不安を顔に出さない。
食堂のざわめきの中、ふと周囲の会話が耳に入る。
「やっぱ音原はジングシュピールでしょ」
「当然でしょ、”天使”だもん」
「指宿も確定だよな。”無音”の花琳」
視線の先、少し離れたテーブル。
琴音は柔らかな笑みを浮かべ、周囲と会話している。
まるで音楽そのものが人の形を取ったかのような存在感。
一方、花琳は背筋を伸ばし、静かに食事を進めていた。
無駄な動きが一切なく、その佇まいはひどく完成されている。
同じ食堂にいるはずなのに、空気が違う。
「……すげえな」
共史が小さく呟いた。
「うん」
坼音も頷く。
近いはずなのに、遠い。
最初から、選ばれている人たち。
「俺たちは、まあ……」
共史は言葉を濁し、トーストをかじる。
「順当だよ」
坼音はそう答えた。
それが現実だと思っていた。
疑いもしなかった。
そのとき、食堂にチャイムが鳴り響く。
《五分後、トッカータとフーガの塔前にて、所属寮の掲示を行います》
一斉にざわめきが立つ。
椅子を引く音、トレーを片付ける音。
空気が、少しだけ張りつめた。
坼音は、最後にコーヒーを一口飲み干した。
苦みが、やけに強く感じられた。
「行くか」
「……うん」
二人は席を立つ。
この朝は、まだ平和だ。
けれど、知らないだけで――
すでに、歯車は回り始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます