第四話:春野さんを褒めるのは簡単ではない


 顧客オフィスでの MTG をようやく終えた俺が自席に戻ったのは14時になろうかという頃。この自社オフィスは新宿にあるから大概の出先にはアクセス良く訪問できるとは言え、それでも移動が発生したら自タスクに滞りが出るのは回避し得ない。パソコンの中でもりもりと積もったタスクを思い、小さくため息をもらしながら目の前の黒い箱に電力を供給する。


 今日は朝からオフィスに居なかったから、今では一週間続いている春野さんとのアニメ談義も行うことが出来なかった。そのために早起きするのは辛いとは言え、一度リズムがつき始めると逆にそれを行わないことが違和になってくる。パソコンが起動するのを待つ間、俺は春野さんの席へと足を運ぶ。


「おはよう、春野さん。今朝は時間取れなくてごめんね」

「……」


 声をかけても彼女の指は流れるようなキータッチを止めない。そのまま立ち尽くして少し待ってみたが、ただただ春野さんの横顔の美しさを再確認するだけの時間を得ただけだった。


 ああそうか、今日は春野さんに褒め言葉を送っていないからアイアンメイデン状態なんだ。……あれ、ここ最近毎日談義していて機嫌が良かったから気づかなかったけど、もしかして俺が稼いだ褒め好感度って、毎朝リセットされるの? 俺辛くない? 坂道で岩を押し上げては戻されるシーシュポス並の苦行では?


 なんて泣き言を心に思いながらも、それでくじけるような奴はプロジェクトマネージャーとしてはやっていけないんだよなあと自分を自分で嘲笑う。


 マネージャーとして、社会人として大事なことは何か。それは過去の経験に基づき最適化された再現性のある手法で未来に立ち向かうこと。さあ見てろよこれが人間様の学習能力だぞと俺は自分で自分に語りながら春野さんににっこりと微笑みかけた。


「春野さん、今日もちゃんと出社できて偉いね。天才と言って過言ではないね、うん」


 さあオープンセサミ。その鉄面に秘めた魅力的な笑顔をさらけ出せ。


 魔法の言葉を唱え終え、自信満々で春野さんを見つめる俺。しかし彼女の美しい相貌はぴくりとも動かない。僅かに瞳だけが、プログラムコードを追うために左右に揺れているだけだ。あ、れ……?

 想定外の事態に動揺を隠せない俺は、しどろもどろに魔法の言葉の叩き売りを始める。


「さ、最終兵器春野さん!万象一切桃色と為せ!U.N.オーエンはあなたなのか!」


 涙目になりながら、もはや褒め言葉でも何でもない文字の羅列を並べたてる。そんな俺の心中などまるで知らないかのように春野さんは平時と変わらないゆっくりと余裕ある仕草で椅子を回して俺の方へ振り向くと、その一文字に結ばれた口の端を僅かに歪ませた。


「えへ」


 目の前の美少女の口元には僅かに笑顔の萌芽が見えた。嬉しくも俺は動揺する。今のはいいんかい。


 しかしなぜ最初の言葉には反応せず、後半の言葉にだけ反応したんだろうか。 焦りを悟られないように俺はそっと考える。語彙の問題なのか?それとも量?タイミング? 混乱する頭を抱えながら、しかし俺はめげずに彼女の生態研究に努める。


「早起きして偉い」

「……」

「邪神様は本日もご機嫌麗しゅう」

「んふ」

「出社してすごい」

「……」

「公私ともに大事にしていて社会人の鏡」

「……」


 一瞬微笑みが浮かんだかと思えば、すん、とすぐに虚ろな目に戻る春野さん。と思えば平易な言葉に誘われてにやにやを浮かべる春野さん。そんな彼女のコロコロ変わる表情を楽しみながらも思考を重ね、そこでハッとして俺は思わず口に手を当てた。

 

 まさか、いやそんな馬鹿な。だが闇と光の境界線上で反復横跳びするかのような春野さんの様子を鑑みるに、そうとしか考えられない。

 しかしそんなことが在り得るのだとしたら、俺はーーー。

 焦りから拳を握り硬め、口元を強く引き結んだ俺は春野さんの空虚な目を見つめる。そしてその瞳に光を与えるであろう言葉を心のなかで選定し、ゆっくりと唱える。


「……上司が居なくてもちゃんと仕事をして偉いね。自立できていて、他の人にも見習ってほしいくらいだ」

「えへへ…… しゃ、社会人として当然です、よ……」


 瞳に生気を宿し目尻を下げた春野さんを見て俺は確信した。


 春野さんの隠された生態。それは、『同じ言葉で褒めても喜ばない』だ。


 なんてことだ。俺はこれをただの簡単で楽しいゲームだと思っていた。褒め言葉を紡げば美少女が笑いかけてくれる、彼女が笑えば俺も嬉しい、そんな単純な遊びだと。

 

 しかし現実はそう甘くなかった。彼女に対して使用可能なリソース、つまり褒め言葉は有限なのだ。考えなしに使っていれば当然消耗され、使うべきときに使うことのできる手札がなくなってしまう。春野さんの状態を見極め、彼女を笑顔にするためにひつような褒め言葉の量と大きさを瞬時に計算し、それを満たす適切な使い捨ての言霊を己の内から紡ぎ出さなければいけない。

 

 つまりこれは、ゲームであっても遊びではない。極めて高尚な、生物としての環境適応能力を試される、大人の高等知的遊戯。言うなればこれは、マジック ・ ザ ・ ホメリングーーー。


「……せんぱい?」


 後輩の声で現実に引き戻された俺はふざけた思考を振り払い春野さんの方へ向き直る。珍しく困り顔をした春野さんが俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。


「気分でも、悪いですか?」


 後輩の健気な心配に俺の心はぐっと掴まれる。とてもじゃないが君のせいで夢遊状態になっていたとはいえない。

 何の問題も無いことを告げて、俺は不審そうな目でこちらを見る春野さんの視線を背に感じながらも俺はそそくさと自分の席に戻る。そして何事も無かったように腰を下ろし、強い意思を持ってタスクの片付けに着手する。


 そして急ぎの仕事を粗方処理し終えたことを確認してから、自分のカレンダーに「18:00 退社」と予定を詰め込んだ。やらなければいけないことができたのだ。今日は定時に上がらなければいけない。


◇◇◇


 翌日。15時丁度に俺はオフィスの扉を開いた。目に入るのはプロジェクトの面々と、島の端で淡々とキーボードを叩き続けている春野さん。今日も客先出社スタートだったために春野さんの機嫌は0スタートだ。しかし今日の俺には武器が有る。

 自席ヘ向かいカバンを置く。寝ぼけ眼のパソコンを起動させながら、俺はそっと一人つぶやく。


「……"ブック"」


 ぼん、俺の心のなかでだけ聞こえる効果音と共に手中に一冊の厚く赤い手帳が収まる。隣人が「?」と不思議そうな顔をこちらに向けている気がするが無視。一冊の手帳、もとい本を左手に抱えて島の先端へと足を運ぶ。


 当然行き先は春野さんの席。こちらに振り向きもしない桃色の魔物を視界に収め、俺は彼女の前でごくりと喉を鳴らす。


 果たして俺の付け焼き刃が彼女に通じるだろうか。そもそも俺の考えはまだ仮説でしかない。全くの見当違いで、昨晩の準備がまるっきり水泡に帰すという可能性も十分にある。

 しかしそれでも戦わねばならないのだ。俺はこの彼女と力を合わせてこの先生き抜くには、この本(手帳)の力が必要……!


 隣でじっと自分をみつめる生物の気配を不審に思ったのか、ちらりと春野さんがこちらを見た。その視線は普通に冷たく、俺は一歩後退しそうになる。だが負けるわけにはいかない。下がりそうになった足をぐっとこらえ、俺は左手をばっと前に突き出す。手中で開かれたのは赤い本(手帳)。そこに書きつけられた輝く文字をきっと睨みつけ、俺は声高らかにそれを読み上げる。


「春野さんの作ったコードの品質がすごく良いって開発リーダーが言っていました!とても3年目のエンジニアの仕事じゃない、って!プロジェクトにもまだ入ったばっかりにこの難しい時期に周りの人にそう言わせるのって、ほんとすごいことだよ!」


 俺はばっと本から顔を上げて春野さんの顔を見る。頼む、効いてくれっ……!


 その願いが通じたのだろうか。春野さんの顔はみるみる赤く染まり、口の両端がにやにやと波打ち始めた。


「え、そんな、褒めすぎ、です…… えへへ」


 嬉しさが漏れ出しているかのように、ゆらゆらと揺れてにやにやモードに突入した春野さん。けれど今回は特にクリティカルヒットしたようで、更に頬に手を当てて、どこかうっとりしたような表情を浮かべ始めた。その目には涙すら浮かびかけている。


「……自分の仕事ぶりをちゃんと認められるのって、すっごく、嬉しいんですね……!もっと頑張りたいって、初めて思い、ました……!」


 それはにやにやというよりも、最早とろとろだった。周りを見渡すと、そんな春野さんに恋しかけている獣が数匹居る。うん、このスイッチを押すのは今後時と場所を考慮するようにしよう。けれど春野さんの喜びようは、ちょっと普通じゃないような気もする。琴線に触れるような何かが、あったのだろうか?


 思ったよりも効いたことに多少の動揺を覚えつつも、褒め言葉を喜ぶ彼女を見て俺はとりあえず安堵した。よかった。俺の考えは間違っていなかったし、昨夜の努力も無駄にならなかった。


 俺の満足そうな様子に気づいたのか、春野さんはにやけた表情のままこちらへ視線を向け、俺の手の中の手帳を指さした。


「それは、なんですか?」


 不思議そうに見つめる彼女を背にして少し距離を取ると、俺はふふと笑ってから本の中身がぎりぎり見えないような位置でばっと本を開いた。


「これは褒め言葉を書き連ねた本、名付けて『褒めことバンク』だ。春野さんに送る褒め言葉の候補が所狭しと並んでいる」

「な、な、な」


 ぱらぱらと本をめくり、それぞれのページにびっしりと褒め言葉が並べられているのを春野さんに見せつける。これが昨晩の徹夜の成果だ。有限ではあるが、これでしばらく春野さんへの褒め言葉ストックには事足りるはずだ。もちろんその場に適したものが無ければ都度作り上げなければいけないが、それでもちょっとやそっとじゃ揺らがない。


 目の前の桃色乙女は食い入るように本を凝視していたが、突然その場にどんと立ち上がった。その雰囲気はいつもの静かで大人しいそれではない。何か獣のオーラすらまとっているように見える。まずい、やりすぎたか……?


 彼女はかつかつと歩みを前へと進め、やがて俺の眼下で止まった。そしてその小さな両手を恭しく俺の方に差し出す。手の上には彼女の財布らしきものが乗っている。


「それ、買います」

「え?」

「いくらですか? 2万円じゃ足りないですか? コンビニ行けば、もう少しくらいならおろせます」


 オフィス。公衆の面前で財布の中から一万円札を2枚取り出して上司に差し出す一人の後輩。周りがざわざわし始めた。そりゃそうだ。

 そんな外野の様子に気を払うこともなく真面目な表情でお金を渡そうとしている彼女の真剣さが、周囲の誤解に拍車をかける。離れた席からこちらを見ていた部長も腰をあげた。これは、非常に、まずい……。


「あ、いや、これはそういうものではなくてね」

「今すぐ、先輩のそれが、欲しいです」


 甘やかな匂いが鼻に届くほどの距離に近づいてきた春野さん。お金を握りしめた彼女が、俺の身体に触れそうなほどに迫っている。意図せず心臓がどきどきと鳴り始める。視界の端からは部長がどしどしと足音高く俺に迫ってくる。似て非なる二種類の危機に挟まれて俺は額に汗する。


 何はともあれまずはこの状況から逃れるのが最優先だ。俺は春野さんの手をぎゅっと握り差し出されていたお金をその手の中に握り込ませ、彼女の方へばっと突き返す。それでもなおこちらにお金を渡そうと腕を押す春野さん。なぜこんなときだけ強情系。狂気の色を宿し始めている春野さんを俺は言葉で制する。


「ここにある褒め言葉はいずれ全部君にあげるから!今は我慢して!」

「今、欲しいんです!もう限界なんです!」

「こんなに一気に摂ったらお腹壊すから!」

「一回だけ!一冊だけ!」


 春野さんの爛々と光る目が俺を強く見つめている。こんな状況だと言うのに、彼女の新しい表情差分に俺は思わず見惚れてしまう。ああそんな顔をしていても可愛いなあ、でも出来れば別のシチュエーション、別の場所でそれを見たかったなあ。なんて。


 惚けていた俺の肩にごつごつした何かが触れた。振り返ればそこには困惑した表情のおじさん。しまった、背後から迫っている部長のことを忘れていた。

 何か弁明せねばと慌てる俺。部長には目もくれず再び俺にお金を差し出そうとする春野さん。そんな二人を見て、部長は怒りとも哀れみとも言えないような複雑な皺をその顔に刻みながらゆっくりと口を開いた。


「そういうことは、仕事の外でやりなさいね」


 中でも外でも、駄目です部長。

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褒めたがりの社畜PMと、褒められたがりのアイアンメイデン~デスマーチを生き抜く、たった一つの生存戦略~ 七ツ森 蓮 @nanairomegane

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