第三話:春野さんは朝に弱い


 始業30秒前。オフィスの扉がゆっくりと開き、綺麗な桃色のボブカットが姿を現す。


 春の風と香りを身にまとった彼女は慌てる様子もなく自席へと向かい、すっと席に着く。そしてそのほっそりとした白く細い指で流れるようにパソコンの電源をつけると、中々立ち上がらない勤怠システムを無視してスマホから出勤登録を行った。

 

ーー 洗練された足取り。淀みない水流のような所作。最小動作での出勤登録。間違いない。春野さんはギリギリ出社のプロだ ーー

 

 一つの芸術に達しているかのような彼女の流麗な動作一つ一つに俺は見惚れる。が、すぐに気を取り直してマネージャー思考を呼び起こす。

 無駄に早く出勤しろと言う気はないが、流石に30秒前出社は危うすぎる。現に勤務開始時間になっても彼女のパソコンはまだ目を覚ましきっていない。

 

 彼女の上司としてここはがつんと教育しなければならないと思う。

 俺は心に鬼を宿し春野さんの席へと足を運ぶ。

 

「おはよう、春野さん」

「……」

 

 今日も俺と目を合わせない春野さんの横顔は美しい。春の野に咲く花のように可憐だ。Youtube に動画投稿でもしていようものなら、それがただ彼女が延々と爪を切り続ける動画だったとしても俺は迷わずお気に入り登録をしたい。「彼女の爪が切られました」という通知が届くのは明日なのか明後日なのか一喜一憂するような人生も悪くないだろう。

 

 しかし仕事と可愛さは別である。誰も言わないなら俺が言うしかない。それもマネージャーの仕事である。

 俺はフルメタルジャケットもかくやという鬼教官の精神をインストールし、彼女をきっと睨みつける。

 

「春野さん!」

「……?」

「あ、ええと……ちゃんと時間内に出社できて偉いね。天才?」

「えへ」

「うーんと、朝9時に出社しろっていう社会システムに問題が有るよね。そんな理不尽にも負けずにちゃんとオフィスに来てる春野さんは天使だね」

「んふ……はい、私は邪教を広める天使です……」

「その邪教、なんか魅力的に思えてきちゃった。入信して良い?なんて名前?」

「ふふふ、名前はまだありません。私が祖にして全、全にして一。春野はな、です……」

 

 春野さんの冷たい態度を前にして俺の中の鬼教官は一秒でなりを潜め、元の温厚な水尾さんが舞い戻っていた。うん、人間、性に合わないことはしないほうが良いよな。

 

 とは言え本題に言及しなければいけないのは事実だ。彼女と会話をするための儀式を済ませた俺は、ゆっくりと話を出社時間に差し向けていく。

 

「今日は出社、けっこうギリギリだったね。昨晩は遅かったの?」

 

 捉えようによっては詰問のような言葉だが、なぜか彼女の目はキラリと輝いた。

 

「……はい、夜更かししてしまいました。面白いアニメを、見つけてしまって」

 

 ふむ、と俺は唸る。

 仕事に支障が出るほどに趣味に没頭するな、と言うのは簡単だが、説得としては下の下である。付き合いはまだ浅いが、俺は彼女に言うべき言葉を肌で理解しつつある。今選ぶべき言葉はこうだ。

 

「そうなんだ、仕事で疲れているのに趣味も大事にできて、公私ともに充実って感じだね、春野さん偉い!」

「えへ、えへ」

 

 早くも春野さんをにやにやモードへ遷移させることに成功した。もう彼女の顔の端々は微笑みで蕩け始めている。横にいる別メンバーが俺達に奇異の眼差しを向けている気がするが、気にしない。

 

 さて、初手から春野さんを褒められたので今日は機嫌よく仕事に取り組んでくれそうだが、それでは当初の目的、ギリギリ出社回避の世界線には至れない。何か打開の糸口はないかと、俺はもう少し会話を続けることにする。

 

「春野さんってどんなアニメをみるの?」

「……少し昔のアニメが好きなんですよね。『匂宮ハルヒの憂鬱』とか、『響け!ユーフォー』とか」

 

 それらのアニメをリアルタイムで視聴していた俺としてはそれらが「昔」と一括りにされたことに一抹の寂しさを覚えつつも、大人なので感情は顔に出さない。むしろそれなら会話についていけるぞと腕をまくる。

 

「それなら俺も見てたよ。あの頃のアニメは秀逸なのが多いよね」

「……っ、そうなんですよ! 昨日は『魔法少女まろやか・マジか』っていうのを見つけて、どハマリしちゃって……」

 

 思わず「お」と俺は口に出してしまう。何を隠そう俺もそのアニメには大分ハマっていたからだ。興が乗り、つい身を乗り出してしまう。

 

「面白いよねあれ。表現の残酷さで話題になったけれどもあのアニメのすごい所はそこじゃなくてさ、少女たちの憧れや夢を緻密に描きながらもそれが無為に帰すまでの過程を淡々とかつ残酷に描写していったところに価値があるのであって……」

 

 しばらくべらべら語った後で俺は早口でまくし立ててしまったことを自覚し、思わず自分の口を手で抑える。

 

「……あ、ごめん。俺も好きなアニメだったから、つい熱が入って」

 

 そう言った俺を見つめる春野さんは、朝の無表情はどこへやら、褒められた名残としての緩んだ笑顔と、同好の士を見つけたことによる喜びの表情とを混ぜ合わせた、要するにとても可愛らしいきらきらと輝かんばかりの瞳で俺の顔を見つめていた。

 

「……せんぱい、さては私の仲間ですね?」

「……そのようだな。こんなところで出会うとは、思ってもいなかった」

 

 ふふふ、と堪えた笑い声を漏らす俺達の様子にいよいよ不審を覚えた隣席の住人がこちらに背を向けた。ふふふ、後でフォローしなければ。

 

「……せんぱいがイケる口の人であると言うなら、私も語りたいことがたくさん、あります……!まず第二話の考察なんですけれども……」 

「水尾さーん、今朝のMTG、会議室ですよー」

 

 くっと漏れる悔しさをぎりぎり隠し、俺はオフィスの扉の方から聞こえた声に適当に返事をする。そして春野さんに向き直り、おがむように両手を突き出す。

 

「ごめん、話したいのはやまやまなんだけど、そろそろ時間みたいだ」

「そうですか、残念です……」

 

 見るからにしょんぼり肩を下とした彼女の姿をみて、俺の脳裏に名案が浮かぶ。

 

「よければ明日、始業前にちょっと話さない?俺もだいぶ昔の記憶だから、アニメを見直して、解像度を取り戻してから談話に臨みたいし」

「……!い、いいですね、それ。私もまだ映画版までは観れていなかったので、今晩鑑賞して考察を深めてから、明日に臨みたいです……!」

「よかった。じゃあ少し早いけど、明日、始業30分前に集合でどうだろう?」


 さりげなく出社時間の繰り上げを提案した俺の言葉を受けて、春野さんは口元に手を当てて考え込む素振りを見せた。さすがに露骨すぎたか。俺は提案を引き下げようと口を開きかけたが、それよりも先に春野さんが口を開いた。

 

「……1時間前はどうです、か? ……やっぱり早すぎますかね……」


 ぐっ、と俺は喉を詰まらせた。うちの出社定刻は9時。つまり1時間前とはAM8時。普通の社会人にとってその1時間の出社繰り上げはあまりにも辛い選択だ。おいそれとイエスとは言い難い。

 俺が悩んでいることを察知したのか春野さんの表情はみるみるしぼみ、太陽を失った向日葵のように視線は落ち、笑みが薄れていく。


 目の前の後輩の顔から笑顔が消えていくことに誰が耐えられるだろうか。さらに言えばこの後輩は弩級に可愛い。そんな美人の笑顔を俺の一存で世界から一つ減らすなんて、テロリズムと言っても良いような行為ではないだろうか。

 俺は冷静と情熱の間で、理性による合理的判断を待たずに口を開く。


「もちろん!1時間半前でもいいくらいさ!」

「や、った……!じゃ、じゃあお言葉に甘えて、7時半集合にしましょう!」


 やっちまった。と我が口を呪う俺。の前の春野さんの顔には、ぱっと花開いたような笑顔が満ちていた。

 それを見ただけで、ああ正しい選択をしたなあと思ってしまうほどには、俺は春野さんの魅力にやられつつあった。


◇◇◇

 

 そして翌日は約束通り、二人とも仲良く始業一時間半前からオフィス入場を果たし、熱いアニメ談義を交わすこととなった。元々俺も興味の有るテーマだったことも手伝い、予想以上に話が転がり、90分という時間はあっという間に過ぎることになった。

 

 想定外だったのはあまりにも談義に花が咲きすぎたことだ。あっという間に訪れた始業時間の直前、「もっとお話したいです」なんて言われたら断れるわけもなく、以来なんと春野さんと俺の出社時間は一時間前がデフォルトとなった。


 部下のメンタルコンディションを整えるのも上司の役目。とは言え、正直毎日この早さで出社するというのはノーマル社会人には重い。重すぎる。


 けれど、誰にも心を開いてこなかったアイアンメイデン様と向き合いその笑顔を引き出すために四苦八苦するのは、ゲームのようで楽しい側面もあった。天岩戸に引きこもった天照様を誘い出そうとした踊りの神とやらも案外乗り気だったのではないかなどと思ってしまうほどに。


 まあ理由はそれだけではない。たとえ面白いゲームでも報酬が魅力的でなければ続かない。辛い早起きの先にあるのが無愛想で美しい邪教の天使様のにやにやした笑顔だからこそ俺は足を運んでいるのだという事実は、まあ認めざるを得ない。その味を知ってしまったからには、ちょっと以前の日常には戻れない身体になりつつある。


「……あの」

 

 早朝出社をキメて日常系ほのぼのアニメ『超常』について語らっていたある日、春野さんが言った。

 

「……せんぱいって、やっぱり変わっていますよね。こんな話にも、付き合ってくれますし」

「そんなことないよ。俺も楽しいし」

「……そう言ってもらえて、嬉しいです。……なんか、せんぱいと話していると、わたし……」

 

 にこにこの笑顔を萎ませて、少し顔を赤らめもじもじしだす春野さん。

 お、この展開は二度目だな。ふふ、こちとら前回の流れで学習していますよ。ここからオフィスラブ的な甘い展開になるなんていうベタなイベントが起きないことくらい承知していますよ俺は。せいぜい先輩への憧れを口にしてふふっと微笑む程度でしょう、それなら俺は人生の先達として余裕の笑みを浮かべてそれを受け止めますよ。そんな大人の振る舞いに春野さんがどきっとするくらいの展開はあるかもしれないがそれはまあ彼女の問題であって俺には何も関係が無いがそれでも彼女の方から想いを打ち明けてくれるというのであればそれはやぶさかではないというか何と言うか ーーー。

 

「実家の犬に話しかけてる時くらい気楽です」

 

 ガルルルル、と俺は唸った。

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