第25話 結局



**美咲の日記より — 2037年、初夏**


---


結局、私のことは全て忘れたらしい。


響さんは、もう私の名前を知らない。


「美咲」という名前も。


缶コーヒーの思い出も。


インターンの夏も。


全部。


消えた。


でも、いい。


慣れた。


12年も経てば、慣れる。


毎朝、同じことを繰り返す。


「おはよう」


「おはよう。君、誰?」


「美咲です」


「そう。美咲」


でも、3秒後には忘れている。


それでも、いい。


---


私も、忘れたいことばかり。


過ちを繰り返した人生。


田中さんとのこと。


あの雨の夜のこと。


中絶したこと。


お腹の子を失ったこと。


婚約者だと嘘をついたこと。


全部、忘れたい。


でも、忘れられない。


響さんは、全てを忘れていく。


でも、私は、全てを覚えている。


それが、私たちの違い。


響さんは、記憶を失う病気。


私は、記憶を抱え込む人生。


対照的だ。


残酷なほど、対照的だ。


---


でも。


今、隣で笑う、幼いように笑う四十歳の響さんがいる。


リビングのソファに座って。


テレビを見ている。


子供向けのアニメ。


「すごいね! かっこいいね!」


響さんが、目を輝かせている。


40歳の男性が。


まるで五歳児のように。


アニメに夢中になっている。


その姿を見て。


私は、微笑む。


可愛い。


そう思う。


40歳の男性に対して、可愛いなんて。


おかしいかもしれない。


でも、本当に可愛い。


純粋で。


無邪気で。


何も企まない。


何も隠さない。


ただ、目の前のものを楽しんでいる。


それが、今の響さん。


認知症が進行して。


もう、精神年齢は5歳くらい。


でも、それでいい。


笑っているから。


楽しそうだから。


それで、いい。


---


私のお母さんは、3年前に亡くなった。


癌だった。


最期、病院で。


私の手を握って。


「美咲、幸せになってね」


そう言った。


「幸せですよ、お母さん」


私は答えた。


母は、少し笑った。


「響さんのこと?」


「はい」


「結婚しなくてもいいの?」


「いいんです」


母は、何も言わなかった。


ただ、私の手を握り返した。


それから、数時間後。


母は、静かに息を引き取った。


葬式には、誰も来なかった。


父は、もういない。


親戚も、疎遠だった。


私ひとりで。


母を送った。


響さんは、連れて行けなかった。


だって、理解できないから。


「お葬式」の意味が。


「死」の意味が。


だから、施設に預けた。


一日だけ。


母を送る日だけ。


---


響さんのお母さんは、五年前に亡くなった。


心臓だった。


突然だった。


朝、響さんを施設に送った帰り。


スーパーで倒れた。


救急車で運ばれたけど。


間に合わなかった。


お葬式の日。


響さんは、わかっていなかった。


「お母さんは?」


何度も聞いた。


「お母さんは、遠くに行ったの」


私は、そう答えた。


「いつ帰ってくる?」


「わからない」


「そっか」


響さんは、すぐに忘れた。


次の日も。


「お母さんは?」


また、聞いた。


同じ答えを、返す。


それが、五年間続いている。


響さんは、母の死を。


理解していない。


いや、理解できない。


それが、ある意味。


救いなのかもしれない。


悲しまなくて済むから。


---


私は、独身のまま、あの会社に残った。


三十四歳。


もう、若くない。


同期は、みんな結婚した。


田村も。


他のみんなも。


私だけ。


独身。


「桜井さん、結婚しないの?」


たまに聞かれる。


「しません」


きっぱり答える。


「どうして?」


「理由は、ないです」


嘘だ。


理由はある。


響さんがいるから。


でも、それは言わない。


会社の人は、誰も知らない。


響さんのこと。


私が、毎日病院に通っていたこと。


今も、響さんの面倒を見ていること。


全部、秘密。


田中さんも、まだいる。


四十歳を過ぎた。


係長になった。


子供は、二人になった。


時々、廊下ですれ違う。


目を合わせない。


もう、十二年も。


あの夜のことは。


誰にも言っていない。


秘密のまま。


でも、私は覚えている。


忘れたくても、忘れられない。


それが、私の罰だ。


---


響さんは、病院で診るところは、進行するスピードを一定にする為だけの処方薬をもらう為だけ。


月に一度。


病院に行く。


診察室で。


医者が、響さんに話しかける。


「響さん、調子はどうですか」


響さんは、きょとんとしている。


「今日は、何月何日かわかりますか」


「……わからない」


「そうですか。お名前は?」


「響」


それは、覚えている。


自分の名前だけは。


「今、何歳ですか」


「……わからない」


医者は、私を見る。


「変わりないですね」


「はい」


「進行は、安定しています」


安定。


それは、良いことなのか。


悪いことなのか。


わからない。


でも、急に悪化しないなら。


それでいい。


処方箋をもらう。


薬局で、薬を受け取る。


毎日、朝晩。


響さんに飲ませる。


「これ、何?」


「お薬だよ」


「お薬?」


「うん。飲まないと、具合悪くなるよ」


「そっか」


響さんは、素直に飲む。


疑わない。


純粋だ。


---


他は、たまに失禁はあるけど、もう慣れた。


最初は、ショックだった。


響さんが、トイレに間に合わなくて。


床が、濡れていた。


「ごめん……」


響さんが、泣きそうな顔をした。


「大丈夫だよ」


私は、笑顔で言った。


「すぐ拭くから」


それから、何度もあった。


でも、もう慣れた。


おむつをするようになった。


響さんは、最初嫌がった。


「恥ずかしい・・」


「大丈夫。誰も見てないから」


「でも」


「大丈夫」


今は、慣れた。


響さんも。


私も。


おむつを替える時。


響さんは、じっとしている。


「ありがとう」


たまに、言う。


「どういたしまして」


私は、笑顔で答える。


これも、日常。


特別なことじゃない。


---


夫婦という選択肢は、選ばなかった。


選べなかった。


だって、響さんは。


もう、結婚の意味がわからない。


「夫婦になろう」


そう言っても。


「夫婦って、何?」


そう聞き返される。


それに。


私は、響さんの婚約者だと嘘をついた。


十二年前。


あの嘘から、全てが始まった。


だから、今更。


本当の婚約者になることは。


できない。


嘘の上に、真実を重ねることは。


できない。


それに。


戸籍上、夫婦になったら。


私の過去が、バレるかもしれない。


中絶のこと。


田中さんのこと。


全部。


だから、選ばなかった。


夫婦という形を。


でも。


---


でも、ずっと隣にいてほしい。


それだけは、本当。


響さんに。


ずっと、隣にいてほしい。


私のことを忘れても。


私の名前を知らなくても。


ただ、隣にいてほしい。


それが、私の願い。


朝、起きたら。


響さんが、隣にいる。


「おはよう」


「おはよう。君、誰?」


「美咲だよ」


「そう。美咲」


3秒で忘れる。


でも、いい。


朝ご飯を作る。


一緒に食べる。


「美味しいね」


響さんが、笑う。


それだけで、幸せ。


昼間、アニメを見る。


響さんが、笑っている。


私は、横で本を読む。


たまに、響さんが話しかけてくる。


「ねえ、見て。すごいよ」


「本当だね」


相槌を打つ。


響さんは、また画面に夢中になる。


夜、ご飯を食べる。


お風呂に入る。


一緒に。


響さんは、一人で入れないから。


「気持ちいいね」


響さんが、笑う。


「うん」


私も、笑う。


そして、ベッドに入る。


「おやすみ」


「おやすみ。君、誰?」


「美咲だよ」


「そう。おやすみ、美咲」


五秒後、忘れている。


でも、いい。


隣で、響さんが寝ている。


それだけで、いい。


---


私がついた最後の嘘。


それは。


「私は、幸せです」


という嘘。


母に。


友達に。


会社の人に。


みんなに。


「幸せです」


そう言った。


でも、本当に幸せなのか。


わからない。


独身で。


三十四歳で。


認知症の男性の面倒を見て。


毎日、同じことの繰り返し。


これは、幸せなのか。


でも。


不幸でもない。


響さんが、笑っているから。


響さんが、隣にいるから。


それだけで。


私は。


満たされている。


だから、たぶん。


幸せなんだと思う。


世間が言う「幸せ」とは。


違うかもしれない。


結婚もしていない。


子供もいない。


キャリアもない。


何もない。


でも。


響さんがいる。


それだけで。


いい。


だから。


「私は、幸せです」


これは。


嘘じゃない。


たぶん。


私がついた最後の嘘は。


嘘じゃなかった。


本当だった。


私は、幸せだ。


響さんと一緒にいられるから。


それだけで。


幸せだ。


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**美咲の日記より — 最後のページ**


十二年が経った。


響さんは、全て忘れた。


私のことも。


自分のことも。


ほとんど全て。


でも、笑っている。


毎日、笑っている。


それが、救い。


私は、全て覚えている。


過ちも。


秘密も。


罪も。


全部。


でも、それでいい。


響さんが忘れた分。


私が覚えている。


響さんが笑う分。


私が支えている。


それが、私たちの形。


対照的で。


でも、バランスが取れている。


君の嘘は、僕の真実。


僕の嘘は、君の嘘。


最初は、嘘だった。


婚約者だという、嘘。


でも、今は。


もう、嘘じゃない。


形は違うけど。


私たちは、一緒にいる。


それが、真実。


嘘から始まった真実。


それが、私たちの物語。


---


2037年、6月15日


梅雨の晴れ間。


窓から、光が差し込んでいる。


響さんが、窓辺に立っている。


「きれいだね」


響さんが、空を見上げている。


「うん、きれいだね」


私は、響さんの隣に立った。


「君、誰?」


響さんが、私を見た。


「美咲だよ」


「そう。美咲」


響さんは、また空を見た。


「美咲、ありがとう」


その言葉を聞いて。


私は、泣きそうになった。


響さんは、私のことを覚えていない。


でも。


「ありがとう」と言ってくれた。


それだけで。


十分だった。


「どういたしまして」


私は、笑顔で答えた。


そして、響さんの手を握った。


温かい手。


この手を。


ずっと、握っていたい。


この手を。


離したくない。


「ずっと、一緒にいようね」


私は、小さく呟いた。


響さんは、聞こえていないかもしれない。


三秒後には、忘れているかもしれない。


でも、いい。


私が、覚えているから。


私が、忘れないから。


二人の手を繋いだまま。


私たちは、窓の外を見ていた。


梅雨の晴れ間の。


青い空を。


その空は。


とても、広かった。


まるで、私たちの未来みたいに。


わからないけど。


きっと、続いていく。


ずっと。


二人で。


---


**完**


---


**エピローグ**


美咲は、メモ帳を閉じた。


十二年間、書き続けたメモ帳。


もう、何冊目かわからない。


全部、本棚にしまってある。


いつか、読み返すかもしれない。


いや、読み返さないかもしれない。


でも、書いてきた。


忘れないために。


響さんが忘れても。


私が覚えているために。


リビングから、響さんの笑い声が聞こえる。


また、アニメを見ているんだろう。


美咲は、立ち上がった。


響さんのところへ行く。


「何見てるの?」


「これ! すごいんだよ!」


響さんが、目を輝かせている。


美咲は、隣に座った。


画面を見る。


子供向けのアニメ。


でも、響さんは夢中だ。


美咲も、一緒に見る。


そして、気づく。


これが、幸せなんだと。


特別なことじゃない。


ただ、隣にいること。


それが、幸せなんだと。


「美咲」


響さんが、突然名前を呼んだ。


美咲の心臓が、跳ねた。


名前を。


覚えていてくれた?


「はい」


「君、誰だっけ」


ああ、やっぱり。


忘れている。


でも、いい。


「美咲だよ」


「そっか。ありがとう、美咲」


「どういたしまして」


美咲は、微笑んだ。


そして、思った。


これが、私たちの日常。


これが、私たちの愛の形。


忘れられても。


何度でも、名乗る。


それが、私の愛し方。


窓の外では。


鳥が飛んでいた。


自由に。


美咲も、いつか。


そうなれるだろうか。


秘密から。


罪悪感から。


解放される日が。


来るだろうか。


わからない。


でも、今は。


響さんの隣にいる。


それだけで。


いい。


美咲は、響さんの肩に頭を預けた。


響さんは、何も言わなかった。


ただ、アニメを見続けていた。


でも、それでいい。


美咲は、目を閉じた。


響さんの温もりを感じながら。


そして、思った。


君の嘘は、僕の真実。


僕の嘘は、君の嘘。


でも、最後には。


全部が、真実になった。


私たちの、真実に。


本当に、完


---


「君の嘘は僕の真実。僕の嘘は君の嘘」


2025年4月 - 2037年6月


響と美咲の、12年間の物語

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君の嘘は僕の真実。僕の嘘は君の嘘 あさき のぞみ @ASAKInozomi

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