第24話 全て
**美咲の日記より**
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梅雨入りした。
六月になった。
世界は、雨に包まれている。
そして、響さんも。
記憶の波に、飲み込まれている。
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その日によって、記憶の波があったらしい。
ある日は、良い。
「おはよう、美咲」
名前を呼んでくれる。
一度で、思い出してくれる。
話もできる。
笑ってくれる。
そんな日は、嬉しい。
まだ、大丈夫だと思える。
まだ、響さんは響さんだと。
でも。
次の日は、違う。
「誰?」
その一言。
何度聞いても、慣れない。
何度聞いても、心が痛い。
「美咲です」
「美咲……」
考え込む響さん。
それから、ようやく。
「ああ、美咲」
でも、その声には、確信がない。
本当に思い出したのか。
それとも、私に合わせてくれているだけなのか。
わからない。
記憶の波。
良い日と、悪い日。
その波は、だんだん大きくなっていく。
良い日が、少なくなる。
悪い日が、増えていく。
まるで、潮が引いていくように。
響さんの記憶が。
少しずつ。
でも、確実に。
消えていく。
医者が言った。
「これが、進行です」
冷静な声で。
「波はありますが、全体としては悪化していきます」
全体としては。
その言葉が、重い。
一時的に良くなっても。
結局は、悪くなる。
そういうことだ。
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本降りの雨の日。
六月十五日。
朝から、雨が降っていた。
激しい雨。
梅雨の、本降り。
私は、傘を差して病院に向かった。
雨音が、うるさい。
傘を叩く音。
地面を叩く音。
全部、うるさい。
まるで、私の心臓の音みたいに。
病院に着いた。
ずぶ濡れになった傘を、傘立てに入れる。
エレベーターに乗る。
響さんの階。
廊下を歩く。
看護師さんが、声をかけてきた。
「桜井さん」
「はい」
「今日、響さん、少し調子が……」
看護師さんの顔が、曇っている。
「悪いんですか」
「ええ。朝から、ずっと」
心臓が、冷たくなった。
「わかりました」
私は、病室に向かった。
ドアの前で、深呼吸。
それから、ノックした。
「どうぞ」
お母さんの声。
ドアを開ける。
響さんは、ベッドに座っていた。
窓の外を、ぼんやり見ている。
雨が、窓を叩いている。
「こんにちは」
私は、声をかけた。
響さんが、振り向いた。
私を見た。
でも。
何も言わない。
ただ、見ている。
「響さん?」
私は、近づいた。
響さんは、首を傾げた。
「誰?」
その一言。
「美咲です」
私は、いつものように答えた。
でも、響さんは。
「美咲?」
名前を、繰り返した。
でも、思い出さない。
「誰? 美咲って」
私の心臓が、止まった。
「私です。桜井美咲です」
「桜井……」
響さんは、また首を傾げた。
「知ってる人?」
お母さんが、椅子から立ち上がった。
「響、美咲さんよ。毎日来てくれてる」
「毎日?」
響さんは、お母さんを見た。
「この人、誰?」
お母さんの顔が、歪んだ。
「美咲さんよ。あなたの……」
言葉が、途切れた。
婚約者。
そう言いかけたけど、やめた。
だって、嘘だから。
「あなたの、大切な人よ」
お母さんは、そう言った。
響さんは、また私を見た。
「大切な人?」
「はい」
私は、頷いた。
涙をこらえながら。
「私、響さんの大切な人です」
響さんは、しばらく私を見ていた。
それから。
「ごめん」
小さく言った。
「思い出せない」
---
私は、泣いた。
その場で。
声を出して。
泣いた。
もう、我慢できなかった。
こらえられなかった。
「響さん」
涙が、止まらない。
「響さん、私です」
「私、美咲です」
「缶コーヒー、もらったんです」
「インターンの時」
「助けてくれたんです」
言葉が、溢れる。
でも、響さんは。
困った顔をしている。
「ごめん」
また、謝った。
「わからない」
その言葉が。
私の心を。
完全に、壊した。
お母さんが、私を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫」
優しく、背中をさすってくれる。
でも、大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
響さんが。
私の名前を。
もう、呼んでくれなくなった。
私のことを。
もう、覚えていない。
全部。
消えた。
私は。
もう。
響さんの中に。
いない。
「美咲さん、少し外に出ましょう」
お母さんが、私を廊下に連れ出した。
ベンチに座らされる。
お母さんが、ティッシュをくれた。
「ごめんなさいね」
お母さんが、謝った。
「こんなことになって」
「いえ」
私は、首を振った。
「私が、勝手に」
「勝手に、なんかじゃないわ」
お母さんは、私の手を握った。
「美咲さんは、本当に響のこと、想ってくれてる」
「でも、響さんは」
「忘れちゃったわね」
お母さんの目にも、涙が浮かんでいた。
「私のことも、時々わからなくなるの」
「お母さんのことも?」
「ええ。昨日も、『誰ですか』って聞かれた」
お母さんは、ハンカチで目を拭いた。
「自分の母親のことも、わからないのよ」
その言葉を聞いて。
私は、少しだけ。
ほんの少しだけ。
楽になった。
私だけじゃない。
お母さんも。
忘れられている。
響さんは。
もう、誰のことも。
覚えていられないんだ。
「でもね」
お母さんが言った。
「諦めないで」
「え?」
「また、思い出すかもしれない」
「でも」
「波があるから。明日は、もしかしたら」
お母さんは、微笑んだ。
でも、その笑顔は。
とても、悲しかった。
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**その夜、アパートで**
私は、メモ帳を開いた。
震える手で。
ペンを握った。
そして、書いた。
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**美咲の日記より**
六月十五日。
本降りの雨の日。
響さんは、私のことを忘れた。
名前も。
顔も。
全部。
「誰?」
そう聞かれた。
私は、泣いた。
病室で。
お母さんの前で。
声を出して、泣いた。
恥ずかしいとか。
みっともないとか。
そんなこと、どうでもよかった。
ただ、悲しかった。
響さんが。
私を忘れた。
それが、悲しかった。
でも。
お母さんが言った。
「また、思い出すかもしれない」
その言葉を信じたい。
信じたい。
でも。
怖い。
明日も。
明後日も。
ずっと。
「誰?」
そう聞かれ続けるのが。
怖い。
それでも。
行く。
病院に。
響さんのところに。
毎日。
何を言われても。
忘れられても。
行く。
だって。
私は。
響さんが好きだから。
この気持ちだけは。
本物だから。
嘘じゃないから。
だから。
行く。
明日も。
明後日も。
ずっと。
響さんが私を忘れても。
私は、響さんを忘れない。
絶対に。
---
書き終えて。
メモ帳を閉じた。
涙で、文字が滲んでいる。
でも、いい。
書けた。
この痛みを。
この悲しみを。
文字にできた。
私は、ベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋める。
そして、また泣いた。
声を殺して。
誰にも聞こえないように。
でも、涙は止まらない。
止められない。
響さん。
響さん。
何度も、名前を呼んだ。
でも、響さんは。
もう、私の声を。
覚えていない。
窓の外では。
まだ、雨が降っている。
本降りの雨。
まるで、私の涙みたいに。
止まらない雨。
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**翌日、六月十六日**
私は、また病院に行った。
雨は、まだ降っていた。
昨日よりは弱いけど。
まだ、降っている。
病室のドアを開ける。
「おはようございます」
響さんは、ベッドに座っていた。
顔を上げて。
私を見た。
そして。
「誰?」
また、その言葉。
「美咲です」
私は、笑顔で答えた。
涙をこらえて。
「昨日も来ました」
「そうなの?」
「はい」
「ごめん、覚えてない」
「大丈夫です」
私は、椅子に座った。
「また、お話ししましょう」
「うん」
響さんは、頷いた。
それから、窓の外を見た。
「雨、降ってるね」
「はい」
「嫌だな、雨」
「どうしてですか」
「わからない。でも、嫌だ」
響さんは、少し悲しそうだった。
私は、響さんの手を握った。
「大丈夫ですよ」
「そう?」
「はい。雨は、いつか止みますから」
響さんは、私を見た。
「君、優しいね」
「ありがとうございます」
私は、微笑んだ。
でも、心の中では。
泣いていた。
君、優しいね。
名前も、呼んでくれない。
ただ、「君」と呼ぶ。
もう、私の名前を。
覚えていないから。
それでも。
いい。
側にいられれば。
それだけで。
いい。
私は、そう思うことにした。
---
**美咲の日記より(夜)**
今日も、響さんは私を忘れていた。
「誰?」
また、聞かれた。
慣れない。
何度聞かれても、慣れない。
でも、答える。
「美咲です」
何度でも。
何百回でも。
答える。
いつか。
響さんが。
また思い出してくれる日まで。
波がある。
お母さんが言った。
だから、信じる。
明日は。
もしかしたら。
響さんが。
私の名前を。
呼んでくれるかもしれない。
その希望を。
捨てない。
捨てたら。
終わりだから。
だから。
信じる。
明日を。
響さんを。
そして。
私自身を。
雨は、まだ降っている。
でも。
いつか止む。
絶対に。
その日まで。
私は、待つ。
響さんの側で。
ずっと。
---
メモ帳を閉じた。
窓の外の雨を見る。
本降り。
まだ、本降り。
でも。
私は、もう泣かない。
今日は。
涙を、こらえた。
響さんの前では。
笑顔でいた。
それが。
私にできる。
唯一のこと。
だから。
明日も。
笑顔で行く。
響さんのところへ。
何度忘れられても。
何度「誰?」と聞かれても。
笑顔で。
「美咲です」
そう答える。
それが。
私の。
愛し方。
美咲は、ベッドに横になった。
目を閉じる。
でも、すぐには眠れない。
響さんの顔が。
浮かんでくる。
「誰?」
その言葉が。
耳に残っている。
でも。
大丈夫。
明日。
また会いに行く。
何度でも。
自己紹介する。
「美咲です」と。
それが。
私の日課。
私の、愛の形。
雨音を聞きながら。
美咲は、ゆっくりと眠りに落ちていった。
夢の中で。
響が、笑っていた。
そして、言った。
「美咲」と。
名前を、呼んでくれた。
それは、夢。
でも。
いつか。
現実になると。
美咲は、信じていた。
信じ続けると。
決めていた。
たとえ、全てを忘れられても。
たとえ、名前を呼んでもらえなくても。
美咲は。
響の側にいる。
それだけは。
変わらない。
絶対に。
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