第23話  俺



**響の独白**


---


俺は、何もわからない。


そう、思われている。


母も。


美咲も。


医者も。


看護師も。


みんな、そう思っている。


「響さん、これ覚えてますか」


「ごめん、覚えてない」


「そうですか」


諦めたような顔をされる。


でも。


本当に、何も覚えていないのか。


本当に、全部忘れたのか。


---


わからないフリをすれば良い。


そう、思った。


いつからだろう。


美咲が、嘘をついていることに気づいた時。


「私、響さんの婚約者です」


母に、そう言った。


でも、違う。


俺は、知っている。


婚約者なんかじゃない。


だって、覚えているから。


美咲との、最初の出会い。


インターンの夏。


会議室で、一人で頑張っていた美咲。


缶コーヒーを渡した。


「お疲れ様」


美咲の、驚いた顔。


それから、嬉しそうに笑った顔。


全部、覚えている。


でも、言わない。


「誰だっけ」


そう言う。


美咲が、悲しそうな顔をする。


「美咲です」


「ああ、美咲か」


思い出したフリをする。


本当は、ずっと覚えているのに。


なぜ、そんなことをするのか。


わからない。


いや、わかっている。


美咲の嘘を、守るためだ。


---


そうすれば、過去の過ちも、美咲のことも、缶コーヒーのことも、忘れたフリをすれば良い。


過去の過ち。


詩織のこと。


2019年の夏。


事故。


車椅子。


全部、俺のせいだ。


詩織の足を、奪った。


詩織の人生を、壊した。


その罪は、消えない。


一生、消えない。


でも。


忘れたフリをすれば。


楽になれる。


「覚えてない」


そう言えば。


みんな、諦める。


「仕方ないですね。病気だから」


病気のせいにできる。


便利だ。


認知症って、便利だ。


何でも、忘れたことにできる。


美咲のことも。


美咲が、俺のことを想ってくれていることも。


美咲が、嘘をついてまで側にいてくれることも。


全部、知っている。


でも、知らないフリをする。


だって、俺には。


美咲に応えることができないから。


俺は、もうすぐ。


全部、本当に忘れる。


美咲の顔も。


美咲の名前も。


全部。


だから、今のうちに。


距離を置いた方がいい。


美咲のために。


忘れたフリをする。


それが、俺にできる。


唯一の、優しさだ。


缶コーヒーのことも。


あの日、美咲に渡したこと。


覚えている。


でも、忘れたフリをする。


「思い出した」


そう言った日もあった。


美咲が、すごく嬉しそうだった。


涙を浮かべて。


笑っていた。


でも、数日後。


また、忘れたフリをした。


「誰だっけ」


美咲の顔が、曇った。


ごめん。


心の中で、謝った。


でも、これでいいんだ。


美咲が、諦めてくれれば。


俺から、離れてくれれば。


それでいいんだ。


---


その願いが、静かに叶っただけだ。


俺は、願っていた。


何も、覚えていたくない。


詩織のことも。


事故のことも。


罪のことも。


全部、忘れたい。


そして、今。


その願いが、叶いつつある。


本当に、忘れていく。


少しずつ。


でも、確実に。


記憶が、消えていく。


母の顔。


ぼんやりとしか、思い出せない。


美咲の顔。


時々、わからなくなる。


詩織の顔。


もう、ほとんど思い出せない。


俺は、空っぽになっていく。


でも、それでいい。


それが、俺の願いだったから。


何も、覚えていたくなかった。


何も、背負いたくなかった。


だから、願った。


忘れたい、と。


そして、その願いは。


静かに、叶っている。


神様は、いるのかもしれない。


俺の願いを、聞いてくれた。


でも、残酷だ。


忘れたいものだけじゃなく。


忘れたくないものも。


一緒に、消えていく。


美咲の笑顔。


母の優しさ。


缶コーヒーの温もり。


全部。


---


**ある日の午後**


美咲が、来た。


「こんにちは、響さん」


俺は、顔を上げた。


美咲を見た。


綺麗な人だ。


でも、誰だっけ。


「えっと……」


「美咲です」


美咲が、少し悲しそうに言った。


「ああ、美咲」


思い出したフリをする。


でも、本当は。


覚えている。


この人は、美咲。


俺のことを、想ってくれている人。


嘘をついてまで、側にいてくれる人。


全部、わかっている。


でも、言わない。


「今日も、来てくれたんだ」


「はい」


美咲は、椅子に座った。


「響さん、今日は調子どうですか」


「まあまあかな」


俺は、適当に答えた。


本当は、頭が痛い。


本当は、何もかも、わからなくなりそうで怖い。


でも、言わない。


美咲を、心配させたくない。


「そうですか」


美咲は、微笑んだ。


でも、その笑顔は。


どこか、無理をしているように見えた。


「美咲」


「はい?」


「ありがとう」


「え?」


「いつも、来てくれて」


美咲の目が、少し潤んだ。


「いえ、当たり前ですから」


「そうか」


俺は、窓の外を見た。


「でも、もう来なくていいよ」


「え?」


美咲の声が、震えた。


「俺、もうすぐ全部忘れるから」


「そんな」


「美咲のことも、忘れる」


「響さん」


「だから、もう来なくていい」


俺は、美咲を見た。


美咲は、泣いていた。


「来なくて、いいって言われても」


美咲は、涙を拭いた。


「私、行きます」


「どうして」


「だって、好きだから」


その言葉を聞いて。


俺の胸が、痛んだ。


好き。


美咲は、俺のことが好きだと言った。


でも、俺は。


応えられない。


だって、もうすぐ。


全部、忘れるから。


「ごめん」


俺は、小さく言った。


「響さん?」


「ごめん、美咲」


「何が、ごめんなんですか」


「俺、君に何もしてあげられない」


「いいんです」


美咲は、首を振った。


「何もしてくれなくても、いいんです」


「でも」


「ただ、側にいさせてください」


美咲は、俺の手を握った。


「それだけで、いいんです」


その手の温もりを感じて。


俺は、思った。


ああ、俺は。


本当は、忘れたくないんだ。


この温もりを。


この人を。


でも、忘れていく。


願ったから。


自分で、願ったから。


俺は、自分で自分を罰しているんだ。


詩織を傷つけた罰。


忘れることで。


全部、消すことで。


---


**その夜**


俺は、一人で考えた。


メモ帳を開く。


そこには、自分で書いた文字が並んでいる。


『美咲のことを、忘れないように』


『詩織のこと。2019年夏。事故』


『母の名前』


全部、忘れないように書いた。


でも、書いても。


忘れていく。


俺は、新しいページを開いた。


ペンを握る。


手が、震えている。


そして、書いた。


『俺は、本当は覚えている。美咲のこと。缶コーヒーのこと。全部。でも、忘れたフリをしている。それが、俺にできる唯一のことだから』


書き終えて。


そのページを、破った。


丸めて。


ゴミ箱に捨てた。


この嘘は。


誰にも知られてはいけない。


美咲にも。


母にも。


誰にも。


俺は、何も覚えていない。


そう、思われていた方がいい。


そう、思われていなければ。


みんな、俺を責める。


「どうして忘れるの」


「もっと頑張って」


「思い出して」


でも、俺は。


もう、限界なんだ。


だから。


何も覚えていないフリをする。


それが、楽なんだ。


みんなのためにも。


俺のためにも。


---


**響の独白(続き)**


俺の願いは、静かに叶っている。


忘れたい。


そう願った。


そして、忘れていく。


でも、本当は。


忘れたくない。


美咲のことも。


母のことも。


詩織のことも。


全部、覚えていたい。


でも、もう遅い。


願ってしまったから。


そして、その願いは。


神様に、届いてしまったから。


俺は、空っぽになっていく。


静かに。


でも、確実に。


これが、俺の選んだ道だ。


詩織を傷つけた、罰だ。


美咲を悲しませる、罰だ。


母を心配させる、罰だ。


全部、俺の罰だ。


だから、受け入れる。


忘れることを。


空っぽになることを。


それが、俺の。


贖罪だ。


---


**でも**


心の奥で。


小さな声が聞こえる。


「本当に、それでいいのか」


わからない。


「美咲は、どうなる」


わからない。


「母は、どうなる」


わからない。


「お前は、逃げているだけじゃないのか」


……そうかもしれない。


俺は、逃げている。


忘れることで。


何も覚えていないフリをすることで。


全部から、逃げている。


でも、もう。


引き返せない。


願ってしまったから。


忘れたいと。


そして、その願いは。


もう、叶いつつあるから。


俺は、ベッドに横になった。


天井を見つめる。


白い天井。


いつも見ている天井。


でも、明日になったら。


この天井のことも。


忘れているかもしれない。


ここが、どこかも。


わからなくなるかもしれない。


それでも、いい。


いや、いいはずだ。


俺は、そう思うことにした。


目を閉じる。


暗闇。


その暗闇の中で。


美咲の顔が、浮かんだ。


泣いている顔。


「好きだから」


その言葉が、耳に残っている。


ごめん。


心の中で、謝った。


ごめん、美咲。


俺は、君の気持ちに。


応えられない。


だって、俺は。


もうすぐ、君のことも。


忘れるから。


いや、忘れたフリをするから。


それが、俺の選んだ道だから。


---


響は、眠りに落ちた。


夢の中で。


誰かが、呼んでいた。


「響」と。


でも、それが誰の声なのか。


もう、わからなかった。


響の願いは。


静かに、叶っていた。


忘れることで。


全部から、逃げることで。


でも、その代償は。


あまりにも、大きかった。


響は、まだ知らなかった。


自分の選んだ道が


どこに続いているのかを。

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