第22話 私のこと あなたのこと



**美咲の日記より**


---


私は、最低だ。


既婚者の会社の人に、身を任せた。


田中さん。


優しかった人。


いや、優しいと思っていた人。


でも、違った。


あの人も、ただの人だった。


弱い人だった。


私と、同じ。


---


抵抗すれば良かったのかもしれない。


あの時。


田中さんがキスをしてきた時。


手を払えば良かった。


「やめてください」と言えば良かった。


部屋から出て行ってもらえば良かった。


でも。


私は、何もしなかった。


ただ、身を任せた。


なぜ?


疲れていたから?


孤独だったから?


温もりが欲しかったから?


全部、言い訳だ。


本当は。


私は、逃げたかったんだ。


響さんのことから。


同期のことから。


会社のことから。


中絶のことから。


全部から。


だから、田中さんに身を任せた。


その瞬間だけは。


何も考えなくて済むから。


その瞬間だけは。


私じゃない誰かになれるから。


でも。


終わったら。


また、私に戻った。


最低な私に。


---


私は、温もりと引き換えに、冷たさを手に入れた。


あの夜。


田中さんの体温は、確かに温かった。


抱きしめられた時。


少しだけ。


救われた気がした。


「大丈夫」


そう言われた気がした。


でも、朝になったら。


田中さんは、出て行った。


「誰にも言わないで」


そう言って。


その言葉が。


私を凍らせた。


ああ、そうか。


これは、なかったことにするんだ。


秘密にするんだ。


私は、また秘密を増やしたんだ。


そして、田中さんも。


温もりは、一瞬だった。


でも、冷たさは。


ずっと残っている。


会社で田中さんを見る度に。


目を合わせない田中さんを見る度に。


冷たい。


凍えそうなほど、冷たい。


私は、温もりが欲しかった。


でも、手に入れたのは。


冷たさだった。


---


私は、こんな奴だ。


嘘つきで。


弱くて。


汚れていて。


響さんに「婚約者です」と嘘をついて。


お腹の子を、消して。


田中さんと、寝て。


全部、私がしたことだ。


誰のせいでもない。


私が、選んだことだ。


私は、こんな奴だ。


最低な奴だ。


でも。


---


でも、響さんに会いたいって思うことは、悪なのか。


毎日、考える。


病院に行く度に、考える。


こんな汚れた私が。


響さんの側にいていいのか。


響さんは、何も知らない。


私の嘘も。


私の秘密も。


私がしたことも。


全部、知らない。


いや、知らないんじゃない。


忘れている。


私のことさえ、忘れかけている。


それなのに。


私は、会いに行く。


毎日。


「こんにちは、響さん」


笑顔で。


何事もなかったように。


そして、響さんは言う。


「えっと……誰だっけ」


その度に。


胸が痛い。


でも、答える。


「美咲です」


そして、響さんは思い出す。


「ああ、美咲か」


その瞬間だけ。


私は、救われる。


忘れられても。


また思い出してもらえる。


その繰り返し。


でも、それでいい。


それでも、会いたい。


響さんに。


これは、悪なのか。


こんな汚れた私が。


響さんを想うことは。


側にいたいと思うことは。


悪なのか。


---


**月曜日の夜**


病院に行った。


響さんは、ベッドに座っていた。


窓の外を見ていた。


「響さん」


「ん?」


響さんが、振り向いた。


そして、少し首を傾げた。


「美咲、だよね」


「はい」


良かった。


今日は、一度で思い出してくれた。


「今日も、来てくれたんだ」


「はい」


私は、椅子に座った。


「今日は、どうでしたか」


「まあまあかな」


響さんは、また窓の外を見た。


「でも、わからないんだ」


「何がですか」


「今日、何をしたのか」


響さんは、少し困った顔をした。


「朝起きて、ご飯食べて、それから……」


言葉が途切れた。


「それから、何をしたか、思い出せない」


「大丈夫ですよ」


私は、響さんの手を握った。


「私が、覚えてますから」


響さんは、私を見た。


「ありがとう」


そして、微笑んだ。


その笑顔を見て。


私は、思った。


ああ、これだ。


この笑顔を見たくて。


私は、ここに来るんだ。


汚れていても。


最低でも。


この笑顔を見れるなら。


それでいい。


---


**美咲の日記より(続き)**


今日、響さんは私に微笑んでくれた。


その笑顔を見て、思った。


私は、響さんが好きだ。


本当に、好きだ。


嘘の婚約者だけど。


この気持ちだけは、本物だ。


田中さんと寝たことも。


お腹の子を消したことも。


全部、私の罪だ。


でも、響さんを好きだという気持ちは。


罪じゃない。


そう思いたい。


いや、そう思わせてほしい。


じゃないと。


私は、もう。


生きていけない。


響さんを想うことだけが。


私の、支えなんだ。


汚れた私の。


最低な私の。


唯一の、光なんだ。


だから。


会いに行く。


毎日。


何を言われても。


誰に嫌われても。


会いに行く。


それが、悪だとしても。


私は、行く。


響さんの側に。


---


**その夜、アパートで**


私は、ベッドに座っていた。


メモ帳を、開いた。


書こうとした。


でも、ペンが動かない。


何を書けばいい。


田中さんのこと?


書けない。


文字にしたら。


現実になる。


消せなくなる。


私は、メモ帳を閉じた。


そして、お腹に手を当てた。


癖になっている。


もう、そこには何もないのに。


「ごめんね」


小さく呟いた。


「私、最低だね」


答えは、返ってこない。


当たり前だ。


もう、いないんだから。


私が、消したんだから。


涙が、出てきた。


でも、拭わなかった。


泣きたい時は。


泣けばいい。


誰も、見ていない。


この涙を。


この痛みを。


誰も、知らない。


私は、一人だ。


ずっと、一人だ。


響さんも。


私のことを、忘れていく。


お母さんも。


私の本当の姿を、知らない。


田中さんも。


もう、私を見ない。


同期も。


私を避ける。


私は、一人だ。


でも。


それでいい。


一人で、いい。


響さんの笑顔を見れるなら。


それだけで、いい。


私は、そう思うことにした。


---


**翌日、会社で**


田中さんと、すれ違った。


廊下で。


二人きり。


田中さんは、目を逸らした。


「おはようございます」


私は、言った。


「……おはよう」


田中さんは、小さく答えた。


それだけ。


それだけで、通り過ぎた。


冷たい。


やっぱり、冷たい。


温もりは、あの夜だけだった。


私は、デスクに座った。


仕事を始めた。


いつものように。


何事もなかったように。


でも、心の中では。


ずっと、考えていた。


私は、最低だ。


でも、響さんに会いたい。


この二つの気持ちが。


私の中で、せめぎ合っている。


どっちが勝つんだろう。


わからない。


でも、今は。


響さんに会いたいという気持ちの方が。


強い。


だから、今日も。


病院に行く。


響さんに会いに。


---


**美咲の日記より(最後)**


私のこと。


私は、最低だ。


嘘つきで、弱くて、汚れている。


でも。


あなたのこと。


響さん。


あなたを想うことだけは。


悪じゃないと思いたい。


いや、思わせてほしい。


これだけが。


私の、支えなんだ。


だから。


会いに行く。


毎日。


あなたが、私を忘れても。


私は、あなたを忘れない。


絶対に。


それが、私の。


唯一の、真実だから。


---


メモ帳を閉じた。


窓の外を見る。


雨は、止んでいた。


でも、私の心には。


まだ、雨が降っている。


止まない雨。


でも、いつか。


止む日が来るだろうか。


わからない。


でも、今は。


響さんの側にいよう。


それだけを、考えよう。


美咲は、立ち上がった。


病院に行く支度をする。


いつものように。


何事もなかったように。


でも、心の中では。


ずっと、謝り続けている。


「ごめんなさい」と。


でも、その言葉は。


誰にも届かない。


ただ、美咲の心の中に。


沈んでいくだけ。


美咲は、部屋を出た。


病院に向かう。


響のところへ。


汚れた手で。


最低な心で。


でも、それでも。


会いに行く。


それが、美咲の選択だった。

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