第21話  俺のこと  君のこと



**田中の独白**


---


俺は、弱い。


誰にも言わないように話した。


あの朝、桜井さんの部屋を出る時。


「これ、誰にも言わないで」


そう言った。


桜井さんは、頷いた。


「わかりました」


その顔を、今でも覚えている。


疲れた顔。


泣いた後の顔。


そして、諦めたような顔。


俺は、最低だ。


---


雨が降っていたとか、全ては言い訳でしかない。


傘を忘れた。


濡れた。


桜井さんが、傘に入れてくれた。


それだけのことだった。


でも、俺は。


「よかったら、タオル貸しますよ」


その言葉に、甘えた。


部屋に入った。


タオルを借りた。


お茶を飲んだ。


それだけで、終わるはずだった。


でも、終わらなかった。


桜井さんが、泣き始めた。


「辛かった」


その言葉を聞いて。


俺は、彼女を抱きしめた。


慰めるつもりだった。


本当に。


でも。


いつの間にか。


俺の中の何かが、変わっていた。


桜井さんの体温。


桜井さんの匂い。


桜井さんの、柔らかさ。


全部が。


俺の理性を、奪っていった。


そして、俺は。


キスをした。


---


だけど、なぜ君は、抵抗することもできたはずなのにしなかったんだろう。


桜井さんは、何も言わなかった。


抵抗もしなかった。


ただ、身を任せた。


まるで、諦めているように。


まるで、どうでもいいと思っているように。


俺は、それを同意だと思った。


いや、思いたかった。


でも、本当は。


わかっていた。


桜井さんは、抵抗する気力もなかったんだ。


響のことで。


会社のことで。


全部で。


疲れ果てていたんだ。


だから、俺に身を任せた。


温もりが、欲しかったんだ。


誰かに、支えてほしかったんだ。


でも、俺は。


その弱さに、つけ込んだ。


最低だ。


本当に、最低だ。


---


俺には、妻も幼い子どももいるのに。


家に帰ると、妻が起きていた。


「おかえり。遅かったね」


「ああ、残業で」


嘘をついた。


「ご飯、温めようか」


「いや、いい。もう食べた」


また、嘘をついた。


妻は、心配そうに俺を見た。


「大丈夫? 疲れてるみたいだけど」


「大丈夫」


また、嘘。


俺は、嘘つきになった。


一晩で。


寝室に入ると、息子が寝ていた。


三歳。


小さな体を丸めて。


スヤスヤと。


俺は、息子の顔を見た。


「ごめん」


小さく呟いた。


「パパ、最低なことした」


息子は、何も知らない。


妻も、何も知らない。


知らない方がいい。


知ったら、終わりだ。


家族が、壊れる。


俺は、ベッドに横になった。


でも、眠れなかった。


桜井さんの顔が、浮かんでくる。


泣いていた顔。


身を任せていた顔。


朝、出て行く時の顔。


全部。


「くそ」


小さく呟いた。


「俺、何やってんだ」


---


月曜日


週末を挟んで。


月曜日が来た。


会社に行く。


いつもの通勤電車。


いつものオフィス。


でも、全部が違って見えた。


俺は、変わってしまった。


デスクに座る。


桜井さんは、まだ来ていない。


響のデスクは、空いている。


『入院中』


その付箋が、俺を責めているようだった。


響。


お前の婚約者と、寝た。


いや、婚約者じゃない。


でも、響のことを想っている女性と。


俺は、最低だ。


「おはようございます」


声がした。


桜井さんだった。


「おはよう」


俺は、普通に答えた。


桜井さんは、俺を見なかった。


自分のデスクに座って。


パソコンを起動して。


仕事を始めた。


まるで、何もなかったように。


でも、俺にはわかる。


桜井さんの肩が、少し震えている。


顔色が、悪い。


目の下に、クマができている。


俺のせいだ。


全部、俺のせいだ。


---


昼休み。


食堂で、同僚と昼食を取っていた。


「田中さん、週末どうでした?」


「ああ、家族と過ごしてたよ」


嘘だ。


土曜日も日曜日も。


ずっと、あの夜のことを考えていた。


「いいですね。奥さん、元気ですか」


「ああ、元気だよ」


妻の顔が、浮かんだ。


何も知らない、妻の顔。


「息子さんも大きくなったでしょう」


「ああ、もう三歳だからな」


息子の顔が、浮かんだ。


無邪気に笑う、息子の顔。


「パパ、大好き」


そう言ってくれる、息子。


俺は、そんな息子を裏切った。


妻を裏切った。


響を裏切った。


そして、桜井さんを傷つけた。


「田中さん?」


「ん?」


「大丈夫ですか。ぼーっとしてますよ」


「ああ、ちょっと寝不足で」


また、嘘をついた。


俺は、嘘つきだ。


---


夕方。


桜井さんが、席を立った。


トイレに行くのか。


それとも、病院に行くのか。


俺は、知らない。


いや、知りたくない。


桜井さんの背中を見た。


小さな背中。


華奢な背中。


その背中に、俺は何を背負わせたんだろう。


十五分後。


桜井さんが戻ってきた。


目が、赤い。


泣いていたのか。


トイレで。


一人で。


俺のせいだ。


「桜井さん」


声をかけようとした。


でも、やめた。


何を言えばいい。


謝る?


「あの夜のこと、ごめん」


そんなこと、言えるわけがない。


だって、誰にも言わないって約束したから。


俺は、卑怯だ。


本当に、卑怯だ。


---


その夜


家に帰った。


妻が、夕食を作っていた。


「おかえり」


「ただいま」


息子が、駆け寄ってきた。


「パパ!」


「おう」


俺は、息子を抱き上げた。


軽い体。


温かい体。


「パパ、今日ね、保育園でね」


息子が、嬉しそうに話す。


俺は、聞いていた。


でも、頭の中は。


桜井さんのことでいっぱいだった。


「田中?」


妻が、心配そうに俺を見た。


「最近、様子おかしいよ」


「そう?」


「うん。何かあった?」


「いや、何も」


また、嘘をついた。


妻は、それ以上聞かなかった。


でも、わかっているのかもしれない。


何かを。


夕食を食べた。


息子と、風呂に入った。


息子を、寝かしつけた。


「パパ、大好き」


息子が、眠る前に言った。


「パパも、大好きだよ」


俺は、答えた。


でも、心の中で。


ごめん、と呟いた。


パパは、最低なんだ。


君が思っているような、いいパパじゃないんだ。


---


**深夜**


ベッドに横になった。


妻は、もう寝ている。


俺は、天井を見つめた。


このまま、何もなかったことにするのか。


桜井さんとも。


妻とも。


響とも。


何も言わずに。


でも、それでいいのか。


俺は、スマホを取り出した。


桜井さんの連絡先を開く。


メッセージを書きかけた。


『あの夜のこと』


でも、消した。


何を書けばいい。


謝る?


でも、謝って済むことじゃない。


俺は、スマホを置いた。


そして、目を閉じた。


でも、眠れなかった。


桜井さんの顔が。


妻の顔が。


息子の顔が。


響の顔が。


全部、浮かんでくる。


俺は、全員を裏切った。


そして、誰にも言えない。


この罪は、俺だけのものだ。


いや、違う。


桜井さんも、同じ罪を背負っている。


俺が、背負わせた。


「ごめん」


小さく呟いた。


「本当に、ごめん」


でも、その言葉は。


誰にも届かなかった。


---


翌日


また、会社に行った。


桜井さんも、来た。


俺たちは、目を合わせなかった。


話もしなかった。


まるで、何もなかったように。


でも、何かが変わった。


俺と、桜井さんの間に。


見えない壁ができた。


誰にも言えない秘密という、壁。


そして、その壁は。


どんどん高くなっていく。


俺は、弱い。


本当に、弱い。


だから、逃げる。


この罪から。


この後悔から。


でも、逃げられない。


桜井さんの顔を見る度に。


思い出す。


あの夜を。


俺がしたことを。


俺が奪ったものを。


---


**田中のメモより**


誰にも見せないメモ。


スマホのメモアプリに書いた。


『俺は最低だ。桜井さんを傷つけた。でも、誰にも言えない。妻にも。響にも。誰にも。この罪は、一生背負っていく。ごめん。本当に、ごめん』


書いて。


すぐに消した。


証拠を残してはいけない。


でも、心には残っている。


消えない罪が。


---


だけど、なぜ君は、抵抗することもできたはずなのにしなかったんだろう。


その問いに。


答えはない。


いや、答えはわかっている。


桜井さんは、弱かったんだ。


俺も、弱かったんだ。


二人とも、弱かった。


だから、あんなことになった。


でも、それは言い訳だ。


全部、言い訳でしかない。


雨が降っていたとか。


傘を忘れたとか。


桜井さんが泣いていたとか。


全部、言い訳。


俺は、ただ。


弱かっただけだ。


そして、その弱さで。


桜井さんを傷つけた。


響を裏切った。


妻を裏切った。


息子を裏切った。


全員を。


---


田中は、その日も会社に行った。


いつものように。


何事もなかったように。


でも、心の中では。


ずっと、謝り続けていた。


誰にも聞こえない声で。


「ごめん」と。


でも、その言葉は。


誰にも届かなかった。


そして、田中は知らなかった。


桜井さんが、どれほど苦しんでいるかを。


桜井さんが、どれほど自分を責めているかを。


田中は、ただ。


自分の罪だけを数えていた。


それが、また。


新たな罪になるとも知らずに。


---


オフィスでは。


何事もなかったように。


時間が流れていた。


でも、二人の間には。


深い溝ができていた。


誰にも見えない。


でも、確かにある。


秘密という名の、溝が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る