第20話 田中さんの優しさ



**美咲の日記より**


---


田中さんは、響さんのこともそうだが、私のことも優しくしてくれた。


仕事の時も。


「桜井さん、この資料、俺が手伝うよ」


「大丈夫です」


「いや、一人じゃ大変だろ」


田中さんは、いつもそうだった。


同期が冷たくしても。


田村が意地悪な目で見ても。


田中さんだけは、優しかった。


「桜井さん、無理すんなよ」


「はい」


「響のことも大事だけど、自分のことも大事にしろよ」


その言葉が、嬉しかった。


誰も、私を気にかけてくれない中で。


田中さんだけが、私を見てくれていた。


そんな時。


あの日は、雨だった。


---


五月の終わり。


梅雨入りしたばかりの、金曜日。


夕方から、雨が強くなった。


「うわ、すごい雨だな」


田中さんが、窓の外を見て言った。


「本当ですね」


私は、自分のデスクで仕事を続けていた。


定時を過ぎても、まだ仕事が残っている。


「桜井さん、まだやってるの?」


「はい、もう少しで終わるので」


「そっか。俺も、もうちょっとだな」


オフィスには、私たちと、あと数人だけ。


部長も、もう帰った。


静かなオフィス。


雨の音だけが、響いている。


30分後…。


私は、仕事を終えた。


「お疲れ様です」


田中さんに声をかけた。


「お、終わった? お疲れ」


「田中さんは、まだですか」


「あと15分くらいかな」


「そうですか。じゃあ、お先に」


「気をつけてな」


私は、オフィスを出た。


エレベーターに乗る。


一階に降りる。


ビルの外は、土砂降りだった。


傘を差す。


でも、風が強くて、雨が横から吹き付けてくる。


駅に向かって歩く。


「桜井さん!」


後ろから声がした。


振り返ると、田中さんが走ってきた。


傘を持っていない。


ずぶ濡れになっている。


「田中さん、傘は?」


「忘れた。朝、晴れてたから」


田中さんは、頭を掻いた。


「やっちまった」


「これ、一緒に入りますか」


私は、傘を差し出した。


「いいの?」


「はい。同じ方向ですし」


「助かる。ありがとう」


田中さんが、私の隣に入った。


傘は、小さい。


二人で入るには、狭い。


田中さんの肩が、半分濡れている。


「田中さん、もっとこっちに」


「いや、大丈夫」


「大丈夫じゃないです。風邪ひきますよ」


「桜井さんこそ、濡れてるじゃん」


「私は大丈夫です」


私たちは、並んで歩いた。


雨の中。


狭い傘の下。


田中さんの体温が、近い。


「桜井さん、響のこと、最近どう?」


「相変わらず、です」


「そっか」


田中さんは、前を見たまま言った。


「大変だな」


「はい」


「でも、桜井さん、偉いよ。ちゃんと支えてあげてて」


「いえ、そんな」


「いや、本当に」


田中さんは、私を見た。


「俺には、できないよ」


その言葉が、胸に響いた。


誰も、私を褒めてくれない。


同期は、陰口を言う。


母は、心配する。


響のお母さんは、感謝してくれるけど、申し訳なさそう。


でも、田中さんは。


私を、認めてくれた。


駅に着いた。


でも、雨は止む気配がない。


「田中さん、どこまで?」


「3つ先」


「じゃあ、電車一緒ですね」


「そうだな」


私たちは、電車に乗った。


混んでいる車内。


立ったまま。


田中さんのスーツが、濡れている。


肩も、背中も。


「田中さん、大丈夫ですか」


「ああ、まあ」


でも、少し震えているように見えた。


「家、近いんですか」


「駅から10分くらい」


「傘、ないですよね」


「ああ。まあ、もう濡れてるし、いいよ」


「それ、風邪ひきますよ」


私は、少し考えた。


それから、言った。


「あの、よかったら」


「ん?」


「私の家、駅から五分なんです。タオルくらいなら、貸せますけど」


田中さんは、少し驚いた顔をした。


「いや、悪いよ」


「大丈夫です。響さんの同僚ですし」


「でも」


「お願いです。このまま帰って、風邪ひかれたら、私が気になって」


田中さんは、少し考えた。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


「はい」


私は、微笑んだ。


駅に着いた。


私たちは、また傘に入った。


私のアパートまで、5分。


「ここです」


古いアパート。


二階建て。


私の部屋は、二階の端。


「狭いですけど、どうぞ」


ドアを開けた。


田中さんが、入ってくる。


「お邪魔します」


私は、電気をつけた。


六畳一間の部屋。


キッチンと、小さなバス・トイレ。


「タオル、持ってきますね」


私は、クローゼットからタオルを取り出した。


「はい」


「ありがとう」


田中さんは、髪を拭いた。


それから、スーツの水を拭く。


でも、びしょ濡れだ。


「あの、よかったらシャツ、脱ぎますか」


「え」


「乾かしますから」


「いや、でも」


「大丈夫です。その間、これ着てください」


私は、大きめのパーカーを渡した。


「彼氏の?」


「いえ、私のです」


田中さんは、少し躊躇した。


でも、頷いた。


「じゃあ、お願いします」


田中さんは、シャツを脱いだ。


筋肉質な体。


私は、目を逸らした。


「パーカー、どうぞ」


「ありがとう」


田中さんは、パーカーを着た。


私は、シャツをハンガーにかけた。


「お茶、入れますね」


「ありがとう」


私は、キッチンに立った。


お湯を沸かす。


田中さんは、部屋を見回していた。


「一人暮らし、長いの?」


「大学からです」


「そっか」


私は、お茶を入れた。


「どうぞ」


「ありがとう」


田中さんは、カップを受け取った。


私は、向かいに座った。


沈黙。


雨の音だけが、聞こえる。


「桜井さん」


「はい」


「本当に、ありがとう」


「いえ」


田中さんは、お茶を飲んだ。


それから、私を見た。


「桜井さん、無理してない?」


「え?」


「響のこと、頑張りすぎてない?」


私は、下を向いた。


「大丈夫です」


「本当に?」


田中さんが、近づいてきた。


「桜井さん、最近顔色悪いよ」


「そんなこと」


「痩せたし」


田中さんの手が、私の肩に触れた。


「無理しないで」


その優しさが。


その温もりが。


私の中で、何かが崩れた。


「田中さん」


涙が、溢れた。


「私、もう」


言葉が続かない。


田中さんが、私を抱きしめた。


「大丈夫。泣いていいよ」


その言葉で。


堰が切れた。


私は、声を上げて泣いた。


田中さんの胸で。


「辛かった」


「うん」


「誰にも言えなくて」


「うん」


「響さんは、私を忘れて」


「うん」


「同期は、私を嫌って」


「うん」


田中さんは、ただ聞いてくれた。


私の背中を、優しくさすりながら。


どのくらい泣いただろう。


涙が枇れた頃。


私は、顔を上げた。


田中さんを見た。


田中さんも、私を見ていた。


距離が、近い。


息遣いが、聞こえる。


「桜井さん」


田中さんの声が、低い。


私は、何も言えなかった。


ただ、見つめていた。


そして。


田中さんが、キスをした。


---


優しさなんてない。


ただの男だった。


---


私は、抵抗しなかった。


いや、できなかった。


体が、動かなかった。


田中さんの手が、私の体を触る。


「桜井さん」


「……」


私は、何も言えなかった。


ただ、身を任せた。


この温もりに。


この優しさに。


いや、違う。


これは、優しさじゃない。


でも、気づいた時には。


もう、遅かった。


---


**翌朝**


目が覚めた。


隣に、田中さんが寝ていた。


私は、何をしたんだろう。


ゆっくりと起き上がる。


体が、重い。


心も、重い。


田中さんが、目を覚ました。


「おはよう」


「……おはようございます」


気まずい沈黙。


「昨日は、ごめん」


田中さんが言った。


「いや、俺が悪かった」


「いえ」


私は、首を振った。


「私も」


田中さんは、服を着た。


「じゃあ、俺、帰るよ」


「はい」


田中さんは、ドアに向かった。


それから、振り返った。


「桜井さん、これ」


「はい?」


「誰にも言わないで」


その言葉が、私の心に突き刺さった。


「わかりました」


田中さんは、出て行った。


私は、一人残された。


ベッドに座る。


シーツが、乱れている。


昨日の痕跡。


「何やってるんだろう、私」


小さく呟いた。


響さんがいるのに。


響さんの側にいたいって言ったのに。


なのに。


私は。


涙が、また溢れた。


でも、今度は違う。


後悔の涙。


罪悪感の涙。


「ごめんなさい」


誰に謝っているのか。


響さんに?


田中さんに?


それとも、自分に?


わからない。


ただ、泣いた。


---


**美咲の日記より**


誰にも言えない秘密が、また増えた。


1つ目の秘密。


響さんの偽りの婚約者。


2つ目の秘密。


お腹の中の子を、消したこと。


そして、3つ目。


田中さんと、寝たこと。


私は、どんどん汚れていく。


嘘と、秘密で。


罪悪感で。


でも、止められない。


もう、引き返せない。


私は、メモ帳を開いた。


でも、書けなかった。


これだけは、書けない。


文字にしたら。


現実になる。


私は、メモ帳を閉じた。


そして、ベッドに倒れ込んだ。


「響さん」


小さく呟いた。


「ごめんなさい」


でも、響さんは聞いていない。


響さんは、もう私を覚えていない。


だから、この罪悪感も。


この後悔も。


私だけのもの。


誰も、知らない。


誰も、知ってはいけない。


窓の外は、まだ雨だった。


終わらない雨。


私の心も、雨だった。


止まない雨。


洗い流せない、罪の雨。


私は、目を閉じた。


でも、眠れなかった。


田中さんの体温が。


まだ、残っている気がして。


それが、私を苦しめた。


月曜日、会社に行くのが怖い。


田中さんと、顔を合わせるのが怖い。


でも、行かなきゃいけない。


普通に。


何事もなかったように。


また、嘘をつき続ける。


また、秘密を抱え続ける。


私は、そういう人間なんだ。


嘘つきで。


弱くて。


汚れた人間。


それでも。


響さんの側にいたい。


矛盾している。


わかっている。


でも、やめられない。


私は、どこまで堕ちていくんだろう。


答えは、わからなかった。


ただ、雨の音だけが。


私の罪を、洗い流そうとしていた。


でも、洗い流せない。


この罪は。


一生、消えない。

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