第19話 進行
**響の記録より(断片的)**
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一時的にだが、俺の状態は良くなったらしい。
「らしい」というのは、俺自身がよく覚えていないからだ。
母が言った。
「響、この一週間、すごく調子よかったのよ」
「そうなの?」
「ええ。美咲さんとの話も、ちゃんと覚えてたし」
母は、嬉しそうに言った。
「初めて会った時のことを、思い出したりしてたらしいわよ」
初めて会った時。
美咲との。
「そうなんだ」
でも、俺にはその記憶がない。
思い出したこと自体を、忘れている。
「でも、それも一時だけだったらしい」
母の声が、少し沈んだ。
「今は、また……」
言葉が途切れた。
でも、わかる。
また、悪くなっているんだ。
俺の状態が。
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**美咲の日記より**
ゴールデンウィーク明け。
五月七日。
私は、会社に戻った。
一週間ぶりのオフィス。
「おはようございます」
同期たちが、集まっている。
田村が、私を見た。
「あ、桜井さん。久しぶり」
「おはようございます」
「ゴールデンウィーク、どうだった?」
「まあ、普通に」
嘘だ。
病院に通い詰めていた。
響さんの側にいた。
「そっか」
田村は、何か言いたげだったが、何も言わなかった。
私は、自分のデスクに座った。
響さんのデスクは、まだ空いている。
モニターには、付箋。
『入院中』
その文字を見て、胸が痛んだ。
「桜井さん」
部長が声をかけてきた。
「はい」
「響のこと、最近どう?」
「少し、良くなったみたいです」
本当は、またわからなくなっている。
でも、そうは言えなかった。
「そうか。よかった」
部長は、安心したような顔をした。
「早く、戻ってきてくれるといいんだけどな」
「はい」
でも、私は知っている。
響さんは、もう戻ってこれない。
この会社に。
この場所に。
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昼休み。
私は、一人で食堂に行った。
トレーを持って、席を探す。
田中さんが、手を振った。
「桜井さん、こっち」
私は、田中さんの向かいに座った。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。響のこと、聞いたよ」
「はい」
「少し良くなったって」
「ええ、一時的ですけど」
田中さんは、箸を置いた。
「一時的?」
「また、戻ってしまったみたいで」
「そうか……」
田中さんは、少し考えた。
「認知症って、そういうものなのか」
「らしいです」
私も、よくわからない。
でも、医者が言っていた。
「症状には、波があります」
良くなったり、悪くなったり。
でも、全体的には、悪化していく。
それが、若年性認知症。
「響、大変だな」
田中さんが呟いた。
「まだ若いのに」
「はい」
「桜井さんも、大変だろ」
「いえ、そんな」
「いや、大変だよ。毎日病院行ってるんだろ」
「はい」
「無理すんなよ」
田中さんは、優しく言った。
「桜井さんが倒れたら、響も困るから」
その言葉が、胸に染みた。
「ありがとうございます」
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その日の夕方。
私は、病院に向かった。
いつもの電車。
いつもの景色。
でも、心は重い。
響さん、今日はどうだろう。
私のこと、覚えてるかな。
病院に着いた。
エレベーターに乗る。
廊下を歩く。
ナースステーションの前を通る。
看護師さんが、声をかけてきた。
「桜井さん」
「はい」
「今日、響さん、すごく元気ですよ」
「本当ですか」
「ええ。お母様と、たくさん話してました」
「そうなんですね」
少し、安心した。
病室のドアを開ける。
「こんにちは」
響さんと、お母さんがいた。
二人とも、笑っていた。
「あ、美咲さん」
お母さんが、嬉しそうに言った。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
響さんは、私を見た。
そして、微笑んだ。
「美咲」
名前を呼んでくれた。
一瞬で。
迷わずに。
「はい」
私は、椅子に座った。
「響さん、今日は調子いいんですか」
「ああ、なんかスッキリしてる」
響さんは、頭を指差した。
「ここが」
「よかったです」
「それでね」
お母さんが言った。
「響、今日、色々思い出したのよ」
「思い出した?」
「ええ。美咲さんとの、最初の出会いとか」
私の心臓が、跳ねた。
「本当ですか」
響さんは、頷いた。
「ああ。君、インターンで来たんだろ」
「はい!」
私は、思わず身を乗り出した。
「覚えてるんですか」
「うん。会議室で、一人で資料作ってた」
「はい、はい」
「俺、缶コーヒー持っていったよな」
「持ってきてくれました!」
涙が、溢れそうになった。
覚えてる。
響さんが、覚えてる。
「君、すごく困った顔してた」
響さんは、少し笑った。
「でも、頑張ってた」
「はい」
私は、涙をこらえた。
「響さんが、助けてくれました」
「大したことしてないけどな」
「私には、大したことでした」
響さんは、窓の外を見た。
「そっか」
それから、私を見た。
「今度は、俺が助けてもらう番か」
「はい」
私は、頷いた。
「何度でも、助けます」
お母さんが、目を拭いた。
「よかった」
小さく呟いた。
「本当に、よかった」
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その夜。
私は、メモ帳に書いた。
『5月7日。響さん、私との最初の出会いを思い出してくれた。缶コーヒーのこと。会議室のこと。全部。嬉しかった。涙が出そうだった』
書き終えて、メモ帳を閉じた。
でも、お母さんの言葉が、頭に残っていた。
「でも、それも一時だけだったらしい」
一時だけ。
また、忘れてしまうんだ。
今日のことも。
私のことも。
全部。
私は、ベッドに横になった。
天井を見つめる。
でも、今日は少し、希望があった。
一時的でも。
響さんが、思い出してくれた。
それだけで、十分だった。
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**3日後。5月10日。**
私は、また病院に行った。
いつものように。
でも、今日は違った。
病室のドアを開けると。
響さんは、窓の外を見ていた。
「こんにちは」
私は、声をかけた。
響さんが、振り向いた。
「あ」
それだけ言って、首を傾げた。
「えっと……誰だっけ」
心臓が、止まった。
「美咲です」
「美咲……」
響さんは、少し考えた。
「ああ、美咲か」
でも、その反応は、三日前と違った。
確信がない。
迷っている。
また、忘れかけている。
「響さん、覚えてますか。三日前、私たちの最初の出会いの話をしたの」
「最初の出会い?」
「はい。インターンの時」
響さんは、首を振った。
「ごめん、覚えてない」
その言葉が、私の胸を貫いた。
「そうですか」
私は、微笑んだ。
でも、涙が出そうだった。
また、忘れた。
せっかく、思い出してくれたのに。
また、忘れた。
お母さんが、廊下で待っていた。
「美咲さん」
「はい」
「ごめんなさいね」
お母さんの目が、赤い。
「昨日まで、ちゃんと覚えてたのに」
「大丈夫です」
私は、首を振った。
「また、思い出させますから」
でも、お母さんは首を振った。
「医者が言ってたの」
「何を?」
「一時的に良くなることはあっても、全体としては進行していくって」
進行。
その言葉が、重い。
「これから、もっと……」
お母さんは、言葉を濁した。
でも、わかった。
もっと、悪くなる。
もっと、忘れていく。
私のことも。
お母さんのことも。
全部。
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**美咲の日記より**
その時、響さんはよく笑ってた。
らしい。
私は、その笑顔を見れなかった。
三日前は、確かに笑っていた。
でも、今日は、もう笑わなかった。
窓の外を、ぼんやり見ているだけ。
私が話しかけても、上の空。
時々、「誰?」と聞く。
その度に、私は答える。
「美咲です」
でも、響さんは、もう覚えていない。
一時的に良くなった。
でも、また戻った。
いや、もっと悪くなった。
それが、進行。
それが、若年性認知症。
私は、メモ帳を開いた。
三日前のページ。
『響さん、私との最初の出会いを思い出してくれた』
その文字を見つめた。
それから、新しいページに書いた。
『5月10日。響さん、また忘れた。三日前のことも。私のことも。でも、大丈夫。私が覚えてる。響さんが笑ってたこと。私の名前を呼んでくれたこと。全部、私が覚えてる』
書き終えて、メモ帳を閉じた。
窓の外は、雨だった。
五月の雨。
冷たい雨。
私の心も、冷たかった。
でも、諦めない。
また、思い出させる。
何度でも。
何度忘れられても。
私は、響さんの側にいる。
それだけは、変わらない。
たとえ、響さんが私を忘れても。
私は、響さんを忘れない。
絶対に。
私は、病院を出た。
雨の中を歩く。
傘も差さずに。
ずぶ濡れになりながら。
でも、気にしなかった。
どうせ、涙も流れているから。
雨と、涙が、混ざっていた。
駅に着く頃には、全身びしょ濡れだった。
電車に乗る。
人々の視線が、気になる。
でも、気にしない。
ただ、座って。
窓の外を見る。
雨が、窓を叩いている。
まるで、私の心を叩いているみたいに。
スマホが震えた。
母からだった。
電話に出る。
「もしもし」
『美咲? 大丈夫? 声、変よ』
「大丈夫」
嘘だ。
『本当に?』
「本当」
また、嘘をついた。
『無理しないでね』
「うん」
電話を切った。
私は、窓に頭を預けた。
冷たいガラス。
でも、心地いい。
目を閉じた。
そして、思った。
響さんの笑顔を、もう一度見たい。
私の名前を、もう一度呼んでほしい。
でも、それは。
もう、叶わないのかもしれない。
それでも。
私は、諦めない。
絶対に。
電車は、雨の中を走り続けた。
美咲を乗せて。
どこまでも。
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