第18話 私の秘密


**美咲の日記より**


---


私には、誰にも言えない秘密がある。


母にも。


響さんにも。


誰にも。


---


大学三年の時。


私には、同棲している彼氏がいた。


名前は、大地。


健太と別れた後、出会った人。


サークルの先輩だった。


「美咲、俺と一緒に住まない?」


大地が言った。


「え?」


「一人暮らし、寂しいだろ」


寂しかった。


健太と別れてから、ずっと一人だった。


「でも」


「いいじゃん。家賃も折半できるし」


大地は、笑顔で言った。


「考えとく」


でも、私の答えは決まっていた。


一週間後。


私は、大地のアパートに転がり込んだ。


大学に行かずに、二人でいる時間の方が楽しくて。


「今日も、休む?」


大地が聞いた。


「うん」


私は、ベッドから起き上がらなかった。


「じゃあ、俺も休むわ」


大地も、隣に横になった。


二人だけの時間を、いつも過ごしていた。


講義なんて、どうでもよかった。


就活なんて、まだ先だった。


ただ、大地といられれば、それでよかった。


「美咲」


「ん?」


「好きだよ」


「私も」


大地は、私を抱きしめた。


いつもと同じように。


そして、いつもと同じように。


大地は、私を抱いた。


避妊。


しなかった。


いや、できなかった。


してほしいなんて、言えなかった。


だって。


いつまでも一緒にいると思っていたから。


この人と、ずっと。


だから、大丈夫。


そう思っていた。


---


でも、違った。


大学四年の春。


就活が始まった。


大地は、うまくいかなかった。


「くそ、また落ちた」


大地が、スマホを投げた。


「大丈夫、次があるよ」


「次、次って、もう何社目だよ」


大地の声が、荒くなった。


「美咲は、どうなんだよ」


「私は、まあまあ」


「まあまあって、内定もらったのか」


「……うん」


大地の顔が、歪んだ。


「ふーん」


それから、大地は何も言わなかった。


でも、空気が変わった。


ギスギスした空気。


「ねえ、大地」


「何」


「一緒に、ご飯作ろ」


「疲れた」


大地は、ベッドに横になった。


背中を向けて。


私は、一人でキッチンに立った。


涙が、出そうになった。


---


ある日。


大地が、言った。


「なあ、別れよう」


「え?」


「もう、無理だわ」


「何が?」


「お前といると、劣等感しかない」


大地は、私を見なかった。


「就活うまくいってるお前見てると、イライラする」


「そんな」


「悪いけど、出てってくれ」


「大地」


「頼むよ」


大地は、部屋を出て行った。


私は、一人残された。


---


一週間後。


私は、荷物をまとめた。


元のアパートに戻った。


一人。


また、一人になった。


そして。


気がついた。


生理が、遅れている。


一ヶ月以上。


「まさか」


私は、ドラッグストアに行った。


妊娠検査薬を買った。


レジで、店員の目が気になった。


でも、買った。


家に帰って。


トイレで。


恐る恐る、検査キットにおしっこをかける。


一分間、待つ。


長い一分間。


そして。


結果が出た。


二本線。


陽性。


私は、その場に座り込んだ。


「嘘」


小さく呟いた。


「嘘でしょ」


でも、検査薬は嘘をつかない。


私は、妊娠していた。


大地の子を。


もう別れた、大地の子を。


---


私は、三日間、何も考えられなかった。


ベッドに横になって。


天井を見つめて。


何も食べられなかった。


母から、電話があった。


『美咲? 元気?』


「うん、元気」


嘘だった。


『声、元気ないけど』


「大丈夫」


また、嘘をついた。


『無理しないでね』


「うん」


電話を切った。


私は、お腹に手を当てた。


ここに。


命が。


大地との子が。


でも。


大地は、もういない。


私を捨てた。


そして、私は。


まだ大学生。


仕事も、まだ始まってない。


お金も、ない。


育てられない。


母に、相談する?


いや、できない。


心配かける。


父が亡くなってから、母は一人で私を育ててくれた。


これ以上、迷惑かけられない。


大地に、言う?


いや、無理だ。


劣等感だと言われて、別れを告げられた。


今さら、妊娠したなんて言えない。


じゃあ。


私は。


どうすれば。


---


私は、一人で決断した。


産めない。


育てられない。


だから。


病院を探した。


中絶手術をしてくれる病院。


検索すると、たくさん出てきた。


「こんなに、たくさん」


世の中には、私みたいな人が、たくさんいるんだ。


そう思ったら、少しだけ楽になった。


でも、すぐに罪悪感が襲ってきた。


私は、一つの命を。


これから、消すんだ。


予約した。


来週の水曜日。


大学は、休もう。


---


手術の前日。


私は、お腹に手を当てた。


まだ、膨らんでない。


でも、確かに、ここにいる。


「さようなら」


小さく呟いた。


「ごめんね」


涙が、溢れた。


「産んであげられなくて、ごめんね」


私は、声を殺して泣いた。


一晩中。


---


水曜日。


私は、病院に行った。


受付で、名前を告げる。


「桜井美咲さんですね。こちらへどうぞ」


個室に通された。


医者が来た。


「では、説明します」


淡々とした声。


手術の方法。


リスク。


費用。


すべて、機械的に説明された。


「同意書に、サインをお願いします」


私は、ペンを握った。


手が、震えている。


でも、書いた。


自分の名前。


それから、手術室に案内された。


「では、麻酔をしますね」


看護師が、優しく言った。


私は、台に横になった。


天井のライトが、眩しい。


麻酔が、腕に入ってくる。


意識が、遠くなる。


「ごめんなさい」


最後に、呟いた。


それから。


暗闇。


---


目が覚めた。


個室のベッドだった。


下腹部が、少し痛い。


「お目覚めですね」


看護師が、様子を見に来た。


「はい」


「痛みは?」


「少し」


「痛み止め、出しますね」


看護師が出て行った。


私は、お腹に手を当てた。


もう、いない。


空っぽだ。


涙が、また溢れた。


「ごめんなさい」


何度も、呟いた。


「ごめんなさい」


---


それから、数ヶ月。


私は、普通に生活した。


大学に行って。


就活して。


友達と笑って。


誰も、気づかなかった。


私が、何をしたか。


私の中で、何が起きたか。


でも、私は知っている。


私は、一つの命を消した。


その罪悪感は、ずっと残っている。


そして、それから。


生理不順になった。


体が、私を罰しているのかもしれない。


---


**現在、2025年ゴールデンウィーク**


美咲は、ベッドに座っていた。


メモ帳を、握りしめて。


書こうと思った。


この秘密を。


でも、書けなかった。


書いたら、現実になる気がして。


響さんにも、言えない。


お母さんにも、言えない。


誰にも。


この秘密は、私だけのもの。


墓場まで、持っていく。


美咲は、メモ帳を閉じた。


窓の外を見る。


ゴールデンウィークの空は、青かった。


でも、美咲の心は、灰色だった。


「響さん」


小さく呟いた。


「私、汚れてます」


誰にも届かない言葉。


「こんな私が、響さんの側にいていいんでしょうか」


答えは、わからなかった。


美咲は、立ち上がった。


病院に行こう。


響さんに会いに。


それだけが、今の美咲にできること。


美咲は、部屋を出た。


お腹に手を当てる癖は、まだ残っていた。


もう、そこには何もないのに。


「ごめんなさい」


また、呟いた。


でも、その言葉は、風に消えた。


美咲は、駅に向かって歩いた。


いつもの道。


でも、今日は。


足が、重かった。


心も、重かった。


秘密の重さが、美咲を押しつぶしそうだった。


それでも、歩いた。


響さんのところへ。


たとえ、全部話せなくても。


たとえ、嘘をつき続けても。


側にいたい。


それだけが、美咲の願いだった。


電車に乗った。


窓の外を見る。


景色が流れていく。


美咲の目に、涙が浮かんだ。


でも、拭わなかった。


誰も、見ていない。


この涙を。


この痛みを。


誰も、知らない。


そして、それでいい。


美咲は、そう思った。


病院に着いた。


エレベーターに乗る。


響さんの階。


廊下を歩く。


病室の前に立つ。


深呼吸。


それから、ノックした。


「どうぞ」


響さんの声。


美咲は、ドアを開けた。


「おはようございます」


響さんは、ベッドに座っていた。


顔を上げて、美咲を見た。


「おはよう」


それから、少し考えた。


「えっと……」


美咲の心臓が、止まった。


「美咲、だよね」


響さんは、少し不安そうに聞いた。


「はい」


美咲は、微笑んだ。


でも、その笑顔の裏で。


心が、泣いていた。


忘れられても。


嘘をついても。


秘密を抱えても。


それでも。


この人の側にいたい。


美咲は、椅子に座った。


「響さん、今日は調子どうですか」


「まあまあかな」


響さんは、窓の外を見た。


「でも、昨日、変な夢を見た」


「夢ですか」


「ああ。事故の夢」


響さんの声が、少し暗くなった。


「俺が、誰かを傷つける夢」


美咲は、何も言えなかった。


私も。


私も、誰かを傷つけた。


お腹の中の、小さな命を。


でも、それは言えない。


「大丈夫ですよ」


美咲は、響さんの手を握った。


「夢は、夢ですから」


響さんは、美咲を見た。


「そうかな」


「そうですよ」


美咲は、強く言った。


自分に言い聞かせるように。


夢は、夢。


過去は、過去。


今は、今。


でも。


心の奥で。


小さな声が聞こえた。


「嘘つき」と。


美咲は、その声を無視した。


そして、響さんと話し続けた。


いつものように。


何事もなかったかのように。


秘密を、心の奥に閉じ込めて。


窓の外では、鳥が飛んでいた。


自由に。


美咲も、いつかそうなれるだろうか。


秘密から、解放される日が来るだろうか。


答えは、わからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る