第17話 2019 夏
**響の記憶より(断片)**
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俺は、いや、俺たちは海に向かっていた。
レンタカーで、高速を飛ばした。
夜に出発して、朝には海に着こうと話していた。
「ねえ、本当に夜中に出発するの?」
詩織が、少し不安そうに聞いた。
「大丈夫だって。その方が、朝日を海で見れるだろ」
俺は、自信満々に答えた。
「でも、響、夜の運転慣れてないでしょ」
「大丈夫。俺に任せて」
普段しないこと。
夜中になんか、運転なんかしたことなかった。
でも、あいつの前で良いところを見せたかった。
詩織は、俺の彼女だった。
付き合って、半年。
大学の同級生。
明るくて、優しくて、少し天然で。
俺は、詩織が好きだった。
「じゃあ、お願いね」
詩織は、助手席に座った。
「任せて」
俺は、エンジンをかけた。
時刻は、午前二時。
夏の夜。
高速道路は、空いていた。
「音楽、かけていい?」
「ああ」
詩織が、スマホをBluetoothに繋いだ。
夏の曲が流れてくる。
「この曲、好きなんだ」
詩織が、小さく歌った。
俺は、ハンドルを握りながら、横目で詩織を見た。
彼女は、楽しそうだった。
「響、前見て」
「わかってる」
俺は、前を向いた。
高速道路の灯りが、規則的に流れていく。
単調な景色。
「ねえ、海着いたら何する?」
「とりあえず、朝日見て、それから海に入ろうぜ」
「まだ水、冷たいかな」
「大丈夫だろ。夏だし」
「そうだね」
詩織は、窓の外を見た。
「楽しみだな」
「ああ」
俺も、楽しみだった。
詩織と、二人きりで。
海に行く。
初めての、旅行。
午前三時。
詩織の声が、小さくなった。
「響……眠くなってきた……」
「寝ていいよ。着いたら起こすから」
「でも、響、一人で運転……」
「大丈夫。俺、全然眠くないから」
本当は、少し眠かった。
でも、認めたくなかった。
「じゃあ……ちょっとだけ……」
詩織は、シートを倒した。
それから、目を閉じた。
しばらくして。
助手席から、確かに寝息が聞こえていた。
規則的な、穏やかな呼吸。
俺は、前を見た。
高速道路は、まっすぐ続いている。
車は、少ない。
たまに、トラックが追い越していく。
単調。
単調すぎる。
俺の瞼が、重くなってきた。
いや、大丈夫。
俺は、頬を叩いた。
窓を開けた。
夜風が、入ってくる。
でも、それでも。
眠い。
音楽を、大きくした。
でも、それでも。
俺の意識が、ぼんやりしてきた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
目を閉じた。
そして。
気がついた時には。
ガードレールが、目の前にあった。
「うわっ!」
俺は、反射的にハンドルを切った。
車が、大きく揺れた。
詩織が、目を覚ました。
「え、何?」
「大丈夫、大丈夫」
俺は、ハンドルを戻そうとした。
でも。
戻しすぎた。
車が、反対側に傾いた。
「響!」
詩織の叫び声。
俺は、ブレーキを踏んだ。
でも、間に合わなかった。
車が、横転した。
ガシャン。
ガリガリガリ。
金属が、地面を削る音。
ガラスが、割れる音。
詩織の悲鳴。
そして。
静寂。
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俺は、気がついた。
エアバッグが開いている。
鼻血が出ている。
体中が、痛い。
「詩織」
俺は、横を見た。
詩織が、シートに倒れている。
目を閉じている。
「詩織!」
俺は、彼女を揺すった。
「詩織、起きて!」
反応がない。
「嘘だろ」
俺は、シートベルトを外した。
ドアを開けようとした。
でも、開かない。
歪んでいる。
「くそ!」
俺は、窓から外に出た。
車は、横転していた。
ガードレールに、ぶつかっている。
「詩織!」
俺は、助手席側に回った。
ドアを開けようとする。
でも、開かない。
「誰か!」
俺は、叫んだ。
「誰か、助けて!」
高速道路は、静かだった。
車は、誰も通らない。
「くそ、くそ!」
俺は、窓ガラスを叩いた。
でも、割れない。
スマホ。
スマホで、救急車を。
俺は、ポケットを探った。
ない。
車の中か。
俺は、また運転席側に回った。
車内を覗く。
スマホが、足元に落ちている。
俺は、手を伸ばした。
なんとか、届いた。
画面が、割れている。
でも、動く。
119。
電話をかけた。
『119番です』
「事故です。高速道路で、事故です」
『場所を教えてください』
「わかりません。高速道路です。海に向かってて」
『落ち着いてください。どの高速道路ですか』
「東名です。たぶん」
『わかりました。近くに、キロポストは見えますか』
キロポスト。
俺は、周りを見た。
あった。
「120って書いてあります」
『わかりました。すぐに向かいます。けが人は?』
「彼女が、助手席で、動かないんです」
『意識はありますか』
「ありません」
『呼吸は?』
俺は、また助手席側に回った。
窓から、詩織の顔を見る。
「わかりません。でも、生きてます。生きてるはずです」
『わかりました。救急車が向かっています。その場を動かないでください』
電話が切れた。
俺は、その場に座り込んだ。
アスファルトが、冷たい。
体が、震えている。
「ごめん」
小さく呟いた。
「ごめん、詩織」
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サイレンの音が聞こえた。
救急車と、パトカー。
「大丈夫ですか!」
救急隊員が、駆け寄ってきた。
「俺は大丈夫です。でも、彼女が」
救急隊員は、助手席を確認した。
「こちら、女性、意識なし。すぐに救出します」
車のドアが、工具で開けられた。
詩織が、引き出された。
ストレッチャーに乗せられる。
「詩織!」
俺は、近づこうとした。
「あなたも、けがしてます。救急車に」
「いや、俺は大丈夫だから」
「いいえ、検査が必要です」
俺も、救急車に乗せられた。
詩織とは、別の救急車。
救急車の中で、俺は天井を見つめた。
これは、夢なんじゃないか。
そう思った。
でも、痛みが、現実を教えている。
「ごめん」
もう一度、呟いた。
「ごめん、詩織」
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病院に着いた。
俺は、検査を受けた。
打撲。
軽い脳震盪。
入院の必要はない、と言われた。
「彼女は?」
俺は、医者に聞いた。
医者は、少し表情を曇らせた。
「詳しくは、ご家族に説明します」
「教えてください。俺が、運転してたんです」
医者は、少し躊躇した。
それから、言った。
「脊髄損傷です」
脊髄。
「重傷です。手術をしましたが……」
医者は、言葉を濁した。
「下半身の感覚が、戻らない可能性があります」
下半身。
感覚が。
「歩けないってことですか」
「今の段階では、わかりません。でも、その可能性が高いです」
俺の頭が、真っ白になった。
歩けない。
詩織が。
俺のせいで。
「嘘だろ」
小さく呟いた。
「嘘だろ」
でも、医者の表情は、真実を語っていた。
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詩織の両親が来た。
母親は、泣いていた。
父親は、怒りを抑えているようだった。
「すみません」
俺は、頭を下げた。
「すみません」
何度も、何度も。
「娘は、あなたを信じたのに」
父親が、低い声で言った。
「すみません」
「もう、会わないでください」
その言葉が、俺の胸を貫いた。
「でも」
「お願いです」
母親が、涙を拭いながら言った。
「娘を、そっとしておいてください」
俺は、何も言えなかった。
ただ、頭を下げ続けた。
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それから、数週間。
俺は、詩織に会えなかった。
電話も、繋がらない。
メッセージも、既読にならない。
俺は、毎日病院に行った。
でも、面会を断られた。
「ご家族以外、面会謝絶です」
夏が、終わった。
俺は、詩織と海に行けなかった。
朝日も、見れなかった。
ただ、事故だけが残った。
そして、詩織は。
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**病院のベッドで、響は目を覚ました。**
2025年、ゴールデンウィーク。
「はあ、はあ」
息が荒い。
汗をびっしょりかいている。
夢。
いや、記憶。
2019年の夏の。
「両足が……」
響は、自分の足を見た。
ベッドの上に、ちゃんとある。
でも、詩織の足は。
気がついた時には、両足がなかった。
いや、違う。
両足は、あった。
でも、動かなかった。
感覚が、なかった。
俺のせいで。
「詩織……」
響は、顔を覆った。
「ごめん……」
ドアが開いた。
「響さん、大丈夫ですか」
看護師が入ってきた。
「うなされてましたよ」
「夢を……見ました」
「悪い夢ですか」
「ああ……いや」
響は、首を振った。
「夢じゃない。思い出しただけです」
「思い出し?」
「2019年の夏」
響は、窓の外を見た。
「俺が、誰かを傷つけた夏」
看護師は、何も言わなかった。
ただ、優しく響の背中をさすった。
「お水、持ってきますね」
看護師が出て行った。
響は、一人になった。
枕元のメモ帳を取った。
開く。
『山下詩織。2019年夏、海、事故。俺が運転。彼女は車椅子に。俺は忘れた』
自分で書いた文字。
でも、今、思い出した。
全部。
詩織の笑顔。
車の中の会話。
一瞬の居眠り。
横転。
詩織の悲鳴。
両親の涙。
全部。
響は、新しいページを開いた。
そして、書いた。
『2019年夏、思い出した。俺が詩織の足を奪った。俺のせいだ。全部、俺のせいだ』
書き終えて、メモ帳を閉じた。
響は、天井を見上げた。
「ごめん、詩織」
小さく呟いた。
「ごめん」
でも、その声は、誰にも届かなかった。
窓の外では、朝日が昇っていた。
2025年の、ゴールデンウィークの朝日。
俺たちが見るはずだった、朝日。
でも、あの日、見れなかった。
そして、もう二度と。
一緒に見ることは、ないんだ。
響は、目を閉じた。
涙が、流れた。
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