第16話 過呼吸
**美咲の日記より**
私は、これからどうすれば……。
響さん……教えて。
助けてよ。
あの夏みたいに。
助けて。
---
美咲は、飛び起きた。
息が、できない。
胸が、苦しい。
心臓が、早鐘を打っている。
部屋は、暗かった。
時計を見る。午前3時。
寝汗をびっしょりかいていた。
シーツも、パジャマも、全部濡れている。
「はあ、はあ、はあ」
呼吸が荒い。
息を吸っても、吸っても、空気が足りない。
美咲は、ベッドから降りた。
膝が震えている。
壁に手をついて、なんとか立つ。
鏡を見た。
青白い顔。
汗で濡れた髪。
震える唇。
「夢……」
小さく呟いた。
「夢だった」
ナンパされたこと。
路地裏に入ったこと。
腕を掴まれたこと。
振り払ったこと。
男が倒れたこと。
血が流れたこと。
救急車。
警察。
全部。
夢だった。
美咲は、その場に座り込んだ。
「夢だった」
もう一度、呟く。
でも、胸の苦しさは消えない。
息が、まだ浅い。
「はあ、はあ、はあ」
過呼吸だ。
美咲は、それを自覚した。
紙袋。
紙袋が必要だ。
でも、部屋には紙袋なんてない。
美咲は、両手で口を覆った。
自分の吐いた息を、また吸う。
「大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「夢だから。夢だから」
少しずつ、呼吸が整ってきた。
心臓の鼓動も、少し落ち着いてきた。
美咲は、壁に背中を預けた。
床に座ったまま。
天井を見上げる。
「嫌な夢……」
あんなにリアルな夢は、初めてだった。
男の顔。
血の色。
救急隊員の声。
警察の質問。
全部、鮮明に覚えている。
まるで、本当にあったことみたいに。
美咲は、スマホを手に取った。
画面を点ける。
メッセージは、何も来ていない。
着信履歴も、ない。
当たり前だ。
夢なんだから。
美咲は、スマホを置いた。
「響さん」
小さく呟いた。
「私は、これからどうすればいいの?」
答えは、返ってこない。
美咲は、立ち上がった。
洗面所に行く。
顔を洗う。
冷たい水が、頬を伝う。
鏡の中の自分を見た。
目の下に、クマができている。
最近、ちゃんと眠れていない。
夢を見る。
嫌な夢を。
響さんが、私のことを忘れる夢。
響さんが、誰かに連れて行かれる夢。
響さんが、いなくなる夢。
そして、今日の夢。
人を傷つける夢。
美咲は、顔を拭いた。
部屋に戻る。
ベッドに座る。
でも、もう眠れない。
窓の外は、まだ暗い。
でも、少しずつ明るくなってきている。
もうすぐ朝だ。
美咲は、メモ帳を開いた。
自分のメモ帳。
響さんのことを書き留めているメモ帳。
最後のページを開く。
『ゴールデンウィーク3日目。響さんのところに行けなかった』
そこで、止まっている。
美咲は、ペンを取った。
そして、書いた。
『ゴールデンウィーク4日目。嫌な夢を見た。人を傷つける夢。怖かった。響さんに会いたい』
書き終えて、メモ帳を閉じた。
スマホを見る。
まだ、午前四時。
病院は、まだ開いていない。
面会時間は、10時から。
あと、6時間。
長い。
美咲は、ベッドに横になった。
でも、目は閉じない。
天井を見つめる。
---
**あの夏みたいに。**
美咲の頭に、その言葉が浮かんだ。
あの夏。
いつの夏だ。
美咲は、記憶を辿った。
去年の夏。
インターンの夏。
響さんに、初めて会った夏。
あの日、美咲は何もできなくて。
コピー機の前で立ち尽くして。
会議室で一人で資料をまとめて。
孤独で。
無力で。
泣きそうだった。
そんな時。
響さんが、缶コーヒーを持ってきてくれた。
「お疲れ様」
その一言が、美咲を救った。
「一人で頑張ってるみたいだから」
その優しさが、美咲の心に染みた。
あの夏。
響さんが、助けてくれた夏。
でも、今は。
響さんは、病院にいる。
記憶を、少しずつ失っている。
美咲のことも、忘れかけている。
助けてほしいのは、美咲の方なのに。
助けを求めることができない。
「響さん」
美咲は、小さく呟いた。
「私、どうしたらいいの」
嘘をついている。
婚約者だと。
会社では浮いている。
同期からは嫌われている。
母には、心配をかけている。
そして、夢の中では。
人を傷つけている。
全部、嘘と罪悪感でできている。
「私、おかしくなってる」
美咲は、自分の頬を叩いた。
痛い。
「しっかりして」
もう一度、叩く。
「しっかりしなきゃ」
でも、涙が溢れた。
「でも、どうやって」
美咲は、枕に顔を埋めた。
声を殺して泣いた。
---
朝が来た。
美咲は、結局一睡もできなかった。
鏡を見る。
ひどい顔だ。
化粧でごまかす。
でも、目の下のクマは隠しきれない。
会社は、ゴールデンウィークで休み。
今日も、病院に行ける。
美咲は、支度をした。
いつものように。
でも、いつもと違う。
体が重い。
頭が、ぼんやりする。
玄関を出る。
駅に向かう。
いつもの道。
でも、夢の中の路地裏を思い出す。
男が倒れていた場所。
血が流れていた場所。
美咲は、足を止めた。
息が、また苦しくなる。
「はあ、はあ」
過呼吸の予兆。
美咲は、立ち止まって深呼吸した。
「大丈夫。夢だから」
通行人が、美咲を見る。
変な人を見るような目。
美咲は、歩き出した。
電車に乗る。
座席に座る。
窓の外を見る。
景色が流れていく。
でも、頭には夢の光景が焼き付いている。
病院に着いた。
美咲は、エレベーターに乗った。
響さんの病室がある階。
廊下を歩く。
ナースステーションの前を通る。
看護師さんが、美咲に声をかけた。
「桜井さん、おはようございます」
「おはようございます」
「響さん、今日は調子がいいですよ」
「そうなんですか」
「お母様も、まだ来てないので、ゆっくりお話しできますよ」
「ありがとうございます」
美咲は、病室のドアの前に立った。
深呼吸する。
それから、ノックした。
「どうぞ」
響さんの声。
美咲は、ドアを開けた。
「おはようございます」
響さんは、ベッドに座っていた。
顔を上げて、美咲を見た。
「おはよう」
それから、少し首を傾げた。
「えっと」
美咲の心臓が、止まった。
「誰だっけ」
その言葉が、美咲の胸を貫いた。
「美咲です」
美咲は、笑顔を作った。
でも、その笑顔は震えていた。
「美咲……ああ、美咲か」
響さんは、少し考えてから頷いた。
「ごめん、朝ボーッとしてて」
「大丈夫です」
美咲は、椅子に座った。
響さんは、窓の外を見た。
「今日も、いい天気だね」
「そうですね」
沈黙。
美咲は、響さんを見た。
響さんは、穏やかな顔をしている。
何も知らない顔。
美咲が嘘をついていることも。
美咲が苦しんでいることも。
美咲が、夢で人を傷つけたことも。
何も。
「響さん」
「ん?」
「私、これからどうしたらいいんでしょうか」
響さんは、美咲を見た。
「どうしたの? 急に」
「なんでもないです」
美咲は、首を振った。
「ただ、聞きたかっただけです」
響さんは、少し考えた。
「どうしたらいいか、なんて俺にもわからないよ」
響さんは、自分の手を見た。
「俺も、これからどうしたらいいか、わからないから」
その言葉を聞いて、美咲は気づいた。
響さんも、不安なんだ。
記憶を失っていく不安。
これから何が起きるかわからない不安。
美咲だけじゃない。
響さんも、苦しんでいる。
「響さん」
「ん?」
「一緒に、頑張りましょう」
響さんは、微笑んだ。
「ありがとう」
それから、付け加えた。
「美咲」
名前を呼んでくれた。
忘れないでいてくれた。
美咲は、涙をこらえた。
「はい」
響さんは、メモ帳を取り出した。
「これに、今日のこと書いておかないと」
ペンを走らせる。
『美咲が来た。一緒に頑張ろうと言ってくれた』
それを見て、美咲は自分のメモ帳も取り出した。
そして、書いた。
『ゴールデンウィーク4日目。響さんに「一緒に頑張ろう」と言った。響さんは微笑んでくれた。この笑顔を、忘れたくない』
書き終えて、メモ帳を閉じた。
外は、よく晴れていた。
ゴールデンウィークの空。
でも、美咲の心は、まだ暗かった。
夢の光景が、消えない。
過呼吸の恐怖が、消えない。
でも、響さんの笑顔を見て。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
光が見えた気がした。
「響さん」
「ん?」
「教えてください」
「何を?」
「あの夏のこと」
響さんは、首を傾げた。
「あの夏?」
「去年の夏です。私が、インターンで来た時」
響さんは、少し考えた。
「……ごめん、覚えてない」
やっぱり。
美咲は、わかっていた。
でも、聞きたかった。
「そうですよね」
「でも」
響さんは、美咲を見た。
「何か、大事なことがあったの?」
「はい」
美咲は、微笑んだ。
「響さんが、私を助けてくれたんです」
「助けた?」
「はい。缶コーヒーをくれて、優しい言葉をかけてくれて」
響さんは、少し照れたように笑った。
「そんな大したことじゃないだろ」
「私にとっては、大したことでした」
美咲は、響さんの手を握った。
「だから、今度は私が、響さんを助けます」
響さんは、美咲の手を握り返した。
「ありがとう」
その温もりを感じて。
美咲は思った。
これからも、嘘をつき続けるんだろう。
苦しみ続けるんだろう。
夢に怯え続けるんだろう。
でも、それでもいい。
この手を、離さなければ。
この温もりを、忘れなければ。
美咲は、大丈夫だと思った。
嫌な夢を見ても。
過呼吸になっても。
響さんがいる。
それだけで、美咲は前に進める。
「響さん」
「ん?」
「私、これからも側にいます」
響さんは、微笑んだ。
「頼もしいな」
「はい」
美咲も、微笑んだ。
でも、その笑顔の裏側で。
美咲の心は、まだ震えていた。
夢は、まだ終わっていない。
現実と夢の境界が、曖昧になっている。
いつか、本当に人を傷つけてしまうんじゃないか。
その恐怖が、美咲を蝕んでいた。
でも、今は。
今だけは。
響さんの側にいよう。
美咲は、そう決めた。
窓の外では、鳥が飛んでいた。
自由に。
美咲も、いつかそうなれるだろうか。
答えは、わからなかった。
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