第14話 母親の勘



俺の母親は、鈍感だと思っていた。


何も考えずにやり過ごそうとするタイプだと。


父親が亡くなった後も、明るく振る舞って。


俺が大学に入った時も、「頑張ってね」と笑顔で送り出して。


何も深く考えていないように見えた。


でも、実際には真逆だった。


入院四日目の朝。


母は、いつもより早く病院に来た。


「おはよう、響」


「おはよう」


母は、椅子に座った。


それから、少し間を置いて言った。


「響、話があるの」


「何?」


「美咲さんのこと」


美咲。


俺は、母を見た。


「美咲が、どうした」


「あの子、嘘ついてるわ」


嘘。


「何が?」


「婚約者だって」


母は、静かに言った。


「嘘よ」


俺は、言葉を失った。


「どうして、わかるの」


「お母さん、あなたの母親よ。わかるわ」


母は、窓の外を見た。


「最初に会った時から、わかってた」


最初から。


「美咲さん、あなたを見る目が、婚約者の目じゃなかったもの」


「どういう目だったの」


「片思いの目」


母は、俺を見た。


「あの子、あなたに恋してる。でも、あなたはあの子のこと、知らない」


知らない。


そうだ、俺は美咲を知らない。


「じゃあ、なんで婚約者だって」


「あなたの側にいたかったからでしょう」


母は、優しく微笑んだ。


「病院に付き添うにも、家族じゃないと難しいから」


家族じゃないと。


「お母さん、それなら」


「わかってるわ。お母さんが来たから、もう美咲さんに無理させなくていい」


母は、鞄から何かを取り出した。


「でもね」


「何?」


「お母さん、美咲さんのこと、悪く思ってないのよ」


母は、写真を見せた。


美咲が、響の病室で笑っている写真。


「これ、いつの?」


「昨日、撮ったの」


母は、写真を優しく撫でた。


「あの子、本当にあなたのこと、大切に思ってる」


「でも、嘘ついてる」


「嘘だけど、本当よ」


本当?


「あの子の気持ちは、本当。嘘なのは、関係性だけ」


母は、写真をしまった。


「響、お母さん、あの子を責めないわ。むしろ、感謝してる」


「なんで」


「だって、お母さんが来るまで、あなたを一人にしないでいてくれたから」


母の目に、涙が浮かんだ。


「ありがたいわ」


そして、母は続けた。


「それと」


「何?」


「響、あなたの状態」


母の声が、少し震えた。


「日に日に、悪化してるわね」


悪化。


俺の状態が。


「お母さん、何を」


「さっき、看護師さんから聞いたの」


母は、ハンカチを取り出した。


「昨日の夜、あなた、トイレに行けなかったって」


トイレ。


そんなことがあったか。


「覚えてないでしょう」


「……うん」


「それだけじゃないわ」


母は、涙を拭いた。


「あなた、昨日お母さんの名前、三回聞いたのよ」


三回?


「一回目は朝。二回目は昼。三回目は夕方」


母は、俺の手を握った。


「響、あなた、お母さんのこと、忘れかけてるのね」


---


**美咲の日記より**


ゴールデンウィーク2日目。


私は、病院にいた。


午前中に行くつもりだったけど、母から電話があって遅くなった。


「美咲、ゴールデンウィークなのに病院?」


「うん、お見舞いに」


「誰の?」


「会社の人」


また嘘をついた。


母は、何も言わなかった。


でも、わかっているんだと思う。


私が、何かを隠していることを。


病院に着いたのは、午後二時過ぎだった。


ナースステーションで、看護師さんに声をかけた。


「響さんの病室に行きたいんですけど」


看護師さんは、少し困った顔をした。


「あの、今日は少し……」


「何かあったんですか」


看護師さんは、周りを見回してから、小声で言った。


「今朝、失禁されまして」


失禁。


その言葉が、私の心臓を貫いた。


「失禁って」


「尿を、自分で制御できなくて」


看護師さんは、申し訳なさそうに言った。


「認知症が進行すると、よくあることなんです」


よくあること。


そんな言葉で、片付けられるものじゃない。


「今は?」


「シャワーを浴びて、着替えて、休んでいらっしゃいます」


「会えますか」


「お母様が付き添っていらっしゃるので、大丈夫だと思いますが」


私は、病室に向かった。


ドアの前で、少し躊躇した。


ノックする。


「どうぞ」


中から、響さんのお母さんの声。


ドアを開ける。


響さんは、ベッドに座っていた。


いつもと変わらない顔。


でも、どこか疲れているように見えた。


「美咲さん」


お母さんが、椅子から立ち上がった。


「来てくれたのね」


「はい」


私は、響さんを見た。


響さんも、私を見た。


「あ」


それだけ言って、視線を逸らした。


私のこと、わかってるのかな。


「響、美咲さんよ」


お母さんが言った。


「ああ、美咲」


響さんは、もう一度私を見た。


「来てくれたんだ」


「はい」


私は、椅子に座った。


お母さんが、小声で言った。


「美咲さん、ちょっといい?」


「はい」


私たちは、廊下に出た。


お母さんは、私を見つめた。


「美咲さん、あなた、婚約者じゃないわよね」


心臓が止まった。


「え」


「わかってるの。最初から」


お母さんの目は、優しかった。


「ごめんなさい」


私は、頭を下げた。


「嘘をついて、ごめんなさい」


「謝らなくていいわ」


お母さんは、私の肩に手を置いた。


「あなたの気持ち、わかるから」


「でも」


「でもね、美咲さん」


お母さんの声が、少し厳しくなった。


「これから、もっと大変になるわよ」


「覚悟してます」


「本当に?」


お母さんは、私の目を見た。


「今朝、響は失禁したの。これから、もっと症状は進む」


失禁。


看護師さんから聞いた言葉。


「食事も、一人でできなくなる。トイレも、お風呂も」


お母さんの声が震えた。


「そして、あなたのことも忘れる」


忘れる。


「それでも、側にいたい?」


私は、頷いた。


「はい」


「どうして?」


「響さんが好きだからです」


お母さんは、少し目を閉じた。


それから、深くため息をついた。


「わかったわ」


「え?」


「あなたの覚悟、わかった」


お母さんは、微笑んだ。


「じゃあ、一緒に響を支えましょう」


「いいんですか」


「あなた一人じゃ、無理よ。お母さんも手伝うから」


お母さんは、私の手を握った。


「これから、あなたのこと、娘だと思うわ」


娘。


涙が溢れた。


「ありがとうございます」


お母さんは、私を抱きしめてくれた。


「大丈夫。一緒に頑張りましょう」


病室に戻った。


響さんは、窓の外を見ていた。


「響さん」


「ん?」


響さんは、私を見た。


「誰?」


その言葉に、私は息が止まった。


「美咲です」


「美咲……」


響さんは、少し考えた。


「ああ、美咲か」


思い出してくれた。


でも、一瞬わからなかった。


もう、そこまで進行しているんだ。


「お母さん、少し休んできてください。私が見てますから」


「ありがとう、美咲さん」


お母さんは、病室を出た。


私と響さん、二人きり。


「響さん」


「ん?」


「今日、体調どうですか」


「まあまあ」


「そうですか」


沈黙。


私は、響さんの手を握った。


冷たい手。


「響さん」


「何?」


「私、ずっと側にいます」


響さんは、私を見た。


「なんで?」


「好きだからです」


響さんは、少し驚いた顔をした。


「好き?」


「はい」


「俺のこと?」


「はい」


響さんは、窓の外を見た。


「でも、俺、君のこと、よく覚えてないんだ」


「いいんです」


私は、響さんの手を強く握った。


「覚えてなくても、私が覚えてますから」


「そうか」


響さんは、また私を見た。


「ありがとう」


その言葉を聞いて、私は泣きそうになった。


でも、我慢した。


泣いたら、響さんが心配する。


「お腹、空きませんか」


「ちょっと」


「何か買ってきましょうか」


「いや、いい」


響さんは、メモ帳を取り出した。


「これに書いておかないと」


「何をですか」


「美咲のこと」


響さんは、ペンを走らせた。


『美咲。好きだと言ってくれた。忘れないように』


それを見て、私は涙が止まらなくなった。


「響さん」


「ん?」


「私も、書いていいですか」


「何を?」


「響さんのこと」


私は、自分のメモ帳を取り出した。


そして、書いた。


『ゴールデンウィーク2日目。響さんに「好き」と伝えた。響さんは「ありがとう」と言ってくれた。忘れたくない』


書き終えて、メモ帳を閉じた。


「美咲」


「はい」


「俺、このまま全部忘れちゃうのかな」


「……わかりません」


「そうか」


響さんは、天井を見上げた。


「でも、君のこと、忘れたくないな」


その言葉が、私の心に深く刻まれた。


「忘れても、大丈夫です」


私は言った。


「私が、何度でも思い出させますから」


響さんは、微笑んだ。


「頼もしいな」


「はい」


私は、響さんの手を握ったまま、ずっとそこにいた。


外は、もう夕暮れだった。


ゴールデンウィークの空は、いつもより優しい色をしていた。


でも、この病室の中では、時間が少しずつ、響さんから何かを奪っていく。


私は、それでも側にいようと思った。


最後まで。


たとえ、全部忘れられても。

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