第13話 見知らぬ番号



入院三日目。


朝食を終えて、俺はベッドに座っていた。


窓の外は、よく晴れている。


ゴールデンウィーク初日。


世間は休みなのだろう。


でも、病院には休みがない。


スマホを手に取った。


画面を見ると、着信履歴がいくつかあった。


見知らぬ番号。


03で始まる、東京の番号。


一件、二件、三件。


誰だろう。


俺は、着信履歴を見つめた。


でも、思い出せない。


この番号に、心当たりがない。


その時、スマホが震えた。


また、同じ番号からだ。


四度目。


俺は、電話に出なかった。


なぜか、出たくなかった。


コール音が鳴り続ける。


そして、留守番電話に切り替わった。


しばらくして、通知が来た。


『留守番電話が1件あります』


俺は、再生ボタンを押した。


『響』


静かな口調の女性の声だった。


聞き覚えのない声。


でも、どこか懐かしい気もする。


『私のこと、もう忘れた?』


忘れた?


誰のことだ。


『あの夏、海に一緒に行って笑ってた』


海。


夏。


記憶の奥に、何かがある気がする。


でも、つかめない。


『でも、帰り道……』


女性の声が、少し震えた。


『事故で、私は車椅子生活になった』


事故。


車椅子。


俺の心臓が、早鐘を打ち始めた。


『あなたは、その責任を感じて』


責任。


『私の両親に、何度も何度も頭を下げてくれた』


頭を下げた?


俺が?


『両親は、もういないから安心して』


もういない。


『私は、このままだけど……』


そこで、声が途切れた。


留守番電話が終わった。


俺は、スマホを握りしめた。


手が震えている。


誰だ。


この女性は、誰なんだ。


海。


夏。


事故。


車椅子。


責任。


その言葉が、頭の中をぐるぐる回る。


でも、思い出せない。


俺は、ベッドから降りた。


病室の中を、歩き回る。


落ち着かない。


胸の奥が、ざわざわする。


ドアがノックされた。


「どうぞ」


看護師が入ってきた。


「響さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」


「あ、ああ」


「検査まで、もう少し時間がありますから、休んでてください」


看護師は出て行った。


俺は、また留守番電話を聞いた。


『響、私のこと、もう忘れた?』


忘れた。


そうだ、忘れたんだ。


でも、この声は、俺の何かを呼び起こそうとしている。


『あの夏、海に一緒に行って笑ってた』


夏。


2019年の夏、だろうか。


俺の時間が止まっている、あの年の。


『事故で、私は車椅子生活になった』


事故。


俺は、事故に関わっていたのか。


『あなたは、その責任を感じて』


責任。


俺のせいで、この女性は車椅子に?


俺は、スマホを置いた。


メモ帳を開く。


これまでのことが書いてある。


でも、この女性のことは、どこにも書いていない。


ページをめくる。


何もない。


海のことも。


事故のことも。


何も。


俺は、新しいページに書いた。


『見知らぬ女性から電話。2019年の夏、海、事故、車椅子。俺が関わっている?』


書き終えて、メモ帳を閉じた。


午後、美咲が来た。


「響さん、こんにちは」


「あ、美咲」


美咲は、いつものように椅子に座った。


「今日は、検査ありましたか」


「午前中にMRI」


「そうなんですね」


沈黙。


俺は、美咲を見た。


この人は、俺の婚約者だという。


でも、俺の中には、別の女性の声が響いている。


「美咲」


「はい」


「俺、2019年の夏に、何してた?」


美咲は、少し戸惑った顔をした。


「2019年の夏……」


「海に行ったことは?」


「海?」


美咲は、首を傾げた。


「わかりません。私、その頃響さんとは……」


そうだ。


美咲とは、去年出会ったと言っていた。


じゃあ、2019年の夏のことは知らないのか。


「どうして、そんなこと聞くんですか」


「いや、ちょっと」


俺は、スマホを見た。


美咲に、留守番電話のことを話すべきか。


でも、何か引っかかる。


言わない方がいい気がする。


「何でもない」


「そうですか」


美咲は、少し不安そうな顔をした。


「響さん、何か思い出したんですか」


思い出した?


いや、思い出してはいない。


ただ、電話があっただけだ。


「いや、何も」


俺は、話題を変えた。


「会社は、どう?」


「大丈夫です。ゴールデンウィークで休みですし」


「そうか」


「でも、来週から忙しくなりそうです」


「そうなんだ」


また沈黙。


美咲は、俺の顔をじっと見た。


「響さん、本当に大丈夫ですか」


「ああ」


「何か、隠してませんか」


隠している?


いや、隠しているわけじゃない。


ただ、わからないだけだ。


「隠してないよ」


美咲は、それ以上聞かなかった。


美咲が帰った後。


俺は、また留守番電話を聞いた。


何度も、何度も。


女性の声を、記憶しようとする。


でも、思い出せない。


誰なんだ。


この女性は。


そして、なぜ今、電話してきたんだ。


俺が入院していることを、知っているのか。


夕方、母が来た。


「響、調子はどう」


「まあまあ」


母は、果物を持ってきてくれた。


「お母さん、聞きたいことがあるんだけど」


「何?」


「俺、2019年の夏に、誰かと海に行ったことは?」


母は、少し驚いた顔をした。


「2019年の夏?」


「ああ」


母は、少し考えた。


「行ったわよ」


「誰と?」


「彼女と」


彼女。


俺には、彼女がいたのか。


「その人の名前は?」


「詩織よ。山下詩織さん」


山下詩織。


その名前を聞いても、何も思い出せない。


「その人、今どこに?」


母は、少し表情を曇らせた。


「響、覚えてないの?」


「覚えてない」


母は、深くため息をついた。


「詩織さん、あの夏の事故で、車椅子生活になったのよ」


事故。


車椅子。


留守番電話と、同じだ。


「俺、関わってたの?」


「運転してたのは、あなただったわ」


運転。


俺が。


「事故の後、あなたは詩織さんのご両親に、何度も何度も謝りに行った」


何度も、謝った。


「でも、詩織さんのご両親は、もう……」


母は、言葉を濁した。


「亡くなったの。去年」


去年。


「響、あなた、詩織さんのこと、忘れてたのね」


母の目に、涙が浮かんだ。


「病気のせいね。仕方ないわ」


仕方ない。


でも、俺は忘れた。


大切な人を。


傷つけた人を。


全部。


「お母さん」


「何?」


「今日、その人から電話があった」


母は、驚いた顔をした。


「詩織さんから?」


「たぶん」


「何て?」


俺は、留守番電話の内容を話した。


母は、黙って聞いていた。


「そう……」


母は、窓の外を見た。


「詩織さん、まだあなたのこと、気にしてるのね」


気にしている。


でも、俺は忘れている。


「響」


「ん?」


「詩織さんに、会う?」


会う。


でも、俺は彼女のことを覚えていない。


「わからない」


「そうね」


母は、俺の手を握った。


「無理しなくていいのよ。思い出せなくても」


思い出せなくても。


でも、忘れたままでいいのか。


その夜。


俺は、一人で考えた。


山下詩織。


2019年の夏。


海。


事故。


車椅子。


俺が運転していた。


彼女を傷つけた。


そして、忘れた。


俺は、スマホを手に取った。


あの番号に、かけ直すべきか。


でも、何を話せばいい。


「忘れました」と言うのか。


「ごめんなさい」と言うのか。


俺は、スマホを置いた。


メモ帳を開く。


『山下詩織。2019年夏、海、事故。俺が運転。彼女は車椅子に。俺は忘れた』


書き終えて、ページをめくる。


『美咲のことを、忘れないように』


最初のページに書いた言葉。


美咲のことは、忘れないように。


でも、詩織のことは、もう忘れた。


俺は、何を忘れて、何を覚えていればいいんだろう。


答えは、わからなかった。


天井を見つめる。


白い天井。


その先に、何があるんだろう。


俺の失った記憶が、そこにあるんだろうか。


窓の外から、救急車のサイレンが聞こえた。


誰かが、運ばれていく。


俺も、いつかそうなるのか。


記憶を全部失って。


誰のことも、忘れて。


自分のことさえ、わからなくなって。


俺は、目を閉じた。


でも、眠れなかった。


頭の中で、女性の声が繰り返し響いていた。


『響、私のこと、もう忘れた?』


忘れた。


ごめん。


忘れた。

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