第12話 私の過去と家のこと
病院から帰る電車の中。
美咲は、スマホに母から着信があったことに気づいた。
また、だ。
三件の不在着信。
美咲は、ため息をついた。
電車を降りて、改札を出る。
人混みを抜けて、静かな場所を探す。
公園のベンチに座って、母に電話をかけた。
コール音が二回鳴って、すぐに出た。
『美咲!』
母の声が、焦っていた。
「ごめん、忙しくて」
『大丈夫なの? 体調は?』
「大丈夫だよ」
『本当に? 無理してない?』
「してないって」
美咲は、空を見上げた。
夕焼けが、ビルの間に沈んでいく。
『ゴールデンウィーク、やっぱり帰ってこれない?』
「うん、ごめん」
『そう……』
母の声が、小さくなった。
『お母さん、寂しいな』
「ごめん」
美咲は、何度目かの謝罪をした。
『いいのよ。美咲も大人になったんだもの』
大人。
そうだ、私はもう大人だ。
でも、母には、まだ子供なのかもしれない。
『ねえ、美咲』
「何?」
『何か、隠してない?』
母の声が、少し鋭くなった。
「隠してるって?」
『だって、最近おかしいもの。電話してもすぐ切るし』
「仕事が忙しいだけだよ」
『本当に?』
「本当だよ」
嘘だ。
また嘘をついた。
『彼氏とか、できた?』
彼氏。
美咲は、少し黙った。
「いないよ」
『そう』
母は、安心したような、残念なような声を出した。
『でも、できたら教えてね』
「わかった」
『お母さん、美咲の幸せな顔が見たいの』
幸せな顔。
私は今、幸せなんだろうか。
「お母さん」
「何?」
「私、ちゃんと生きてるから」
『急にどうしたの』
「だから、心配しないで」
『……わかったわ』
母は、少し間を置いた。
『でも、辛いことがあったら、いつでも帰ってきていいからね』
「うん」
『美咲は、一人じゃないんだから』
一人じゃない。
その言葉が、美咲の胸に染みた。
「ありがとう」
電話を切った。
美咲は、ベンチに座ったまま、動けなかった。
父親は、早くに他界した。
美咲が中学二年生の時だった。
事故だった。
突然だった。
朝、「行ってきます」と言って出て行った父は、夜には帰ってこなかった。
病院から電話があった。
母が泣き崩れた。
美咲は、涙が出なかった。
現実だと思えなかった。
葬式も、通夜も、全部夢のようだった。
それから、母親と二人で暮らした。
母は、パートを二つ掛け持ちして働いた。
美咲の学費のために。
「大丈夫? 疲れてない?」
美咲は、よく母に聞いた。
「大丈夫よ。美咲が元気でいてくれれば」
母は、いつも笑顔だった。
でも、その笑顔が、どこか無理をしているように見えた。
高校を卒業して、大学に入った。
「お母さん、私、一人暮らししたい」
美咲は、わがままを言った。
「一人暮らし?」
母は、驚いた顔をした。
「でも、お金が」
「バイトするから」
「でも」
「お願い」
美咲は、母を説得した。
本当は、母から離れたかった。
母の気遣いが、重かった。
母の笑顔が、辛かった。
母と一緒にいると、父がいないことを思い出す。
美咲は、それが嫌だった。
大学二年生の春。
美咲は、一人暮らしを始めた。
狭いアパート。
でも、自由だった。
そして、遊んだ。
サークル活動。
飲み会。
夜遊び。
今まで我慢していたものが、溢れ出した。
大学三年生の夏。
美咲は、同級生の男性と付き合い始めた。
名前は、健太。
明るくて、優しい人だった。
「美咲、うちに来る?」
健太が言った。
「え?」
「一緒に住もうよ」
美咲は、少し迷った。
でも、断る理由もなかった。
「うん」
美咲は、健太のアパートに転がり込んだ。
最初は、楽しかった。
二人で料理を作って。
テレビを見て。
笑い合って。
でも、だんだん変わっていった。
健太は、就活がうまくいかなくて、イライラしていた。
「なんで俺だけ、うまくいかないんだよ」
愚痴が増えた。
美咲も、就活で疲れていた。
「ねえ、ご飯作ってよ」
健太が言った。
「今日は疲れたから、外で食べない?」
「金ないんだよ」
「私だって、ないよ」
「じゃあ、作れよ」
健太の声が、荒くなった。
ちょっとした口喧嘩から、大きな喧嘩になった。
「もう、無理」
美咲が言った。
「何が無理なんだよ」
「一緒にいるの、無理」
「勝手だな」
健太は、吐き捨てるように言った。
「一緒に住もうって言ったの、お前だろ」
「でも」
「都合悪くなったら、逃げるのか」
その言葉が、美咲の胸に刺さった。
「……そうかもね」
美咲は、荷物をまとめて出て行った。
健太は、引き止めなかった。
それから、美咲は元のアパートに戻った。
一人。
また、一人になった。
その頃から、生理不順だった。
最初は気にしていなかった。
ストレスだろう、と思っていた。
でも、二ヶ月、三ヶ月と来ない。
美咲は、病院に行った。
「ストレスと、不規則な生活が原因ですね」
医者は言った。
「ちゃんと食事を取って、睡眠も取ってください」
「はい」
「あと、無理をしないこと」
無理。
美咲は、無理をしていたのか。
自分では、よくわからなかった。
薬をもらって、飲んだ。
でも、すぐには良くならなかった。
就活が終わって、内定をもらって。
少しずつ、生活を整えた。
そして、生理も戻ってきた。
でも、まだ不規則だった。
美咲は、ベンチから立ち上がった。
アパートに帰る。
部屋に入って、電気をつける。
鏡を見る。
疲れた顔をした、22歳の女性。
「私、何してるんだろう」
小さく呟いた。
嘘をついて。
響さんの婚約者だと偽って。
会社で浮いて。
同期から嫌われて。
それでも、響さんの側にいたい。
なぜ?
答えは、わかっていた。
響さんが、優しかったから。
あの日、缶コーヒーをくれた。
「一人で頑張ってるみたいだから」
その言葉が、美咲を救った。
誰も、美咲を見てくれなかった。
インターンで、何もできない美咲を。
でも、響さんだけは、見てくれた。
それだけで、美咲は嬉しかった。
そして、今。
響さんは、美咲のことを忘れかけている。
いや、もう忘れている。
でも、いい。
忘れられても。
側にいられれば。
美咲は、鏡から目を逸らした。
冷蔵庫を開ける。
何もない。
買い物に行かなきゃ。
でも、体が動かない。
疲れた。
美咲は、ベッドに倒れ込んだ。
スマホが震えた。
メッセージだ。
母からだった。
『今日は、お父さんの命日だったわ。お墓参り、行ってきたよ』
命日。
そうだ、今日だった。
美咲は、完全に忘れていた。
『美咲の分も、お花供えておいたから』
美咲は、返信しようとした。
でも、何を書けばいいのかわからない。
「ごめんなさい」
それだけ打って、送信した。
母から、すぐに返事が来た。
『謝らないで。忙しいんだもの。お父さんも、わかってくれてるわ』
わかってくれている。
そうなのかな。
美咲は、天井を見つめた。
お父さん。
私、今、何してるんだろう。
嘘ついて。
誰かを騙して。
それでも、側にいたくて。
これって、おかしいよね。
でも、やめられない。
美咲は、目を閉じた。
涙が、流れた。
「お父さん、ごめんなさい」
小さく呟いた。
「私、ダメな子になっちゃった」
返事は、なかった。
美咲は、そのまま眠りに落ちた。
夢の中で、父が出てきた。
「美咲、大丈夫か」
優しい声。
「大丈夫じゃない」
美咲は泣いた。
「お父さん、私、どうしたらいいの」
父は、美咲の頭を撫でた。
「自分の心に、正直になれ」
「正直に?」
「ああ。嘘をついても、自分の心は騙せないから」
目が覚めた。
朝だった。
美咲は、枕が濡れていることに気づいた。
泣いていたのか、夢の中で。
スマホを見る。
6時。
会社に行く時間だ。
美咲は、起き上がった。
鏡を見る。
目が腫れている。
「自分の心に、正直に」
父の言葉が、頭に残っていた。
でも、正直になったら。
響さんを失ってしまう。
美咲は、顔を洗った。
そして、化粧をした。
腫れた目を、隠すように。
会社に行く。
いつもの朝。
いつもの電車。
いつもの嘘。
でも、今日だけは。
少しだけ、心が軽かった。
父が、夢の中で言ってくれたから。
「大丈夫か」って。
美咲は、小さく微笑んだ。
大丈夫じゃないけど。
それでも、生きていく。
響さんの側で。
嘘をつきながら。
でも、この気持ちだけは本物だから。
それだけを信じて。
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