第11話 同期の噂話



翌朝、美咲は会社に出社した。


ゴールデンウィーク前の金曜日。


オフィスは、浮き足立っていた。


「来週、どこか行く?」


「温泉行こうと思ってる」


「いいなー」


同僚たちの楽しそうな声。


美咲は、自分のデスクに座った。


響のデスクは、空いている。


パソコンのモニターには、付箋が貼られていた。


『入院中』


人事部が貼ったものだろう。


「桜井さん」


声がした。


振り返ると、同期の女性が立っていた。


名前は、確か。


「田村さん」


「ちょっと、いい?」


田村は、少し距離を置いて立っていた。


「何ですか」


「あの、響さんのこと」


響さん。


美咲の心臓が、早鐘を打った。


「何か?」


「入院したって、本当?」


「……はい」


田村は、周りを見回した。


それから、小声で言った。


「大丈夫なの? 重い病気?」


「それは、プライバシーなので」


「そっか」


田村は、少し間を置いた。


「あのさ、噂になってるよ」


「噂?」


「桜井さんと響さんのこと」


美咲の背筋が、凍った。


「何の噂ですか」


「付き合ってるんじゃないかって」


付き合ってる。


「そんなこと」


「だって、桜井さん、響さんにべったりじゃん」


田村は、少し意地悪な笑みを浮かべた。


「入社してすぐ、教育係になって。毎日一緒にいて」


「それは、仕事ですから」


「仕事だけ? 昼休みも一緒だよね」


「たまたまです」


「帰りも一緒」


「同じ方向だから」


田村は、肩をすくめた。


「まあ、いいけどさ。でも、みんな言ってるよ。新人のくせに、調子乗ってるって」


調子に乗ってる。


その言葉が、美咲の胸に刺さった。


「私は、そんなつもりは」


「つもりはなくても、そう見えるんだよ」


田村は、響のデスクを見た。


「しかも、入院でしょ? 桜井さん、昨日も早退したよね」


「はい」


「お見舞い?」


「……はい」


「やっぱり」


田村は、ため息をついた。


「ねえ、本当に付き合ってないの?」


「付き合ってません」


嘘じゃない。


付き合ってはいない。


婚約者だと嘘をついただけ。


「そう」


田村は、信じていない顔をした。


「まあ、気をつけた方がいいよ。同期の間でも、桜井さんの評判、よくないから」


評判。


よくない。


「わかりました」


田村は、自分のデスクに戻った。


美咲は、椅子に座った。


手が震えている。


私は知っている。


同期から変な目で見られていることを。


響さんとのこと。


会社で浮いているような存在であること。


全部、わかっていた。


昼休み。


美咲は、一人で食堂に行った。


トレーを持って、席を探す。


同期たちが固まって座っている。


田村もいる。


美咲と目が合うと、田村は何かを隣の人に囁いた。


みんなが、美咲を見る。


そして、笑った。


美咲は、別の席に座った。


一人で。


スマホを取り出す。


病院に電話しようか。


でも、やめた。


今は、響も検査中だろう。


食事を口に運ぶ。


味がしない。


「あ、桜井さん」


声がした。


顔を上げると、田中だった。


響の隣の席の人。


「田中さん」


「一人? よかったら、一緒にいい?」


「はい」


田中は、美咲の向かいに座った。


「響さんのこと、聞いたよ」


「……はい」


「大変だね」


田中の声は、優しかった。


「響さん、いい人だから。早く良くなるといいね」


「ありがとうございます」


「桜井さん、お見舞い行ってるんだって」


「はい」


「偉いね。新人なのに」


新人なのに。


その言葉が、また刺さった。


「いえ、私」


言葉が続かない。


田中は、食事を続けた。


「桜井さん」


「はい」


「気にしなくていいよ」


「え?」


「噂のこと」


田中は、美咲を見た。


「俺、聞いたから。田村さんたちが言ってるの」


美咲は、下を向いた。


「でも、気にすることないよ。響さんを支えてあげてるんだから」


「でも、私」


「響さん、最近様子おかしかったから。俺も心配してた」


田中は、ため息をついた。


「でも、何もしてあげられなくて。桜井さんが側にいてくれて、よかったと思ってる」


「ありがとうございます」


「いや、こっちこそ」


田中は、立ち上がった。


「また、何かあったら言ってね」


「はい」


田中は去っていった。


美咲は、一人になった。


スマホを見る。


母親からのメッセージが来ていた。


『ゴールデンウィーク、無理しないでね』


無理。


してるのかな、私。


美咲は、スマホをしまった。


午後。


美咲は、企画書を作成していた。


響に教わった、テンプレートを使って。


でも、集中できない。


同期たちの視線が、気になる。


笑い声が、耳に刺さる。


「桜井さん」


部長が声をかけてきた。


「はい」


「響のこと、頼むよ」


「え?」


「お見舞い、行くんだろ。俺からもよろしく伝えて」


「はい」


部長は、封筒を渡した。


「これ、お見舞い。みんなで集めたんだ」


封筒の中には、お金が入っているのだろう。


「ありがとうございます」


「響、若いのに大変だな」


部長は、少し悲しそうな顔をした。


「でも、桜井さんがいてくれて、響も心強いだろう」


「いえ、私なんて」


「謙遜しなくていいよ。響のこと、よろしく頼むよ」


部長は、自分の席に戻った。


美咲は、封筒を握りしめた。


響さんが、入院なんかするから。


そう、愚痴りたくもなった。


もし、響さんが入院していなければ。


もし、認知症なんかじゃなければ。


私は、普通の新入社員でいられた。


同期と仲良くして。


噂されることもなく。


浮くこともなく。


でも。


美咲は、首を振った。


違う。


それは、違う。


響さんが悪いんじゃない。


病気が悪いんだ。


そして。


嘘をついた私が、悪いんだ。


夕方。


美咲は、会社を出た。


病院に向かう。


電車の中で、スマホを見る。


同期のグループLINEに、メッセージが来ていた。


田村からだ。


『桜井さん、また早退したね』


『響さんのお見舞い?』


『マジで付き合ってるんじゃない?』


『新人なのに、特別扱いされてない?』


『ずるい』


スタンプが並んでいる。


笑っているスタンプ。


美咲は、グループを閉じた。


涙が出そうになった。


でも、我慢した。


病院に着いた。


響の病室に向かう。


ドアを開ける。


「響さん」


響は、ベッドに座っていた。


顔を上げて、美咲を見た。


「あ」


それだけ言って、また視線を落とした。


「どうしたんですか」


「君、誰?」


その言葉が、美咲の心臓を貫いた。


「美咲です」


「美咲……」


響は、少し考えた。


「ああ、美咲か」


思い出してくれた。


でも、一瞬わからなかった。


もう、忘れかけているんだ。


「お見舞い、持ってきました」


美咲は、果物の籠を置いた。


「ありがとう」


響は、また視線を落とした。


沈黙。


美咲は、椅子に座った。


「響さん、検査どうでしたか」


「ああ、色々やった」


「大変でしたか」


「まあ」


また沈黙。


美咲は、響の顔を見た。


疲れている。


そして、どこか遠くを見ているような目。


「響さん」


「ん?」


「私のこと、覚えてますか」


響は、顔を上げた。


「覚えてる」


「本当ですか」


「ああ。美咲、婚約者だろ」


婚約者。


その嘘を、響は信じている。


美咲は、胸が苦しくなった。


「そうです」


また嘘をついた。


「でも、よくわからないんだ」


響は、窓の外を見た。


「婚約者なのに、思い出せない」


「大丈夫です。ゆっくり思い出せば」


「思い出せるかな」


「思い出せます」


美咲は、強く言った。


でも、心の中では。


思い出せなくてもいい。


だって、嘘だから。


でも、側にはいたい。


それだけが、本当だから。


「美咲」


「はい」


「ありがとう」


響は、微笑んだ。


その笑顔を見て、美咲は泣きそうになった。


「どういたしまして」


精一杯の笑顔で、答えた。


会社で浮いていても。


同期から嫌われても。


噂されても。


それでもいい。


響さんの側にいられるなら。


それだけで、いい。


美咲は、そう思った。


嘘つきの私だけど。


この気持ちだけは、本物だから。

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