第10話 美咲の嘘



美咲は病院を出て、駅に向かって歩いていた。


夜の風が、頬に冷たい。


スマホを取り出す。着信履歴には、母親からの不在着信が三件。


かけ直すべきか。


でも、今は。


美咲は、スマホをポケットにしまった。


電車に乗る。空いている車内。


窓ガラスに映る自分の顔を見た。


疲れている。


そして、罪悪感に満ちている。


「婚約者」


小さく呟いた。


嘘だ。


美咲は、響の婚約者ではない。


本当は、ただの新入社員だった。


入社して、まだ一ヶ月。


響の部下。


教育係と新人。


それだけの関係。


でも、響の母親に「婚約者」だと名乗ってしまった。


なぜ、あんな嘘をついたんだろう。


電車が揺れる。


美咲は、目を閉じた。


記憶が蘇る。


去年の夏。


美咲は、まだ大学四年生だった。


就職活動は終わっていて、この会社に内定をもらっていた。


夏休みに、インターンシップがあった。


「二週間、実際の業務を体験してもらいます」


人事の人が説明した。


美咲は、緊張していた。


初めての会社。初めての仕事。


配属されたのは、企画部だった。


「よろしく」


先輩たちが声をかけてくれた。


でも、美咲には何もできなかった。


パソコンの使い方もわからない。


業務の流れもわからない。


「これ、コピーしておいて」


「はい」


コピー機の前で、美咲は固まった。


使い方がわからない。


「あの、すみません」


周りに聞こうとした。


でも、みんな忙しそうだった。


誰も、美咲を見ていない。


悔しかった。


誰にも相手にされないんじゃないかと、無力感に襲われた。


でも、それがその時の私の実力だった。


「どうしたの?」


声がした。


振り返ると、一人の男性が立っていた。


二十代後半くらい。優しそうな顔。


「あの、コピー機の使い方が……」


「ああ、これね」


男性は、操作方法を教えてくれた。


「こうやって、ここを押して」


「ありがとうございます」


「初めて?」


「はい、インターンで」


「そうなんだ。大変だよね」


男性は微笑んだ。


「俺も昔、同じだったから」


その日の午後。


美咲は、会議室で資料をまとめていた。


一人で。


周りは、みんな忙しそうで、誰も手伝ってくれない。


当たり前だ。インターン生なんだから。


でも、孤独だった。


「お疲れ様」


ドアが開いて、朝の男性が入ってきた。


「あ、お疲れ様です」


「これ、飲む?」


男性は、缶コーヒーを差し出した。


「えっ」


「自販機で買ってきたんだ。一人で頑張ってるみたいだから」


美咲は、缶コーヒーを受け取った。


冷たい缶。


「ありがとうございます」


「俺、響。企画部の響」


「美咲です。桜井美咲」


響は、椅子に座った。


「美咲さん、何年生?」


「四年です」


「じゃあ、来年入社?」


「はい」


「この部署?」


「まだ、わからないです」


響は、缶コーヒーのプルタブを開けた。


「まあ、どこに配属されても大変だけどね」


「そうですよね」


「でも、慣れるよ」


響は、窓の外を見た。


「最初はみんな、何もできないから」


その言葉が、美咲の心に染みた。


「響さんも、そうだったんですか」


「ああ。俺なんて、もっとひどかったよ」


響は笑った。


「何回、怒られたかわからない」


「今は、できるようになったんですか」


「まあ、それなりにね」


響は、美咲を見た。


「美咲さんも、きっとできるようになるよ」


その目が、優しかった。


美咲は、その時思った。


この人みたいになりたい。


こんなふうに、誰かに優しくできる人に。


電車が、駅に着いた。


美咲は、目を開けた。


降りる駅だ。


改札を出て、アパートに向かう。


古いアパート。一人暮らし。


部屋に入って、電気をつける。


狭い部屋。


美咲は、鞄を置いて、ベッドに座った。


あの日から、美咲は響のことが気になっていた。


インターンが終わって、大学に戻った。


でも、響のことを忘れられなかった。


そして、今年の四月。


入社した。


配属先は、企画部。


響がいる部署。


「おはようございます」


初出社の日、美咲は響を探した。


いた。


デスクに座って、パソコンに向かっている。


「あの、響さん」


響は、顔を上げた。


「ん?」


「覚えてますか。去年、インターンで」


響は、少し考えた。


「……ごめん、覚えてない」


その言葉が、美咲の胸に刺さった。


でも、仕方ない。


たくさんのインターン生がいたんだから。


「そうですよね。桜井美咲です。今日から、よろしくお願いします」


「ああ、よろしく」


響は、また仕事に戻った。


覚えていない。


当たり前だ。


でも、美咲は覚えていた。


あの缶コーヒーの冷たさ。


あの優しい声。


あの笑顔。


全部。


それから、一ヶ月。


美咲は、響の教育係になった。


毎日、一緒にいた。


でも、響は少しずつ変わっていった。


物忘れが増えた。


頭痛を訴えるようになった。


そして、病院。


若年性認知症。


脳梗塞。


美咲は、その診断を聞いたとき、世界が終わったような気がした。


響が、記憶を失っていく。


自分のことも、忘れてしまう。


いや、もう忘れている。


インターンの日のことも。


この一ヶ月のことも。


全部。


「婚約者」


美咲は、そう嘘をついた。


なぜなら。


もし、ただの新入社員だったら。


ただの部下だったら。


響の側にいられなくなるから。


病院に通うこともできない。


母親に会うこともできない。


響を支えることもできない。


でも、婚約者なら。


家族なら。


側にいられる。


美咲は、ベッドに横になった。


天井を見つめる。


「ごめんなさい、響さん」


小さく呟いた。


「嘘をついて、ごめんなさい」


涙が流れた。


「でも、側にいたいんです」


「忘れられても、いいんです」


「だから、側にいさせてください」


美咲は、枕に顔を埋めた。


そして、声を殺して泣いた。


嘘つき。


自分は、嘘つきだ。


でも、この嘘だけは。


この嘘だけは、許してほしい。


スマホが鳴った。


母親からだ。


美咲は、電話に出た。


「もしもし」


『美咲? 大丈夫? 心配してたのよ』


「ごめん、忙しくて」


『仕事、大変なの?』


「うん、まあ」


嘘だ。


また嘘をついた。


『無理しないでね』


「うん」


『ゴールデンウィーク、帰ってこれる?』


ゴールデンウィーク。


もうすぐだ。


でも。


「ごめん、今年は無理かも」


『そう……残念ね』


母の声が、寂しそうだった。


「ごめん」


『いいのよ。社会人一年目は大変だものね』


「うん」


『でも、体は大事にしてね』


「わかった」


電話を切った。


美咲は、カレンダーを見た。


明日は、4月30日。


ゴールデンウィークが始まる。


でも、美咲に休みはない。


響の側にいる。


それだけを考えていた。


メモ帳を取り出す。


美咲も、メモを取っていた。


響との出来事を。


全部。


『去年8月3日 インターン初日。響さんに缶コーヒーをもらう』


『今年4月1日 入社。響さんに再会』


『4月15日 響さんの教育係になる』


『4月28日 響さん入院。婚約者だと嘘をつく』


書き終えて、メモ帳を閉じた。


「嘘つきでごめんなさい」


もう一度、呟いた。


でも、後悔はしていなかった。


この嘘は、美咲の真実だった。


響を愛している。


それだけは、本当だから。

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