第9話 入院生活



入院2日目。


朝6時に目が覚めた。


いや、目覚ましで起こされたわけじゃない。看護師が体温を測りに来た。


「おはようございます、響さん」


明るい声。


俺は、まだ眠かった。


「体温測りますね」


脇に体温計を挟まれる。


ピピピと鳴る。


「36.5度。平熱ですね」


看護師は、何かを記録して出て行った。


俺は、もう一度寝ようとした。


でも、眠れなかった。


病室は静かだった。


隣のベッドには、誰もいない。個室じゃないけど、今は俺一人だ。


窓の外を見る。朝日が昇り始めている。


ここは、どこだっけ。


ああ、病院か。


なんで俺は病院にいるんだっけ。


枕元のメモ帳を取った。


『4月28日 入院。精密検査のため』


そうだ、検査か。


朝食が運ばれてきた。


「はい、朝ごはんですよ」


トレーがベッドの上に置かれる。


ご飯、味噌汁、焼き魚、煮物。


病院食。


俺は、箸を取った。


味は、悪くない。でも、美味しくもない。


食べ終わる頃、また看護師が来た。


「響さん、9時から検査です」


「何の検査?」


「血液検査と脳波です」


血液検査。


脳波。


「わかった」


9時。


車椅子に乗せられて、検査室に連れて行かれた。


「歩けるんですけど」


「病院の規則ですから」


看護師は笑顔で言った。


検査室は、冷たかった。


「じゃあ、腕を出してください」


採血。


針が刺さる。


痛い。


でも、すぐに終わった。


「次、脳波ですね」


別の部屋に移動する。


ベッドに寝かされて、頭に電極をつけられた。


「じゃあ、目を閉じてリラックスしてください」


リラックス。


でも、電極の感触が気になって、リラックスできない。


「はい、今度は目を開けてください」


「はい、じゃあ深呼吸してください」


指示に従う。


おもしろくもなんともない検査だった。


ただ寝て、目を開けて、閉じて。


それだけ。


「はい、終わりです」


電極を外される。


「お疲れ様でした」


また車椅子に乗せられて、病室に戻った。


時計を見ると、11時を過ぎていた。


もう午前中が終わる。


「疲れたでしょう。お昼まで休んでてください」


看護師が出て行った。


俺は、ベッドに横になった。


天井を見る。


白い天井。


この天井を見るのは、何回目だろう。


病室のドアが、ノックされた。


「どうぞ」


ドアが開く。


「響さん」


美咲だった。


彼女は、花束を持っていた。


「来てくれたのか」


「はい。お昼休みに抜けてきました」


美咲は、花束を花瓶に生けた。


「綺麗だな」


「春の花です。チューリップとスイートピー」


美咲は、椅子に座った。


「検査、どうでしたか」


「血液検査と脳波」


「大変でしたか」


「いや、ただ寝てるだけだから」


美咲は微笑んだ。


「そうですか」


沈黙。


俺は、美咲を見た。


綺麗な人だ。


でも、この人のことを、俺は知らない。


「あの」


「はい?」


「昨日、母さんが言ってたこと」


美咲の顔が、少し緊張した。


「婚約者って」


「……はい」


「本当なの?」


美咲は、頷いた。


「本当です」


「いつから?」


「去年の12月です」


去年の12月。


クリスマスの頃か。


「プロポーズしたの、俺?」


「はい」


「どこで?」


美咲は、少し困ったような顔をした。


「それは、響さんが思い出した方がいいと思います」


「でも、思い出せない」


「じゃあ」


美咲は、鞄から写真を取り出した。


「これ、見てください」


写真には、俺と美咲が写っていた。


夜景をバックに、二人で笑っている。


美咲の左手の薬指に、指輪が光っていた。


「これ、プロポーズの日です」


俺は、写真の中の自分を見た。


幸せそうに笑っている。


でも、知らない顔だった。


「俺、こんな顔するんだ」


「します」


美咲は微笑んだ。


「響さん、この日すごく緊張してました」


「緊張?」


「はい。プロポーズするのに」


プロポーズ。


俺が、この人に。


「何て言ったの?」


「それも、思い出してほしいです」


美咲は、写真を俺に渡した。


「これ、持ってててください」


「いいの?」


「はい。響さんの部屋にも飾ってありますから」


俺の部屋。


そういえば、俺の部屋ってどこだっけ。


「あの、俺の部屋って」


「東京です。一人暮らしですよね」


一人暮らし。


そうなのか。


「そこに、美咲も来るの?」


美咲は、少し頬を染めた。


「たまに」


「そうなんだ」


また沈黙。


でも、今度は気まずい沈黙じゃなかった。


「美咲」


「はい」


「ありがとう」


「何がですか」


「こうして、来てくれて」


美咲は、首を振った。


「当たり前のことです」


「でも、仕事があるのに」


「響さんの方が大事です」


美咲は、俺の手を握った。


「響さんは、私の婚約者ですから」


婚約者。


その言葉が、少しずつ実感を帯びてきた。


この人は、俺の婚約者なんだ。


「美咲」


「はい」


「俺、思い出せるかな」


「思い出せます」


美咲は、強く言った。


「絶対に、思い出させます」


その言葉に、嘘はなかった。


昼食の後、また検査があった。


MRI。


今度は、もっと大きな機械の中に入れられた。


「動かないでくださいね」


ガンガンと、大きな音がする。


耳栓をされているけど、それでも音は聞こえる。


30分くらいだろうか。


機械の中で、じっと動かずにいた。


考えることしかできない。


美咲のこと。


婚約者。


プロポーズ。


写真の中の、幸せそうな俺。


本当に、あれは俺なんだろうか。


検査が終わって、病室に戻ると、母が来ていた。


「響、大丈夫?」


「ああ」


「検査、たくさんあるのね」


「まあ」


母は、花瓶の花を見た。


「美咲さんが持ってきてくれたの?」


「ああ」


「いい子ね」


母は、椅子に座った。


「響」


「ん?」


「美咲さんのこと、思い出せそう?」


思い出せそうか。


「わからない」


「そう」


母は、少し悲しそうな顔をした。


「でも、焦らないでね」


「うん」


「思い出せなくても、また恋すればいいんだから」


また恋する。


そんなことができるんだろうか。


「お母さん」


「何?」


「俺、美咲のこと、本当に愛してたの?」


母は、俺の目を見た。


「愛してたわ」


「どうしてわかるの?」


「だって、あなたの目が、美咲さんを見るときだけ優しかったもの」


優しい目。


俺が?


「信じられない」


「本当よ」


母は微笑んだ。


「響、あなたは不器用だけど、優しい子だから」


優しい。


そうなのか。


夜。


一人になって、俺はメモ帳を開いた。


今日のことを書き留める。


『4月29日 入院2日目。検査ばかり。美咲が来た。婚約者らしい』


書き終えて、メモ帳を閉じた。


窓の外は、もう真っ暗だった。


どこかで、救急車のサイレンが鳴っている。


俺は、写真を見た。


幸せそうに笑う、俺と美咲。


「思い出したい」


小さく呟いた。


でも、どうやって?


答えは、わからなかった。

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