第8話  母



年老いた母が病院に着いたのは、19時を過ぎた頃だった。


俺は病室のベッドに座っていた。


精密検査をする為に、入院することになった。


今日の午後、医者に告げられて、すぐに手続きが進んだ。


「明日から検査を始めます。一週間ほどかかるでしょう」


一週間。


その間、ずっとここにいるのか。


窓の外は、もう暗くなっていた。


病室のドアが開いた。


「響」


女性の声。


振り返ると、年老いた女性が立っていた。


白髪混じりの髪。少し腰が曲がっている。


誰だ。


俺は、その女性を見た。


「響、わかる? お母さんよ」


お母さん。


母。


そうか、この人が母なのか。


「ああ」


俺は、曖昧に答えた。


母は、ゆっくりとベッドに近づいてきた。


「大丈夫? 痛いところはない?」


「ああ、大丈夫」


母は、俺の顔をじっと見た。


それから、涙を流した。


「ごめんね。気づいてあげられなくて」


気づく?


何に?


「お母さん、もっと早く気づいてあげるべきだった」


母は、俺の手を握った。


温かい手。


でも、この手を俺は知っているだろうか。


記憶の中にある母の手は、もっと若い手だった。


「お母さん」


「何?」


「あの」


言葉が出てこない。


何を聞けばいいんだろう。


その時、ドアがノックされた。


「失礼します」


入ってきたのは、見知らぬ女性だった。


いや、見知らぬ?


横にいる女の人は誰だ。


そう思っていると、その女は母に向かって頭を下げた。


「いつもお世話になってます」


お世話?


「美咲と申します。響さんの部下です」


美咲。


その名前に、何か引っかかるものがあった。


母は目を丸くしながら、その女に会釈をした。


「あら、あなたが」


「はい」


「いつも響のこと、気にかけてくださってるそうで」


「いえ、そんな」


美咲と名乗ったその女性は、少し照れたように笑った。


母は、美咲の顔をじっと見た。


「あなた、響と同じ会社なの?」


「はい。今年入社しました」


「そう。若いのね」


「22です」


22。


若い。


俺は、その女性を見た。


美咲。


確かに、どこかで会った気がする。


でも、いつだったか。


「響」


母が俺を見た。


「この子、知ってる?」


知ってる?


俺は、美咲を見た。


彼女は、少し不安そうな顔をしている。


「……ああ」


「本当に?」


母の声が、少し厳しくなった。


「本当に覚えてる?」


覚えてる。


たぶん。


いや、覚えてない。


「わからない」


俺は、正直に答えた。


美咲の顔が、歪んだ。


泣きそうな顔。


「響」


母が、ため息をついた。


「この子が美咲さんよ。今日、ずっと一緒にいた」


今日、ずっと?


「病院にも一緒に来てくれて、あなたのこと、ずっと心配してくれてた」


そうだったのか。


「ありがとう」


俺は、美咲に言った。


美咲は、首を振った。


「お礼なんて、いいです」


彼女の声が震えている。


「それより」


美咲は、鞄から何かを取り出した。


小さなメモ帳。


「これ、響さんに渡そうと思って」


メモ帳?


「響さんが、いつも忘れちゃうから」


忘れる。


そうだ、俺は忘れる。


「だから、メモを取るようにって」


美咲は、メモ帳を俺に渡した。


俺は、それを受け取った。


開いてみる。


最初のページに、何か書いてある。


『美咲のことを、忘れないように』


俺の字だ。


でも、いつ書いたんだろう。


「これ、俺が書いたの?」


美咲は頷いた。


「はい。響さんが」


「いつ?」


「一ヶ月前です」


一ヶ月前。


そんな前のことは、もう覚えていない。


「響」


母が言った。


「美咲さんは、あなたの大切な人よ」


大切な人。


「そうなの?」


母は、美咲を見た。


美咲は、俯いた。


「私は……」


彼女の声が小さい。


「私は、響さんの部下です。それだけです」


それだけ?


でも、なぜこんなに俺のことを心配してくれるんだろう。


「美咲さん」


母が言った。


「本当のこと、言ってあげなさい」


本当のこと?


美咲は、顔を上げた。


涙が流れている。


「響さん」


「ん?」


「私は」


美咲は、俺の目を見た。


「私は、響さんの……」


言葉が途切れた。


それから、彼女は首を振った。


「やっぱり、今は言えません」


「美咲さん」


母が優しく言った。


「でも、いつかは言わなきゃ」


「わかってます」


美咲は、涙を拭いた。


「でも、今は」


彼女は、メモ帳を指差した。


「今は、これを見てください」


俺は、もう一度メモ帳を開いた。


次のページには、日付と出来事が書いてある。


『4月1日 美咲と出会う』


『4月15日 病院。認知症の診断』


『4月25日 初任給。美咲からハンカチをもらう』


『4月28日 入院』


今日は、4月28日なのか。


「これ、全部俺が書いたの?」


「はい」


美咲が答えた。


「響さんが、忘れないようにって」


忘れないように。


でも、全部忘れた。


「ごめん」


俺は言った。


「謝らないでください」


美咲は微笑んだ。


でも、その微笑みは悲しかった。


「響さんは、悪くないから」


悪くない。


でも、俺は忘れた。


大切なことを、全部。


母が、美咲の肩に手を置いた。


「美咲さん、今日はもう遅いから帰りなさい」


「でも」


「大丈夫。お母さんが付いてるから」


美咲は、少し躊躇った。


それから、頷いた。


「わかりました」


彼女は、俺に向き直った。


「響さん、また明日来ます」


「ああ」


「それまで、メモ帳、ちゃんと読んでてくださいね」


「わかった」


美咲は、病室を出て行った。


ドアが閉まる。


母と、二人きりになった。


「お母さん」


「何?」


「あの子、誰?」


母は、深くため息をついた。


「響、本当に覚えてないの?」


「覚えてない」


母は、ベッドの横の椅子に座った。


「あの子はね」


母は、窓の外を見た。


「あの子は、響の婚約者よ」


婚約者。


その言葉が、耳に入った。


でも、意味が理解できなかった。


「婚約者?」


「そう。去年の冬に、響から紹介されたわ」


去年の冬。


そんな記憶は、ない。


「嘘だろ」


「嘘じゃないわ」


母は、俺を見た。


「響、あなたは美咲さんを愛してる。そして、美咲さんもあなたを愛してる」


愛してる。


俺が、あの子を?


「でも、俺、何も覚えてない」


「わかってるわ」


母は、俺の手を握った。


「だから、これから思い出せばいいの」


思い出す。


そんなことができるんだろうか。


「お母さん、俺」


「大丈夫」


母は微笑んだ。


「美咲さんが、きっと助けてくれるわ」


その夜、俺は一人でメモ帳を読んだ。


母は、病院の近くのホテルに泊まると言って出て行った。


メモ帳には、俺の知らない出来事が並んでいた。


美咲との出会い。


一緒に過ごした時間。


プロポーズ。


婚約。


全部、俺が書いた字だった。


でも、全部、知らない出来事だった。


俺は、メモ帳を閉じた。


そして、天井を見上げた。


美咲。


婚約者。


愛してる。


そんな言葉が、頭の中を回る。


でも、実感がない。


俺は、誰かを愛したことがあるんだろうか。


答えは、わからなかった。

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