第7話 重い口調
医者は、重い口調で話し出した。
モニターに映る俺の頭の断面図を指差しながら、何かを説明している。
でも、俺の頭には、その言葉が入ってこなかった。
「響さん」
医者が、俺の名前を呼んだ。
「はい」
「今日の日付は、西暦何年ですか?」
西暦。
今年は。
俺は、一瞬固まった。
今年は。
「……2019年です」
医者は、何も言わなかった。
ただ、少し悲しそうな顔をした。
「続けて質問します。和暦は?」
和暦。
今は。
「平成です」
俺は、しっかりと答えた。
平成。そうだ、今は平成だ。
医者は、俺から視線を外した。
そして、後ろを見た。
俺も振り返る。
美咲が立っていた。
彼女の顔が、こわばっている。
唇を噛んでいる。
医者は、美咲の方を見ながら、ゆっくりと言った。
「響さんは……」
一拍の間。
「若年性の認知症と、軽度の脳梗塞を併発しています」
認知症。
その言葉が、耳に入った。
でも、意味がわからなかった。
認知症? 俺が?
「これからの進行がどうなるかは、正直わかりません」
医者は、モニターを見た。
「脳の海馬の部分、ここが萎縮しています。記憶を司る部分です」
海馬。
萎縮。
「それから、ここ。小さな梗塞の跡があります」
医者の指が、画面の別の場所を指す。
「幸い、運動機能には影響が出ていません。でも、記憶、特に短期記憶に著しい障害が出ています」
短期記憶。
そうか。
だから、俺は忘れるのか。
「ですが」
医者は、再び美咲を見た。
「支えになる人は、必要です」
支えになる人。
「一人で生活するのは、もう難しいでしょう」
一人で。
難しい。
「ご家族は?」
医者が聞いた。
家族。
俺の家族。
「両親は、地方に」
誰が答えたんだろう。
ああ、俺だ。
「連絡は取れますか」
「……わかりません」
本当のことを言った。
医者は、ため息をついた。
「響さん」
「はい」
「これから、症状は進行します」
進行。
「今は、まだ日常生活に大きな支障はない。でも、半年後、一年後、どうなるかは……」
言葉が途切れた。
「最悪の場合、すべての記憶を失う可能性もあります」
すべての記憶。
「自分の名前も、家族の顔も、大切な人のことも」
大切な人。
俺の後ろで、小さくすすり泣く音がした。
美咲だ。
「でも、今はまだ間に合います」
医者は、少し前のめりになった。
「薬物療法で、進行を遅らせることができる。それから、リハビリ。記憶を補助する訓練」
訓練。
「そして、何より大切なのは」
医者は、また美咲を見た。
「周囲のサポートです」
美咲は、涙を拭いた。
「私」
彼女の声が震えている。
「私が、支えます」
医者は、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、あなた一人では難しい」
「でも」
「ご家族に連絡を取る必要があります」
家族。
俺は、スマホを取り出した。
連絡先を開く。
「母」
電話番号がある。
でも、この番号に電話したことがあるだろうか。
いつが最後だったか。
「響さん」
医者が言った。
「今、電話してみますか」
「……はい」
俺は、電話をかけた。
コール音が鳴る。
1回。
2回。
3回。
『はい、もしもし』
女性の声。
母の声、だろうか。
「あ、もしもし」
『響? 珍しいわね。どうしたの?』
響。
俺の名前を、この人は知っている。
じゃあ、母なんだ。
「あの」
何を言えばいいんだろう。
『響? 大丈夫?』
声が心配そうになった。
「俺、病気らしくて」
『病気? どうしたの?』
「認知症って」
電話の向こうが、静かになった。
それから。
『……嘘でしょ』
母の声が震えていた。
『認知症って、何言ってるの。あなた、まだ28でしょう』
28。
そうだ、俺は28歳だ。
「でも、医者が」
『今、どこにいるの?』
医者が、受話器を代わった。
「お母様ですか。響さんの主治医です」
医者は、母に説明した。
若年性認知症のこと。
脳梗塞のこと。
これからのこと。
俺は、ただ座っていた。
美咲が、俺の隣に座った。
彼女は、俺の手を握った。
冷たい手。
いや、やっぱり俺の手が冷たいのか。
「わかりました。では、一度こちらにいらしてください」
医者が電話を切った。
「お母様、明日来られるそうです」
明日。
「それまで、響さん」
医者は俺を見た。
「一人にしないでください」
一人にしない。
「彼女と一緒にいてください」
医者は、美咲を見た。
「大丈夫ですか」
美咲は、頷いた。
「はい」
診察室を出た。
廊下は、静かだった。
俺たちは、並んで歩いた。
「響さん」
美咲が言った。
「今、何年か、わかりますか」
何年。
「2019年」
美咲は、首を振った。
「2025年です」
2025年。
「和暦は、令和です」
令和。
「平成は、もう終わってます」
平成が、終わった?
「響さん」
美咲は立ち止まった。
俺も立ち止まる。
「響さんは、6年間、時が止まってるんです」
6年間。
「2019年から、響さんの中では、時が進んでないんです」
時が進んでいない。
「でも、大丈夫です」
美咲は、俺の手を強く握った。
「私が、響さんの時間を動かします」
動かす?
「だから」
美咲は、涙を流しながら微笑んだ。
「一緒に、これから生きましょう」
俺は、何も言えなかった。
ただ、頷いた。
病院を出ると、春の日差しが眩しかった。
でも、世界は、いつもと同じに見えた。
何も変わっていない。
変わったのは、俺だけだ。
俺の中で、時が止まっている。
2019年で。
「響さん、お腹空きましたか」
美咲が聞いた。
「少し」
「じゃあ、何か食べましょう」
美咲は、俺の手を引いた。
歩きながら、俺は思った。
この手を、いつまで覚えていられるんだろう。
この温もりを、いつまで感じていられるんだろう。
答えは、どこにもなかった。
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