第6話 翌朝
翌朝。
目覚ましが鳴った。
俺は手を伸ばして止めた。それから、いつものようにベッドから起き上がった。
頭痛は、まだ少し残っている。でも、昨日よりはマシだ。
洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、いつもと変わらない。
スーツに着替えて、鞄を持つ。
何事もなく、出社した。
オフィスに入ると、いつもの朝の匂いがした。コーヒーの匂いと、紙の匂いと、蛍光灯の光の匂い。
自分のデスクに座る。パソコンを起動する。
メールをチェックする。
田中が隣に座った。
「おはようございます」
「おはよう」
「体調、大丈夫ですか。昨日早退したって聞きました」
「ああ、もう大丈夫」
「それならよかったです」
いつもの朝。
何も変わらない朝。
でも、何かが引っかかる。
何か忘れている気がする。
俺はデスクの上を見回した。メモ帳。昨日、美咲にもらったメモ帳。
鞄から取り出して、開く。
『明日、美咲と病院。8時、駅』
文字が目に入った。
病院?
8時?
今、何時だ?
時計を見る。9時15分。
その瞬間、スマホが鳴った。
画面を見ると、「美咲」と表示されている。
着信。
俺は電話に出た。
「もしもし」
『何してるんですか?』
美咲の声が、受話器から響いた。
怒っている。いや、それ以上だ。
『今日、8時に病院行くって言ったじゃないですか!!』
病院。
8時。
駅。
記憶が繋がらない。
「あ……」
『「あ」じゃないです! 私、1時間待ってたんですよ!』
1時間。
美咲は、駅で。
俺を待っていた。
「すみません」
『すみませんじゃないです! どこにいるんですか?』
「会社」
『会社!?』
美咲の声が、一段と高くなった。
『なんで会社にいるんですか!』
なんで。
そう言われても。
「いや、朝起きて、普通に出社して……」
『普通にって、約束したじゃないですか!』
約束。
そうだ、約束した。
でも、いつ?
俺は、メモ帳を見た。
確かに書いてある。俺の字で。
「忘れてた」
『忘れてた!?』
美咲の声が震えている。
怒りなのか、それとも別の感情なのか。
『響さん、昨日あんなに心配して、メモ帳に書いてって言ったじゃないですか』
「書いた」
『書いたのに、なんで忘れるんですか!』
書いたのに。
なんで。
俺は、答えられなかった。
電話の向こうで、美咲の息遣いが聞こえる。
荒い息。
それから、小さくすすり泣く音。
「美咲……」
『今から、行けますか』
「今から?」
『病院です。今から行けますか』
俺は時計を見た。9時20分。
「今日は、会議が」
『会議より、響さんの体の方が大事です』
「でも」
『お願いします』
美咲の声が、懇願するような声になった。
『お願いします。行ってください』
俺は、立ち上がった。
「わかった」
『本当ですか』
「ああ」
『じゃあ、今から病院に行きます。10時半の予約、取り直しました』
「予約?」
『はい。昨日のうちに、取っておいたんです』
昨日のうちに。
美咲は、そこまでしてくれていた。
「ありがとう」
『ありがとうじゃないです。ちゃんと来てくださいね』
「ああ」
電話が切れた。
俺は、田中に声をかけた。
「すみません、また早退します」
「え、大丈夫ですか」
「病院に行ってきます」
「そうですか。お大事に」
部長には、メールで連絡した。
それから、会社を出た。
電車に乗る。三つ目の駅。
降りると、美咲が改札の前に立っていた。
「響さん」
「待たせた」
美咲は、俺の顔を見た。
目が赤い。泣いていたのか。
「行きましょう」
彼女は歩き出した。俺は後についていく。
「美咲」
「何ですか」
「さっきは、ごめん」
美咲は立ち止まった。
振り返って、俺を見る。
「謝らないでください」
「でも」
「謝られると、余計に辛いんです」
辛い?
「だって、響さんは悪くないから」
美咲は、また歩き出した。
病院に着いた。
白い建物。消毒液の匂い。
受付で名前を告げる。
「響様ですね。少々お待ちください」
待合室で、美咲と並んで座った。
「頭痛、まだありますか」
「少し」
「我慢しないでくださいね」
「ああ」
沈黙。
俺は、美咲の横顔を見た。
彼女は、じっと前を見ている。
「美咲」
「はい」
「なんで、そこまでしてくれるんだ」
美咲は、俺の方を向いた。
「だって」
彼女は、少し躊躇った。
「響さんは、大切な人だから」
大切な人。
俺が?
「でも、俺たち会ったの、まだ1ヶ月も経ってない」
「そうですね」
「なのに」
「時間は関係ないです」
美咲は微笑んだ。
でも、その微笑みは、どこか悲しかった。
「響様」
看護師に名前を呼ばれた。
俺は立ち上がった。
「一緒に来てもいいですか」
美咲が聞いた。
「ああ」
診察室に入る。
医者が、いつもの穏やかな顔で座っていた。
「響さん、今日はどうしました」
「頭痛が、ひどくて」
「そうですか」
医者は、俺の顔を見た。それから、美咲を見た。
「こちらは?」
「会社の同僚です」
美咲が答えた。
「響さんのこと、心配で」
医者は頷いた。
「では、詳しく聞かせてください」
俺は、頭痛のことを説明した。
いつからか、わからない。でも、ノートには記録がある。
医者は、ノートを見た。
「なるほど。これは、撮影した方がいいですね」
「撮影?」
「CT検査です」
CTを撮ると、お金がかかる。
「費用は、どのくらい」
「保険適用で、5千円前後です」
5千円。
それくらいなら。
「わかりました」
「では、今から検査室に」
俺は、検査着に着替えた。
CT室は、冷たかった。
機械の中に入る。
「動かないでくださいね」
技師の声が聞こえる。
機械が回り始めた。
ウィーン、という音。
それから、カシャ、カシャ、という音。
頭の中を、撮影されている。
何が映るんだろう。
何も映らなければいい。
でも、何かが映る気がする。
検査が終わって、待合室に戻った。
美咲が、立ち上がった。
「どうでした」
「撮った。結果は後で」
「そうですか」
俺たちは、また並んで座った。
30分後。
名前を呼ばれて、診察室に戻った。
医者は、モニターを見ていた。
そこには、俺の頭の断面図が映っていた。
「響さん」
医者は、真剣な顔をしていた。
「少し、お話があります」
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