第4話 初任給
4月25日。
朝、スマホの通知が鳴った。「給与振込完了」というメールだ。
今日は給料日だ。
俺は布団の中で、銀行のアプリを開いた。残高を確認する。
数字が並んでいる。でも、それが多いのか少ないのか、よくわからない。
今の俺で月いくらだっけ。
考えても、思い出せない。
会社に着くと、美咲がいつもより早く来ていた。
「おはようございます、響さん」
「おはよう。早いな」
「今日、給料日なんです」
美咲は少し嬉しそうだった。
「そうだな」
「初任給なんです。初めてのお給料」
初任給。
そういえば、新入社員にとっては初めてなんだ。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
美咲は自分のデスクに座った。スマホを取り出して、画面を見ている。たぶん、残高を確認しているんだろう。
「どうだった?」
俺は何気なく聞いた。
「思ったより少なかったです」
美咲は苦笑した。
「税金とか引かれるからな」
「そうですよね。でも、嬉しいです」
「そうか」
俺の時と比べたら、ベアされてるから。
そう思って、俺は人事部の資料を思い出そうとした。新入社員の初任給。いくらだったか。
どのくらいなんだろう?
「響さん、初任給で何を買いましたか」
美咲が聞いてきた。
「俺?」
何を買ったか。
思い出せない。
「覚えてないな」
「えー、覚えてないんですか」
「もう、何年も前だから」
何年前だ?
俺は、ここに何年いるんだろう。
「私、両親に何かプレゼントしようと思って」
「いいんじゃない」
「響さんは、ご両親に何かしましたか」
ご両親。
俺の両親。
顔が思い浮かばない。
いや、写真で見た顔なら思い出せる。でも、それが本当に俺の両親なのか、確信が持てない。
「たぶん、何もしてない」
「そうなんですか」
美咲は少し残念そうな顔をした。
「響さんって、ご両親とは仲良くないんですか」
「いや、そういうわけじゃ……」
言葉が続かない。
仲が良いのか、悪いのか。それすらも、わからない。
昼休み、食堂で田中と一緒になった。
「給料日ですね」
「ああ」
「今月、残業多かったから少しは増えてるかな」
田中は嬉しそうだった。
「そうだな」
俺は適当に相槌を打った。
「響さん、いくらもらってるんですか」
「さあ」
「さあって」
田中は笑った。
「気にしたことないんですか」
気にしたことがないわけじゃない。
でも、数字を見ても、それが正しいのかどうか判断できない。
「あんまり」
「羨ましいな。俺なんて毎月カツカツですよ」
カツカツ。
俺もそうなんだろうか。
通帳を見ても、増えているのか減っているのか、よくわからない。
「新人たち、初任給で浮かれてますね」
田中が食堂の隅を指差した。
新入社員たちが集まって、何か話している。美咲もその中にいた。
「まあ、初めてだからな」
「響さんの時は、どうでしたか」
「覚えてない」
「またそれですか」
田中は呆れたように笑った。
「響さん、最近本当に記憶力悪いですよね」
記憶力。
そう、記憶力だ。
俺の記憶力は、いつから悪くなったんだろう。
「年かな」
「まだ二十八でしょう。早すぎますよ」
二十八。
そうだ、俺は二十八歳だ。
でも、二十八年間、何をしてきたんだっけ。
午後、美咲が俺のデスクに来た。
「響さん、相談があるんです」
「何?」
「初任給で、両親に何をプレゼントしたらいいと思いますか」
「さあ、親の好みによるんじゃない」
「そうですよね」
美咲は少し考え込んだ。
「お母さんは、花が好きなんです。お父さんは、お酒が好きで」
「じゃあ、それでいいんじゃない」
「でも、ありきたりかなって」
「ありきたりでいいんだよ。気持ちが大事だろ」
美咲は俺の顔を見た。
「響さん、優しいですね」
「そうか?」
「はい。いつも、私の話を聞いてくれます」
聞いているというより、答えられないだけだ。
「響さんは、ご両親、元気ですか」
元気かどうか。
いつ会ったんだっけ。いつ電話したんだっけ。
「たぶん」
「たぶん?」
「最近、連絡取ってないから」
「そうなんですか」
美咲は少し寂しそうな顔をした。
「私、両親と離れて暮らすの初めてで。だから、何かしてあげたくて」
「いいと思うよ」
「響さんも、たまには連絡してあげてください」
「……ああ」
美咲は自分のデスクに戻った。
俺は、スマホを取り出した。
連絡先を開く。
「母」という名前がある。
電話番号が登録されている。
でも、この番号に電話をかけたことがあるだろうか。
いつが最後だったか、思い出せない。
俺は、スマホをデスクに置いた。
夕方、帰り際に美咲が声をかけてきた。
「響さん、これ」
彼女が差し出したのは、小さな包みだった。
「何?」
「初任給で買ったんです。お礼です」
「お礼?」
「いつも、教えてくださるから」
俺は包みを受け取った。軽い。
「開けてもいい?」
「はい」
包みを開けると、中にはハンカチが入っていた。紺色の、シンプルなハンカチ。
「ありがとう」
「響さん、いつもハンカチ持ってないから」
「そうだっけ」
「はい。お手洗いの後、手を拭いてないの見ました」
見られていたのか。
「気をつけるよ」
「あと、これ」
美咲はもう一つ、小さなメモ帳を差し出した。
「メモ帳?」
「響さん、よく忘れるって言うから」
俺は、メモ帳を受け取った。
ポケットサイズの、小さなメモ帳。
「ありがとう」
「大切なこと、書き留めてくださいね」
美咲は微笑んだ。
その夜、家に帰ると、机の上に病院のノートが置いてあった。
『美咲のことを、忘れないように』
俺は、美咲からもらったメモ帳を開いた。
最初のページに、ペンを走らせる。
『今日、美咲から初任給でプレゼントをもらった』
それから、少し考えて、もう一行書き足した。
『俺の初任給は、何に使ったんだっけ』
答えは、どこにもなかった。
でも、書き留めた。
忘れないように。
いや、違う。
忘れたことを、忘れないように。
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