第3話 企画書
「企画書、難しそうですね」
美咲がそう言ったとき、俺は少しあくびを噛み殺した。
「難しくないよ。フォーマットがあるから」
デスクトップの共有フォルダを開く。「企画書_テンプレート」というファイルが並んでいる。
「その手順通りにすれば、誰でも簡単に作れる」
美咲は俺のモニターを覗き込んだ。近い。彼女の髪から、シャンプーの匂いがした。
「でも、中身は考えなきゃいけないんですよね」
「ああ、まあね」
俺はマウスをスクロールした。
「でも、同じフォルダ内には過去誰かが作った企画書がある」
ずらりと並ぶファイル名。2019年、2020年、2021年。作成者の名前が付いている。田中、佐藤、鈴木。
「それを開いて、日付と作成者を変えるだけでも立派な企画書になる」
美咲は何も言わなかった。
俺は、また小さくあくびをした。
「そういうものなんですか」
美咲の声が、少し冷たい気がした。
「そういうものだよ。みんなそうしてる」
「響さんも?」
「……ああ」
本当かどうか、自分でもわからない。でも、たぶん本当だ。そうじゃなきゃ、こんなに自然に言えない。
「なんだか、悲しいですね」
美咲がぽつりと言った。
「悲しい?」
「だって、誰が作っても同じなら、私が作る意味がないじゃないですか」
俺は、モニターから目を離して美咲を見た。
彼女は、真面目な顔をしていた。新入社員特有の、まだ擦れていない顔。
「意味なんて、考えたことなかったな」
「響さんは、考えないんですか。自分の仕事に意味があるかどうか」
考えない。考えても、どうせ忘れる。
「考えないようにしてる」
美咲は、少し眉をひそめた。
「どうしてですか」
「考えると、しんどいから」
これは本当だった。
美咲は俺の顔をじっと見た。それから、小さく息を吐いた。
「じゃあ、私は考えます」
「好きにすればいい」
「響さんの分まで、考えます」
「は?」
「だって、響さんは考えないんでしょう」
美咲は微笑んだ。でも、その微笑みは、朝のものとは違っていた。どこか、強い意志を感じる微笑み。
「それは、余計なお世話だろ」
「余計なお世話ですね」
美咲はあっさりと認めた。
「じゃあ、とりあえずフォーマット通りに作ってみます」
彼女は自分のデスクに戻った。
俺は、またモニターに向き直った。
画面には、過去の企画書が並んでいる。
日付と名前を変えるだけ。
それだけで、仕事が終わる。
俺はいつから、こんなふうに考えるようになったんだろう。
入社したときは違った。気がする。もっと、何か。
でも、思い出せない。
午後三時。
美咲が企画書の初稿を持ってきた。
「見ていただけますか」
「ああ」
俺は書類を受け取った。
フォーマット通りに書かれている。背景、目的、施策、予算、スケジュール。
でも、何かが違う。
「これ、テンプレート使ってないだろ」
「はい。一応、過去の企画書も見たんですけど、今回の案件には合わない気がして」
合わない、という判断。
そんなこと、俺は考えたことがあっただろうか。
「時間かかっただろ」
「三時間くらいです」
「三時間」
テンプレートを使えば、三十分で終わるのに。
「無駄だな」
その言葉が、口から出た。
美咲の顔が、一瞬強ばった。
「そうですね」
彼女は企画書を受け取った。
「でも、この無駄な時間、私は嫌いじゃないです」
そう言って、美咲は自分のデスクに戻った。
俺は、また小さくあくびをした。
眠いわけじゃない。でも、あくびが出る。
夕方、田中が話しかけてきた。
「響さん、新人の教育どうですか」
「まあ、ぼちぼち」
「桜井さん、真面目そうですよね」
「ああ」
「響さんみたいにならないといいですけどね」
田中は笑った。
「俺みたいって?」
「いや、なんか最近、疲れてません? 顔色悪いですよ」
顔色。
俺は、自分の顔を意識したことがなかった。
「そうかな」
「ちゃんと寝てます?」
寝てる。たぶん。
でも、朝起きると、いつも疲れている。
「大丈夫だよ」
「そうですか。まあ、無理しないでくださいね」
田中は自分の仕事に戻った。
俺は、デスクの引き出しを開けた。
中に、あのノートが入っている。
『美咲のことを、忘れないように』
なぜ、俺はそんなことを書いたんだろう。
美咲と会ったのは、二週間前だ。
それなのに、まるで昔から知っているような。
いや、違う。
昔から知っているのに、思い出せないような。
俺は、ノートを閉じた。
その日の帰り道、駅のホームで美咲と会った。
「あ、響さん」
「帰り?」
「はい」
電車が来るまで、二人で並んで立った。
「さっきは、すみませんでした」
美咲が言った。
「何が」
「無駄だって言われて、むっとしちゃいました」
「いや、俺の方こそ。言い方が悪かった」
美咲は首を振った。
「響さんは、正直ですから」
また、その言葉。
「正直って言うより、適当なんだよ、俺は」
「そうですか?」
美咲は俺の顔を見た。
「私には、響さんが一番正直に見えます」
電車が滑り込んできた。
ドアが開く。
俺たちは、無言で乗り込んだ。
車内は空いていた。
美咲は窓際に座り、俺はその隣に座った。
「響さん」
「ん?」
「企画書、もう一度作り直してもいいですか」
「好きにすれば」
「テンプレート、使います」
「そうか」
「でも、一箇所だけ変えます」
「どこを」
美咲は、窓の外を見た。
「作成者の名前の横に、教えてくれた人の名前も書きます」
「俺の名前?」
「はい。響さんが教えてくれたから、作れたんです」
俺は、何も言えなかった。
電車は、夜の街を走っていた。
窓ガラスに、俺たちの姿が映っている。
二十八歳の男と、二十二歳の女性。
教育係と新入社員。
でも、なぜか俺には、それが逆に見えた。
教えられているのは、俺の方だ。
何を教えられているのか、まだわからない。
でも、確かに。
俺は、あくびを噛み殺した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます