第2話 4月15日
4月15日
朝、目が覚めたとき、枕元のスマホが震えていた。アラームじゃない。着信だった。
「もしもし」
『響さん、今日は病院の日ですよ』
聞き覚えのない声。でも、優しい声だった。
「あ、はい」
『十時の予約です。忘れないでくださいね』
電話は切れた。
俺は通話履歴を確認した。「訪問看護ステーション」と表示されている。訪問看護? 俺が?
スーツに着替えながら、鏡を見た。二十八歳の男が映っている。痩せてもいない。太ってもいない。病人には見えない。
なのに、病院。
会社に電話した。
「すみません、今日は午前中休みをいただきます」
「わかりました。桜井さんには私から伝えておきます」
桜井さん。美咲。
そうだ、俺は彼女の教育係だった。
病院は、駅から三つ目だった。自動ドアをくぐると、消毒液の匂いがした。この匂いは嫌いじゃない。むしろ、どこか安心する。
「響さん、こちらへどうぞ」
看護師が俺を診察室に案内した。
中には、白衣を着た医者が座っていた。五十代くらいだろうか。穏やかな顔をしている。
「調子はどうですか」
「普通です」
「困っていることは?」
困っていること。
「特には」
医者は俺の顔をじっと見た。それから、ため息をついた。
「響さん、前回のことを覚えていますか」
前回? いつだ?
「覚えてます」
嘘をついた。
「何を話しましたか」
「……」
答えられなかった。
医者は優しく微笑んだ。
「大丈夫です。そういうものです」
そういうもの?
「お薬、続けていますか」
「はい」
またも嘘。薬なんて飲んでいたか? いや、飲んでいる。朝、白い錠剤を二つ。でも、それが何の薬なのか、思い出せない。
「メモは取っていますか」
「メモ?」
「前回、お渡ししたノート。大切なことを書き留めるようにって」
ノート。
そういえば、鞄の中にノートが入っていた。真新しいノート。でも、一度も開いたことがない。開こうと思って、何度も忘れた。
「取ってます」
三度目の嘘。
「では、また二週間後に」
診察は終わった。
会計を済ませて外に出ると、春の日差しが眩しかった。
新入社員が入って二週間が経った。
そう思いながら、俺は駅に向かって歩いた。
美咲のスーツは、まだ真新しい。色褪せることは二週間程度ではない。汗をかくこともないんだから。彼女はいつも涼しい顔をしている。まるで、この世界が彼女のために用意されたもののように。
俺は皮肉な顔をしながら病院を後にした。
会社に着いたのは、昼過ぎだった。
「響さん、大丈夫ですか」
美咲が俺のデスクに来た。
「ああ、大丈夫」
「どこか、お悪いんですか」
「いや、定期検診みたいなもんだから」
美咲は俺の顔を見た。じっと。
「嘘」
「え?」
「嘘ですよね」
心臓が跳ねた。
「何が」
「響さん、顔に出てますよ」
美咲は微笑んだ。でも、その微笑みは、どこか悲しそうだった。
「俺の顔に、何が出てるんだ」
「寂しそうな顔」
寂しそう?
俺は、寂しいのか?
「午後から、企画書の作成を教えてもらえますか」
美咲は話題を変えた。
「ああ」
俺たちは、会議室に移動した。
ホワイトボードに、美咲が何かを書いている。企画の骨子。ターゲット。予算。俺は横に座って、それを眺めていた。
「響さん、これで合ってますか」
「ああ、いいんじゃない」
本当はよくわからなかった。でも、間違っている気もしなかった。
「響さん」
「ん?」
「私、響さんに教わりたいことがあるんです」
「何?」
美咲はペンを置いた。
「どうやったら、忘れられますか」
「忘れる?」
「ええ。忘れたいことって、ありますよね」
俺は、美咲の顔を見た。
彼女は、真剣な顔をしていた。
「忘れたいことなんて、放っておけば忘れるよ」
「本当ですか」
「本当だ」
これは、嘘じゃなかった。
俺は、毎日何かを忘れている。忘れたくないことも、忘れたいことも、全部。
「じゃあ、逆に」
「逆に?」
「忘れたくないことは、どうすれば忘れずにいられますか」
美咲の瞳が、俺を見つめていた。
俺は、答えを知らなかった。
「……わからない」
初めて、本当のことを言った。
美咲は、また微笑んだ。
「響さんは、正直ですね」
夕方、家に帰ると、冷蔵庫に付箋が貼ってあった。
『今日の夕食、作り置きしておきました。温めて食べてください』
誰の字だろう。
俺は、その付箋を剥がして、ゴミ箱に捨てた。
そして、鞄からノートを取り出した。
医者が言っていた、メモを取るためのノート。
最初のページを開く。
そこには、俺の字でこう書いてあった。
『美咲のことを、忘れないように』
俺の手が、震えた。
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