君の嘘は僕の真実。僕の嘘は君の嘘

あさき のぞみ

第1話 出会い



四月の朝は、いつも同じ匂いがする。


新しいスーツの繊維と、緊張した人間の汗と、まだ誰も座っていない椅子の冷たさが混ざった匂い。オフィスの蛍光灯は今日も変わらず白く、窓から差し込む春の光を無意味なものに変えていた。


「おはようございます」


新入社員たちの声が、廊下から次々と聞こえてくる。俺は自分のデスクで、モニターに映る何かの数字を眺めていた。何の数字だったか、もう思い出せない。


「響さん、今年の新人、12人だって」


隣の席の田中が話しかけてきた。田中。そうだ、田中だ。顔は覚えている。名前も覚えている。でも、いつから一緒に働いているんだっけ。


「そうなんだ」


俺は適当に相槌を打った。


「響さんが入ったときは何人でした?」


「さあ、覚えてないな」


嘘じゃない。本当に覚えていない。でも、覚えていないことを悟られてはいけない気がして、俺は少し笑ってみせた。


午前10時。会議室に全員が集められた。


新入社員たちは最前列に並んでいる。真新しいスーツ。真っ白な名刺入れ。まだ何も書かれていない名刺。配属先も決まっていない、真っ白な存在。


君もそうだったよね。


誰に向かって言っているのか、自分でもわからない。でも、そう思った。


部長が何か話している。俺は聞いているふりをしながら、新入社員たちの顔を眺めていた。12人。一人一人、違う顔をしている。当たり前だ。でも、不思議なことに、俺にはみんな同じに見えた。


いや、違う。ひとりだけ、違う。


最前列の端にいる女性が、こちらを見ていた。


視線が合う。彼女は微笑んだ。俺も、反射的に微笑み返した。


会議が終わり、新入社員たちは人事部に連れていかれた。俺は自分のデスクに戻る。モニターには、さっきと同じ数字が映っている。


「響さん」


声がした。振り返ると、さっきの女性が立っていた。


「はい」


「あの、すみません。お手洗いの場所を教えていただけますか」


「ああ、あっちです」


俺は廊下の奥を指差した。


「ありがとうございます」


彼女は頭を下げて歩いていった。それから、数歩進んだところで立ち止まり、振り返った。


「あの」


「はい?」


「私、桜井美咲です」


名前を名乗られた。でも、まだ名刺は配られていないはずだ。


「響です」


俺も名乗った。すると彼女は、もう一度微笑んだ。


「知ってます」


そう言って、彼女は去っていった。


知ってる? 俺のことを?


そんなはずはない。今日が初めてだ。でも、なぜか胸の奥が、ざわざわした。


その日の午後、俺は人事部に呼ばれた。


「響さん、ちょっといいですか」


人事課長の声が妙に優しい。優しすぎる。


「新入社員の教育係をお願いしたいんです」


「俺が?」


「ええ。桜井美咲さんという方なんですが」


その名前を聞いた瞬間、俺の手が震えた。


「どうしました?」


「いえ、何も」


俺は手を握りしめた。


「彼女、響さんを指名したんですよ。会議のとき、あなたの仕事ぶりを見ていて、ぜひお願いしたいと」


指名? 会議のとき? あのとき俺は何もしていない。ただ座っていただけだ。


「わかりました」


なぜか、断れなかった。


その夜、家に帰って冷蔵庫を開けた。


中には、見覚えのない料理が入っていた。誰が作ったんだろう。俺は一人暮らしのはずだ。


キッチンのカレンダーを見る。四月十五日に丸がついている。何の日だっけ。誕生日じゃない。記念日でもない。


スマホを取り出して、カレンダーアプリを確認する。「病院」と書いてある。


病院?


俺は、いつから病院に通っているんだろう。


ベッドに横になり、天井を見つめた。白い天井。オフィスの蛍光灯と同じ白さ。


桜井美咲。


その名前を、俺は知っている気がした。


でも、どこで会ったのか、思い出せない。今日が初めてのはずなのに。


俺はここに来て、何年が経ったんだろう。


そう思いながら、俺は眠りに落ちた。


夢の中で、誰かが泣いていた。


それが誰なのか、俺にはわからなかった。

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