第9話 判子と数字と、笑い声と

 弁護士事務所の応接室には、淡いコーヒーの香りが漂っていた。聖士は湯呑みに手を伸ばしたものの、結局ほとんど口をつけられなかった。


 向かいに座るスーツの弁護士が、書類を一枚ずつ整えながら口を開く。


「結論から申し上げます。慰謝料ですが……“そこまで”は、取れません」


 淡々とした声。

 感情を抑えたプロの声音。


「……不倫の証拠は揃えていただきました。ホテルの出入り、メールの内容、時系列。こちらは十分です。ただ――」


 弁護士は視線を上げた。


「相手方の収入が多くない。ここが大きいです」


 静かに言葉が落ちてくる。


「慰謝料というのは“懲罰金”ではなく“損害に対する補償”です。そして、支払い能力の範囲が強く考慮されます」


 数字が書かれた紙が、こちらへ滑らせて差し出される。


 その額は、想像よりもずっと現実的で、ずっと軽かった。


「……これが、最大?」


「現実的な上限です。裁判になれば時間も費用もかかりますし、回収不能のリスクもある。任意でまとめる方が得策と言えるでしょう」


 聖士は小さく息を吐いた。


 怒りでも、失望でもない。

 ただ、「現実とはこういうものか」という感覚だけが残る。


 弁護士はさらに続けた。


「親権についてですが、お子さんは現在奥様と同居されていますね」


「……はい」


「年齢、生活環境、学校、生活基盤。総合的に判断すると、現時点では母親側の親権が認められる可能性が極めて高いです」


 わかっていた。

 頭では、ずっと前から理解していた。


 それでも、胸の奥の奥に、冷たい風が吹いた。


「ただし、面会交流権は当然あります。定期的な接触、連絡、成長を見守る権利は守られます」


 守られる、という言葉がやけに遠く感じた。


 静かな沈黙が落ちる。


 弁護士が書類を揃える音だけが部屋に響いた。


「ここに署名と押印をお願いします」


 ボールペンを持つ指先に力が入る。

 用紙の上に自分の名前を書く。

 長年名乗ってきたその文字が、今日だけは別人のもののように見えた。


 判子を押す。

 朱肉の色が妙に鮮やかだった。


「これで……離婚は成立です」


 言葉は簡単だ。

 現実は簡単ではない。


 しかし――その瞬間、聖士の肩から何かが静かに落ちた気がした。


 帰り道、空は薄い雲に覆われていた。

 冬でもないのに、冷たい風が頬を撫でる。


(終わったんだな)


 長かったわけではない。

 潔くもなかった。

 綺麗でもない。


 ただ、ひとつの物語が区切られた。


 ◇


 夜。

 配信を始める直前、聖士は深く息を吸い込んだ。


「……よし」


 ボタンを押す。

 画面が切り替わり、姫宮みことが微笑む。


「こんばんは。姫宮みことです。今日はね……ちょっと真面目な話をするよ」


 コメントが流れる。


〈どうした?〉

〈声のトーン違う〉

〈相談枠?〉


 聖士は軽く笑った。


「今日ね、離婚届出してきました。はい、バッチリ成立しました」


 一瞬、コメントが止まり――

 次の瞬間、爆発する。


〈え!?〉

〈マジで?〉

〈おつら……〉

〈よく言ってくれた〉


「慰謝料はね、思ったより取れませんでした。なんでかって?この世には“支払い能力”っていう現実があるんだって。ハイ現実、拍手」


 パチパチというSEが入る。

 コメント欄が一斉に草原になる。


〈現実は非情〉

〈拍手すなw〉

〈テンポ良く刺さる〉


「親権は向こう。まあ妥当だろうね。私は会う権利だけ持ってます。なんか、ゲームで言うと“DLCだけ買った人”みたいな感じ」


〈例えww〉

〈悲しいのに笑わせるな〉

〈言い方天才か〉


 聖士はほんの少しだけ、喉の奥を震わせた。


「でもね、不思議なことに、泣けなかったんだ。紙に名前書いて、判子押して、“はい成立です”って言われて……ああ、こうやって人は解放されるんだなって」


〈解放って言えたのすごい〉

〈強い〉

〈泣いても笑ってもいい〉


「だから今日の配信テーマはこれ」


 アバターが胸を張る。


「“離婚成立したVTuberが今夜も元気に笑います”」


 一拍置いて、聖士はわざと明るく言う。


「でも慰謝料はガチャ十連より軽いです!以上!」


〈やめろwww〉

〈笑っちゃいけないのに笑う〉

〈語彙の刃物〉


 コメントの勢いがとんでもない速度で流れ始めた。


 その右上で、数字が跳ね上がっていく。


 15000

 18000

 ――20000


 同時接続、二万人。


「……マジか」


 聖士は少しだけ言葉を失った。


 コメント欄は、一面の「おめでとう」と「草」と「大丈夫?」で埋め尽くされている。


「ありがとう。

 正直、今日は一人でいるのがちょっとだけ怖かったんだ。だから配信ボタン押した。……来てくれてありがとう」


 画面の向こうから、無数の視線がこちらに届くような気がした。


 聖士は静かに微笑む。


「じゃあ、離婚記念に歌でも歌おっか」


〈記念って言うなw〉

〈強すぎるメンタル〉

〈一生ついていく〉


 それは悲劇でも喜劇でもなく、

 ただ――前に進むための夜だった。


 そして彼の人生は、確実に「物語」になり始めていた。


 ◇◇◇


 同時接続二万人を超えた離婚回の配信から一夜。

 朝になってもスマホの通知は止まらなかった。振動音が机の上を小刻みに叩き、画面が光るたびに新着のメンションや引用、まとめ記事が積み上がっていく。


「またニュースかよ……」


 タイトルに自分の名前とチャンネル名が並んでいるのが目に入る。

〈どん底社畜VTuber、離婚を語る〉

〈“笑っていいのか泣くべきか”配信が大反響〉

 文章の端々には、俺の言葉が切り取られ、火に油を注ぐように拡散されていた。


 登録者数を確認すると、数字はぐんぐん跳ね上がっている。

 十二万七千……八千……そして、あっという間に十三万を突破していた。


「本当に、人生ってどこで転がるかわかんねえな……」


 嬉しさよりも、怖さに近い感情が胸の奥で静かに鳴る。

 あぐらをかいてはいけない――あの言葉を思い出し、深く息を吐いた。


 通知欄に、見覚えのある名前を見つけた。

 最初期から配信に来てくれていた、あの若いイラストレーターだ。


〈お疲れさまです。昨日の配信、見てました。

 無理だけはしないでくださいね。〉


 思わず口元が緩む。


「……ほんと、支えられてるのは俺のほうだよ」


 短く感謝の返信を打ち、スタンプを一つ添える。

 するとすぐ既読がつき、向こうからも少し照れたような顔文字が返ってきた。


 その直後、見慣れない差出人からメールが届く。件名には、大手新聞社の名前。

 本文には、取材依頼の丁寧な文章が並んでいた。


〈現在の活動と半生について、記事として紹介したいと思い、ご連絡した次第です。読者の共感を得られるテーマだと確信しております〉


 口の中がきゅっと乾く。


「俺の……人生を、記事に?」


 胸の奥で何かがざわついた。

 逃げたくなる気持ちと、踏み出したい気持ち。

 しばらく迷った末、取材そのものは前向きに検討する、と無難な返答を送る。


 夜が近づく。

 今日は、以前から告知していた――十万人登録記念の深夜配信の日だ。


 椅子に座り、スタジオライトを整え、マイクを手前に寄せる。

 OBSのプレビューに、見慣れた“待機画面”を出そうとして、指が止まった。


 そこに映っていたのは、見たことのないイラストだった。


「……え?」


 柔らかな光に包まれた姫宮みこと。

 配信開始を待つ視聴者へ手を振り、微笑んでいる――

 端に、小さく描かれたサイン。あの子の名前。


 思わず息をのんだ瞬間、DMが届く。


〈10万人、本当におめでとうございます。

 驚かせたくて、今日まで黙ってました〉


 胸の奥が熱くなる。


「……やられたなあ……」


 配信開始ボタンを押す。

 コメント欄が一瞬で光に満たされる。


「こんばんは、姫宮みことです――」


 開始五分で同時接続は三万人、

 二十分で四万人を超え、

 スパチャはまさに滝のように流れ続けた。


〈おめでとう!〉

〈泣くなよ!〉

〈ここまで来たな〉

〈最初から見てた勢、胸熱〉


 笑おうとした。冗談を言おうとした。

 なのに、声が震えて、言葉が出てこない。


 視界が滲む。

 頬を伝ったものが、マイクに落ちそうになる。


「……ありがとう。

 ほんとに……ありがとう……」


 コメントが一斉に優しく揺れる。

〈泣いていいんだ〉

〈ここが、あなたの居場所だよ〉


 深夜のスタジオに、静かで温かい熱が満ちていく。


 俺は初めて、配信の中で声を上げて泣いた。


 そしてその涙は、

 過去への悔しさでも、敗北でもなく――


 確かに今ここにある“第二の人生”を、

 やっと抱きしめられた証のように思えた。


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妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転 小林一咲 @kobayashiisak1

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