第8話 筋トレ?いいえ悲鳴です

 配信開始と同時に、コメント欄が明るく弾けた。画面の向こうで、みことのアバターが軽く手を振る。


「こんばんは、姫宮みことです。今日も来てくれてありがとう。え?声がちょっと元気?うん……あのね、自分磨きを頑張ろうと思って」


〈えらい!〉

〈意識高い系VTuber爆誕〉

〈何するの?美容?語学?〉


「それでね、みんなにも相談したいんだ。自分磨きって、何から始めるべきかな?」


 コメントが一気に流れ出す。


〈発声練習!〉

〈早寝早起き!〉

〈料理スキル!〉

〈外に出るところからでは〉


 そして、ひとつの意見が固まり始めた。


〈運動しよ〉

〈引きこもってたら身体が死ぬ〉

〈筋トレ配信やろう!〉

〈健康は資本だぞ〉


「筋……トレ?」


 アバターの口元がひくつく。

 聖士の背後では、現実の身体が固まっていた。


「いやあの、言っておくけど、今の私の体力……夏の階段三段で息切れするレベルなんだけど」


〈それはヤバい〉

〈逆に見たい〉

〈健康診断で医者に怒られるやつ〉


「笑いながら言うのやめてくれない?」


 しかし流れは完全に決まっている。


〈腹筋いこう〉

〈腕立てチャレンジ〉

〈回数少なくていいからやってみて〉


「じゃあ……ちょっとだけね。ほんと“ちょっと”。」


 床マットの上に移動し、マイク位置を調整する。

 アバターも床に寝転ぶポーズに切り替わる。


「まずは腹筋……」


 身体を起こす。

 腰が悲鳴を上げる。


「っ……!!」


〈無理すんなwww〉

〈おっさんの呻き声〉

〈SEじゃないのリアルなの〉


「いやリアルです……今ので一回?」


 二回目。

 三回目。

 四回目。


 四回目の途中で、腹の奥がつりそうになった。


「……っ、ちょ、待って待って待って……」


〈顔真っ赤になってそう〉

〈アバターは可愛いのに中身が悲鳴〉

〈応援してる頑張れ〉

〈ちょっとエロい。〉


「応援だけで腹筋が強くなるなら、今頃シックスパックだよ……」


 五回目に挑戦。

 半分起き上がったところで、見事に止まる。


 沈黙。


「……」


 床に倒れた。


〈戦死〉

〈早い〉

〈R.I.P〉


「腹筋……五回で……終了とさせていただきます……」


 息が荒い。

 喉がカラカラだ。


「じゃ、じゃあ腕立ていきますか……」


〈無理するな〉

〈挑戦する姿がもう尊い〉

〈心は折れていない〉



「心は折れてないけど肘は折れそう」


 腕をつき、身体を下ろす――

 肩がプルプル震えた。


 一回目、なんとか成功。

 二回目、肘が悲鳴。

 三回目の途中――


 床に崩れた。


「……ッはぁ……はぁ……」


〈これはアカン〉

〈健康状態の方が心配になってきた〉

〈ジム行こう 今すぐ〉

〈中身がガチで運動不足〉


「コメント欄が“笑い”から“憐れみ”に変わるのやめてくれない?」


 椅子に戻り、冷たい水を一気に飲む。


「……わかった。真面目な話するね」


 アバターの表情が少し落ち着く。


「私、多分、思ってたよりずっとボロボロだわ。

 仕事してた頃も、体なんて気にしなかったし……」


 しばしの静寂。


 だが、コメントは温度を落とさず流れる。


〈今から直せば間に合う〉

〈一緒に成長してこ〉

〈健康第一VTuberになろ〉

〈筋トレタグ作ろう〉


「……ありがとう。

 笑ってくれて、心配してくれて……なんか救われたな」


 照れくさく笑いながら、手を振る。


「今日のまとめ。

“筋トレは命を削る”。以上です」


〈違う〉

〈やれw〉

〈次回リベンジ配信希望〉


 笑いとツッコミに包まれながら、配信は温かく終わりへ向かっていった。


 そして聖士は静かに思う。


 ―――本当にやばいのは、筋力よりも生活習慣かもしれない。


 その夜、腹筋にじわじわと来る筋肉痛に震えながら、布団へ潜り込んだ。


 ◇◇


 朝。

 鏡の前で軽く身体をひねった瞬間、腹筋が悲鳴を上げた。


「……いってぇ……」


 昨夜の筋トレ配信の名残。

 笑いは残り、筋肉は崩壊していた。


(これはもう、素直にプロに頼ろう)


 そう腹を括った聖士は、近所の24時間ジムに入会した。


 受付を済ませ、ロッカーでジャージに着替える。

 鏡に映る体型は、どう見ても「運動経験の少ないおじさん」である。


(……ここから、だ)


 意気込んでジムエリアへ出ると、トレーナーらしき若い男性が笑顔で声をかけてきた。


「こんにちは。本日ご利用初めてですね。軽く体力測定からいきましょう」


「お願い、します」


 笑顔が固い。


 まずは軽いストレッチから、と促され、前屈を試す。

 指先は太ももにすら届かない。


「……硬いですね」


「知ってました」


 続いてトレッドミルでウォーキング。

 五分で息が上がる。


「ちょ、ちょっと……ペース……落として……」


「まだ“歩き”です」


 トレーナーの声は優しい。

 しかし、その優しさが逆に刺さる。


 次はマシンで軽めの筋トレ。

 軽量設定でも、腕がプルプル震える。


「肩に力入りすぎてます。力抜いて――」


「これ以上抜いたら落ちます……!」


 三回目で止まった。


 トレーナーは数秒沈黙し、静かに言った。


「……かなり体力が落ちていますね」


 直球だ。


「正直に申し上げますと――」


「はい」


「生活改善レベルから始めましょう」


「……はい」


 励ましなのか判決なのか、わからない。


 最後に姿勢チェック。

 鏡の前で立つと、トレーナーが腕を組む。


「猫背、巻き肩、腹筋機能低下、呼吸浅め」


「フルコンボですね?」


「はい、フルコンボです」


 笑顔で言わないでほしい。


 そして総評。


「本日のまとめ。無理すると壊れます」


「壊れてました……」


 帰り際、背中に優しい一言が飛ぶ。


「ですが、まだ“間に合う体”ですよ」


 胸に少しだけ灯が残った。


 ◇


 夜。

 配信が始まる。


「こんばんは、姫宮みことです。えー本日はですね……ジムに行ってきました」


〈おお!意識高い!〉

〈筋トレ続けるんだ〉

〈で、どうだった?〉


「まず前屈でね、太ももまでしかいかなかったの」


〈硬すぎて草〉

〈それは筋トレ以前の問題〉

〈生き方を見直すやつ〉


「トレーナーさんに、“かなり体力が落ちてますね”って言われて……」


〈オブラート無し〉

〈プロは正直〉

〈言い方に優しさあるやつ〉


「極めつけは、“生活改善レベルから始めましょう”」


 コメント欄が一斉に爆発した。


〈最初のダンジョンにも入らせてもらえない勇者〉

〈チュートリアル未達成〉

〈RPGならまだスライムにすら会ってない〉


「やめてくれない?例えが毎回グサグサ刺さるの」


〈でも行動したのがえらい〉

〈真面目に取り組んでて応援したくなる〉

〈今日の話めちゃくちゃ好き〉


 聖士は少し照れたように笑う。


「正直ね、ショックだったよ。思ってたより、自分の身体が弱ってるって知るのって……結構くる」


 一瞬だけ静かになるコメント欄。


 しかしすぐに温かい言葉が流れ始めた。


〈ここから強くなる配信者を見たい〉

〈成長過程コンテンツきたな〉

〈一緒に頑張ろ〉


「ありがとう……じゃあ宣言します」


 息を整えて、言葉を落とす。


「私は、小さくでも前に進むVTuberになります」


〈推すわ〉

〈名言出た〉

〈今日の回、保存した〉


 その瞬間、画面右上の数字が弾けた。


 ―― 99,998

 ―― 99,999

 ―― 100,000


「……あ」


 コメント欄が雪崩れ込む。


〈10万人!!〉

〈ついにきた!!〉

〈おめでとうおめでとうおめでとう〉


 胸が熱くなる。

 喉の奥がうまく動かない。


「……ありがとう。弱い自分を笑って、支えてくれるみんながいるから、私はまだ立てるよ」


 アバターがそっと微笑む。


 画面の向こうで、聖士も同じように微笑んでいた。


 その笑顔は、昨日よりほんの少し前を向いていた。


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