魔女(リュールカ)は月には還れない ー記憶を失った小さな魔女の、新たな旅のきっかけー

二式大型七面鳥

章前

 その魔女は、天窓を通して月を見上げていた。

 小さな、魔女。

 魔女と呼ぶ事すらはばかられるような、少女の見た目をした、比類なき魔女。

 その魔女が居るのは、自宅の天井裏の寝室。

 かつては、自分の先生レーレリンが、同じように見上げたであろう月を、同じベッドの上から。

 1945年、2月5日、深夜。

 新月に向かう月は、日に日に痩せてゆく。

 その月を、故郷ふるさとを、どんな思いで先生レーレリンは見上げていたのか。

 その魔女は、知らない。尋ねたこともなかったし、そもそも、先生レーレリンと一緒に居る間は、先生レーレリンがどのような思いを抱いているかなど、気にしたことが無かったから。

 その魔女は、先生レーレリンと共にあった頃、同じベッドで共に休んだことはなかった。

 うっすらと、自分は常に階下の小部屋で寝起きしていた事は覚えている。

 そういうものだと思うことすら、その頃はなかった、ということも。

 魔女は、ため息をつく。

 しんしんとした部屋の空気より冷たいため息を。

 そういう事だけは、覚えているのに。

 長い事一緒に居て、自分には、先生レーレリンの記憶が、その程度しか残っていない。

 自嘲的に、魔女は頬を歪める。

 何故そうしたのか、自分でも分からないまま。

 聞けるものなら、この気持ちの正体を先生レーレリンに聞きたい。

 魔女は、月を見上げる。

 魔女は知っている、もう二度と、先生レーレリンに何かを尋ねるようなことは出来ないのだろう事を。

 そして、魔女は思う。

 この寂しさこそ、この哀しさこそ、先生レーレリンが月を見て、毎夜、感じていたことかもしれない、と。

 魔女は、思う。

 今も、どこかで、先生レーレリンは月を見上げているだろうか、と。

 自分では、結局、その哀しみを癒やすには役不足であったのだろう、と。

 だから、先生レーレリンは自分の側から去ったのだろう、と。


 魔女は、身を起こし、ベッドの傍らのサイドテーブルの引き出しを開ける。

 腰まである黒髪が、体の動きを追って流れる。

 片手で髪を後ろに払いのけ、魔女は引き出しの中に手を延ばす。

 入っているのは、数通の、開封済みの手紙。軍の検閲済みの印の押された、色気のない、茶封筒。

 ベッドサイドの電灯を点けて、サイドテーブルの上の眼鏡をかけ直して、魔女はその一つを取り上げ、読む。

 魔女は、生まれてこの方の半世紀ほどの生の間、手紙などもらったことはなかった。

 それはそうだ、村の者とは手紙のやりとりなど必要はなく、ごくわずかのつきあいのある地上の魔法使いとは、彼ら彼女ら自身あるいはその使い魔が直接用を伝えてくる、魔法使いとはそういうものだ。

 だから。魔女にとって、手紙とは、とてもとても珍しいものだった。

 贈り主は、かつて一度だけ会った事のある、若い軍人。

 年に数度、送ってくる手紙。

 その手紙は、誠実な筆致で、たどたどしい言葉遣いで、軍組織に検閲を受けない範囲でぼかして、魔女に伝える。

 どこに行ったか、何をしたのか、しかし、重要なのはそこではない。

 数年前のあの数日の出会いが、どれほど今の仕事に役に立っているか。

 どれほど、心の支えになっているか。

 感謝と、そして、それだけではない、しかし明確には文字にならない何かの感情。

 言葉の端々に潜むそれが何か、魔女も分からない。

 分からないけれど。

 魔女は、読み終えた手紙を胸に抱く。

 この手紙は、いつも、魔女の心を温かくし、そして同時に、ちょっとだけかき乱す。

 とても気持ちよく、少しむずがゆく、ちょっとだけ切ない。

 魔女は、ため息をつく。

 先ほどとは違う、熱いため息を。


 魔女の名は、リュールカ・ツマンスカヤ。

 月の魔女リュールカの一番弟子であり、姿形は生き写し、持てる力も魔女リュールカに匹敵する、創られし者ホムンクルス

 くしゃり。

 軽く皺が寄るほどに強く手紙を胸元に抱き込んで、小さな魔女は強く目を閉じた。

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