『花子さんは誰にも渡さない』
鈑金屋
三階の出会い
——国語教師はロマンチックな職業だ。少なくとも、大学の頃の私はそう信じていた。
朝は詩を読み、昼は文法を整え、放課後は物語の続きを語る。生徒は目を輝かせ、私は静かにうなずく。
(現実? 会議・電話・書類・また会議。あと、コピー機は絶対に私だけを敵視している)
名前は
「先生、最近ちょっと疲れてます?」と生徒に心配されるレベルで、ここしばらくずっと忙しい。
それでも私は教師だ。子どもたちの前ではしゃんと背すじを伸ばす。黒板の前だけは、胸を張っていたい。
放課後。廊下を吹き抜ける風が、掲示物をぺらりとめくる。
今日の授業は全部終わり、あとは職員会議用の資料を——
「……あれ、ない」
やらかした。三年一組に置き忘れてきた。
会議開始まで十五分。走れば間に合う、はず。
パンプスを小さく鳴らして階段を駆け上がる。夕焼けがガラスに赤い帯を引き、磨かれた廊下に細長い私の影を落とした。
教室に滑り込み、机の上の資料をつかむ。ほっと胸を撫でおろした、その時——
ぴきり。
お腹の奥で、電気がはしったみたいな感覚。
(あっ。これ、いわゆる切羽詰まったやつ)
近くのトイレの札には「清掃中」。二階は遠い。
私は、ふと見上げる。三階の突き当たり。旧校舎の渡り廊下の向こう側。薄暗い角の向こうに、女子トイレ。
この学校では誰もが知っている。旧校舎の三階の女子トイレ、三番目の個室には——。
「迷信は授業で扱うものであって、今は切実な現実です」
やむなし。私はドアを押し開けた。
ひやり、と冷気。古いタイルの匂い。静かすぎるほど静かな空間。
……音がしない。人の気配も、換気扇の低い唸りすら、ぜんぶどこかに吸い込まれたみたいだ。
(落ち着いて。教師は理性)
鏡に映る自分に言い聞かせて、ゆっくり奥へ進む。
一番目——鍵。二番目——鍵。
なんで?
三番目だけ、わずかに扉が開いている。
「……失礼します」
言い切る前に、内側の闇がすっとほどけた。
そこに、いた。
赤い吊りスカート。白い丸襟の半袖ブラウス。漆黒のおかっぱ。
教科書の挿絵みたいに、きちんとした「正しさ」をまとった、小さな女の子。
十四歳くらい——否、十四歳(14歳しか勝たん)“だった”影。けれど、光を反射している。ほんの少し頬に、温かい色が差している。
細い足首から内股の膝、白い首筋まで——目で舐めるように見つめてしまう。
少女はゾゾっとして裾を押さえ内股に。
その仕草が逆にツボに入り、鼻血がつうっと垂れた。
少女は真っ赤になって個室の奥に逃げ、
私は(心の声)「……いい……最高……」。
「えっ!? ちょ、えっ!? 血、出てる!?」
少女が半歩、前へ。表情が強張って、目がまん丸になる。
「あ、違います違います、これは——その、たぶん、低血圧と疲労と、あと可愛……いえ、あの、鉄分が……」
教師の語彙が、緊張でめちゃくちゃになっていく。私は慌ててポケットからハンカチを取り出し、鼻に当てた。
少女は私をじっと見た。おどかす気満々、だったのに、と視線が言っている。
彼女はそっとスカートの裾を押さえて、つんと顔をそむけた。
——仕草が、やけに、丁寧だった。戦後の白黒写真が、いま目の前色付き、呼吸しているような不思議。
「ここ、三番目の個室だよ」
鈴みたいな声だった。
「ノック、してごらん。そうしたら——」
「ごめんなさい、驚かせるつもりだったんですよね。私が先に驚いてしまって、鼻が先に行きました」
私はぺこりと頭を下げた。教師は礼を失しない。怪異に対しても(たぶん)同じだ。
少女は、私の額から喉元までを一瞬で見回し、困ったように眉を寄せる。
「……あなた、先生?」
「はい。月島しおり、国語担当です。あなたは——」
問いかけると、彼女はほんのすこし顎を上げた。
「“花子さん”。この学校では、そう呼ばれてる」
言って、自分でも気恥ずかしくなったのか、目を泳がせる。
(…やっぱり、本当にいたんだ)
都市伝説は授業で扱う側だと思っていた。けれど今、彼女は目の前にいる。
体温のない空気の中で、でも確かに心のどこかを温かくする存在感で。
「花子さん」
私は呼んでみた。名前は、呼ばれると世界のこちら側に繋ぎ止められる——そんな気がした。
彼女は肩をぴくりと揺らし、視線だけでこちらを見る。
「驚かせる役目なのに、ごめんね。私、上手に怖がれないタイプで。
でも……その、会えて、よかったです」
口にしてから、顔が熱くなった。プロだ、少女のプロだ(なんのプロだか?)、落ち着け。
(ノータッチ原理主義。かわいい子は尊い。だが眺めるだけ。絶対に線は守る)
私の中で、教師とオタクと人間の三者会談が始まっていた。会議はいつも突然だ。
「変な先生」
ふっと、子の口元が緩んだ。怒ってはいない。たぶん、呆れている。
「普通はきゃーって言うの。逃げるの。なのに、あなたは鼻血を出してる」
「鼻血は自主的に出たので、私には止められませんでした」
「日本語おかしい」
「国語教師でもたまに間違えます」
言葉のやりとりは、どこか楽しかった。
私の胸の奥で、カチカチに固まっていた何かが、少しだけほどける。
生徒の前では見せない種類の笑い方を、私はたぶんしていた。
「……用、終わった?」
花子さんが、扉の向こうを視線で示す。
あ、そうだった。生理的な現実を忘れていた。いけない。私は慌てて会釈し、最小限の尊厳を守りつつ用を足し、最速で手を洗う。
戻ると、彼女は三番目の個室の前で、待っていた。待っていてくれた、と気づいた瞬間、胸の奥がじんと温かくなる。
「ありがとう」
自然に口から出た言葉に、花子さんはほんの少しだけ居心地悪そうに肩をすくめた。
「べつに。……びっくりさせるタイミング、逃しただけ」
「また、来てもいい?」
自分でも驚くくらい、声が真剣だった。
生徒に向けるそれとは違う。教師という仮面を通さない、私の声。
花子さんは、すごく迷った顔をした。
長いまばたきが一度、二度。
やがて、視線を落として、小さくつぶやいた。
「……勝手にすれば」
その言い方が、なんだかとても優しかった。
私はうなずく。鼻に当てていたハンカチをもう一度押さえ、深く息を吸った。
夕陽がトイレの入り口まで伸びて、タイルに黄金色の線を敷く。
花子さんはその光の手前で立ち止まり、くるりと振り返る。
「先生」
「はい」
「——血、ちゃんと拭いて」
「はい。すみません。今拭きます。保健室にも行きます」
彼女は小さく笑って、ふっと輪郭を薄くした。
水面の反射みたいに揺れて、三番目の扉の向こうへ消える。
誰もいないはずの空間に、確かに残る気配。
私は胸ポケットに資料をしまい、ハンカチをきゅっと掴む。
(会えた。生きててよかった)
思わずそんなことを考えて、自分で驚いた。
疲れは消えない。会議も書類も待っている。
けれど、夕焼けの中を職員室へ戻る足取りは、不思議と軽かった。
——その日、私は出席簿の余白に、誰にも見られないように小さく書いた。
《三階・三番目》
その横に、さらに小さく。
《花子さん》
「……また、会いに行きます」
誰にも聞こえない声で、私はそう約束した。自分自身に。
ノータッチ原理主義。線は守る。
ただ、眺めるだけ——それでも、救われることがあるのだと、私は初めて知ったのだった。
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『花子さんは誰にも渡さない』 鈑金屋 @Bankin_ya
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