『花子さんは誰にも渡さない』

鈑金屋

三階の出会い

 ——国語教師はロマンチックな職業だ。少なくとも、大学の頃の私はそう信じていた。

 朝は詩を読み、昼は文法を整え、放課後は物語の続きを語る。生徒は目を輝かせ、私は静かにうなずく。

(現実? 会議・電話・書類・また会議。あと、コピー機は絶対に私だけを敵視している)


 名前は月島つきしましおり、二十七歳。私立の女子高校で国語を教えている。

「先生、最近ちょっと疲れてます?」と生徒に心配されるレベルで、ここしばらくずっと忙しい。

 それでも私は教師だ。子どもたちの前ではしゃんと背すじを伸ばす。黒板の前だけは、胸を張っていたい。


 放課後。廊下を吹き抜ける風が、掲示物をぺらりとめくる。

 今日の授業は全部終わり、あとは職員会議用の資料を——


「……あれ、ない」


 やらかした。三年一組に置き忘れてきた。

 会議開始まで十五分。走れば間に合う、はず。

 パンプスを小さく鳴らして階段を駆け上がる。夕焼けがガラスに赤い帯を引き、磨かれた廊下に細長い私の影を落とした。


 教室に滑り込み、机の上の資料をつかむ。ほっと胸を撫でおろした、その時——


 ぴきり。


お腹の奥で、電気がはしったみたいな感覚。

(あっ。これ、いわゆる切羽詰まったやつ)

 近くのトイレの札には「清掃中」。二階は遠い。

 私は、ふと見上げる。三階の突き当たり。旧校舎の渡り廊下の向こう側。薄暗い角の向こうに、女子トイレ。


 この学校では誰もが知っている。旧校舎の三階の女子トイレ、三番目の個室には——。


「迷信は授業で扱うものであって、今は切実な現実です」


 やむなし。私はドアを押し開けた。

 ひやり、と冷気。古いタイルの匂い。静かすぎるほど静かな空間。

 ……音がしない。人の気配も、換気扇の低い唸りすら、ぜんぶどこかに吸い込まれたみたいだ。


(落ち着いて。教師は理性)

 鏡に映る自分に言い聞かせて、ゆっくり奥へ進む。

 一番目——鍵。二番目——鍵。

 なんで?

 三番目だけ、わずかに扉が開いている。


「……失礼します」


 言い切る前に、内側の闇がすっとほどけた。

 そこに、いた。


 赤い吊りスカート。白い丸襟の半袖ブラウス。漆黒のおかっぱ。

 教科書の挿絵みたいに、きちんとした「正しさ」をまとった、小さな女の子。

 十四歳くらい——否、十四歳(14歳しか勝たん)“だった”影。けれど、光を反射している。ほんの少し頬に、温かい色が差している。


 細い足首から内股の膝、白い首筋まで——目で舐めるように見つめてしまう。

 少女はゾゾっとして裾を押さえ内股に。

 その仕草が逆にツボに入り、鼻血がつうっと垂れた。

 少女は真っ赤になって個室の奥に逃げ、


 私は(心の声)「……いい……最高……」。


「えっ!? ちょ、えっ!? 血、出てる!?」


 少女が半歩、前へ。表情が強張って、目がまん丸になる。


「あ、違います違います、これは——その、たぶん、低血圧と疲労と、あと可愛……いえ、あの、鉄分が……」


 教師の語彙が、緊張でめちゃくちゃになっていく。私は慌ててポケットからハンカチを取り出し、鼻に当てた。


 少女は私をじっと見た。おどかす気満々、だったのに、と視線が言っている。

 彼女はそっとスカートの裾を押さえて、つんと顔をそむけた。

 ——仕草が、やけに、丁寧だった。戦後の白黒写真が、いま目の前色付き、呼吸しているような不思議。


「ここ、三番目の個室だよ」


 鈴みたいな声だった。


「ノック、してごらん。そうしたら——」


「ごめんなさい、驚かせるつもりだったんですよね。私が先に驚いてしまって、鼻が先に行きました」


 私はぺこりと頭を下げた。教師は礼を失しない。怪異に対しても(たぶん)同じだ。


 少女は、私の額から喉元までを一瞬で見回し、困ったように眉を寄せる。


「……あなた、先生?」


「はい。月島しおり、国語担当です。あなたは——」


 問いかけると、彼女はほんのすこし顎を上げた。


「“花子さん”。この学校では、そう呼ばれてる」


 言って、自分でも気恥ずかしくなったのか、目を泳がせる。


(…やっぱり、本当にいたんだ)

 都市伝説は授業で扱う側だと思っていた。けれど今、彼女は目の前にいる。

 体温のない空気の中で、でも確かに心のどこかを温かくする存在感で。


「花子さん」


 私は呼んでみた。名前は、呼ばれると世界のこちら側に繋ぎ止められる——そんな気がした。

 彼女は肩をぴくりと揺らし、視線だけでこちらを見る。


「驚かせる役目なのに、ごめんね。私、上手に怖がれないタイプで。

 でも……その、会えて、よかったです」


 口にしてから、顔が熱くなった。プロだ、少女のプロだ(なんのプロだか?)、落ち着け。

(ノータッチ原理主義。かわいい子は尊い。だが眺めるだけ。絶対に線は守る)

 私の中で、教師とオタクと人間の三者会談が始まっていた。会議はいつも突然だ。


「変な先生」


 ふっと、子の口元が緩んだ。怒ってはいない。たぶん、呆れている。


「普通はきゃーって言うの。逃げるの。なのに、あなたは鼻血を出してる」


「鼻血は自主的に出たので、私には止められませんでした」


「日本語おかしい」


「国語教師でもたまに間違えます」


 言葉のやりとりは、どこか楽しかった。

 私の胸の奥で、カチカチに固まっていた何かが、少しだけほどける。

 生徒の前では見せない種類の笑い方を、私はたぶんしていた。


「……用、終わった?」


 花子さんが、扉の向こうを視線で示す。

 あ、そうだった。生理的な現実を忘れていた。いけない。私は慌てて会釈し、最小限の尊厳を守りつつ用を足し、最速で手を洗う。

 戻ると、彼女は三番目の個室の前で、待っていた。待っていてくれた、と気づいた瞬間、胸の奥がじんと温かくなる。


「ありがとう」


 自然に口から出た言葉に、花子さんはほんの少しだけ居心地悪そうに肩をすくめた。


「べつに。……びっくりさせるタイミング、逃しただけ」


「また、来てもいい?」


 自分でも驚くくらい、声が真剣だった。

 生徒に向けるそれとは違う。教師という仮面を通さない、私の声。


 花子さんは、すごく迷った顔をした。

 長いまばたきが一度、二度。

 やがて、視線を落として、小さくつぶやいた。


「……勝手にすれば」


 その言い方が、なんだかとても優しかった。


 私はうなずく。鼻に当てていたハンカチをもう一度押さえ、深く息を吸った。

 夕陽がトイレの入り口まで伸びて、タイルに黄金色の線を敷く。

 花子さんはその光の手前で立ち止まり、くるりと振り返る。


「先生」


「はい」


「——血、ちゃんと拭いて」


「はい。すみません。今拭きます。保健室にも行きます」


 彼女は小さく笑って、ふっと輪郭を薄くした。

 水面の反射みたいに揺れて、三番目の扉の向こうへ消える。


 誰もいないはずの空間に、確かに残る気配。

 私は胸ポケットに資料をしまい、ハンカチをきゅっと掴む。


(会えた。生きててよかった)

 思わずそんなことを考えて、自分で驚いた。

 疲れは消えない。会議も書類も待っている。

 けれど、夕焼けの中を職員室へ戻る足取りは、不思議と軽かった。


 ——その日、私は出席簿の余白に、誰にも見られないように小さく書いた。

《三階・三番目》

 その横に、さらに小さく。

《花子さん》


「……また、会いに行きます」


 誰にも聞こえない声で、私はそう約束した。自分自身に。

 ノータッチ原理主義。線は守る。

 ただ、眺めるだけ——それでも、救われることがあるのだと、私は初めて知ったのだった。

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2025年12月30日 15:00
2025年12月31日 15:00
2026年1月1日 15:00

『花子さんは誰にも渡さない』 鈑金屋 @Bankin_ya

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