岸井アルカは小説家の卵だから
杏樹まじゅ
岸井アルカは小説家の卵だから
九月の真ん中。
昼休み、冷房の効いた教室。
ぴーんぽーんぱーんぽーん。
私の耳に、もう何百回と聞いた呼び出しチャイムが届く。
でも今回ばかりは、私にとって特別な鐘の音だ。
『二年C組、
私の前で談笑しながらお弁当を食べていた里愛が、何のことだろうとスピーカーを見上げる。
──もう、そんな風に笑えるようになったんだね。
よかったよ。私も安心だ。
「なんだろう? 校長室って」
「文芸部の、あれじゃない? ほら、なんとか甲子園ってやつ」
「高校生文芸甲子園?」
ほら、早く行きなよー。
仲良しの
「ふぁーい、今行きまーす」
なんだか間抜けな声をあげる私のいちばんの親友。
私も、後について行くことにした。
この後何が起こるのか、私だけが知っている。
校長室に着くなり、ぼってりと太った校長先生と。赤いリムの眼鏡を掛けた現代国語担当の鉄の女、細野先生が出迎える。
「おめでとう、中屋敷さん。いや、岸井アルカさん、とお呼びした方がいいかな」
「あ、あの、わたし、何かしちゃいました……?」
「ええ、しましたとも」
鉄の女が眼鏡をくいっとあげて、里愛を見た。
私の大切な里愛は、びくっと体を震わせる。
「おめでとう、岸井アルカさん。……高校生文芸甲子園、先ほど大賞受賞との連絡が来ましたよ」
「……へ?」
はっはっは。
恰幅の良い校長先生が嬉しそうに笑っている。
「大賞ですよ、中屋敷さん、大賞です! おめでとうございます」
にこにこした校長先生。いつもはクールな細野先生も、今日ばかりはほほ笑んでいる。
「あんなに悲しいことがあったのに。よく乗り越え、みごと掴み取りましたね。おめでとう」
「大賞……わたしが?」
驚く代わりに、唖然とする私の心の片割れ。
不安だよね、わかるよ。
でも。
この後何が起こるのか。
私だけが知っている。
◇
放課後。
ブラスバンド部の、トランペットの音。
合唱部の、小鳥のさえずりのような唄声。
さざなみのように寄せては引く幸せそうな音の中で、文芸部だけは空気が張り詰めている。
社会科室──文学部の部室に入った里愛はそこにいた全員の視線を集める。
「へえ、里愛。まさかあんたが取るなんてね、今年の賞」
学年のカースト最上位クラスであり、文芸部の部長
「な、なんでかな。自分でも驚いてるよ」
彼女より格下の私の片割れは、曖昧に口の中で返事を転がした。
「なんでかなって。それアタシのセリフなんだけど」
バチバチのまつ毛のついた瞼をすうっと細めて、海凛は舌打ちみたいに吐き捨てた。
「ほんとだねー、ムカつくよねえ」
「ねえ、海凛」
くすくすと、取り巻きたちが笑う。
神奈川県川崎市の北の果て。新百合ヶ丘にあるこの女子高、私立K女子高校は、文系に強く力を入れている。特に私や里愛も所属している文学部は、毎年のように『高校生文芸甲子園』で受賞者を輩出するなど、学校の最先端を行くエリート集団だ。
……少なくとも、対外的には、そう。
けれど実際には、クラスのカーストを濃縮した、女子たちの修羅の箱庭だった。
海凛を始めとしたカースト最上位が部長や副部長の座を独占し、私を始めとする下位に属する部員は、パシリにいじめに、部室ではまともに執筆することも叶わない。
里愛は、カースト中位だ。
そんな格下が、自分たちを差し置いて受かったのだ。海凛の怒りは、文芸部の部室の中においては当然となのかもしれない。
「あー。なんかムカついてたら喉渇いたわ」
「あ」
カースト最底辺の私に代わって、いそいそと里愛が海凛の前に立った。
「か、カフェオレだよね、購買行ってくる」
ありがとう。
私は心のなかで、つぶやいた。
里愛はこんな私にも、いつだって優しい。
私も、後について行くことにした。
購買部は、旧校舎の二階にある。
社会科室は新校舎だから、一階まで降りて、渡り廊下を渡って行かなければならない。
里愛は、中庭に面した渡り廊下の端に座り、スマホを取り出してLINEを開く。
画面に映るは、
『大丈夫。岸井アルカは小説家の卵だから』
「陽毬……あの作品、大賞取ったよ」
彼女は、目を瞑ってぽたぽたと、涙を零した。
私も隣に座って、愛する無二の友に寄り添った。
まだ残暑が厳しい九月の真ん中。
私たちはまだ、何にも負けない絆で結ばれている。
◇
「話って、なあに? 陽毬」
「誰も居ない?」
「誰もって……今日は部活休みだから誰も居ないよ?」
「そか……よかったよ」
「どうしたの? 暗い顔して」
「これ。……今度の文芸甲子園に、里愛の名義で応募してほしいの」
「え……なんで? 陽毬が自分で応募しなよ」
「いいの……わたし、もう、だめみたい」
「そんな事言わないで、わたしたち、お友達でしょ?」
「お友だちなら、聞いてくれるでしょう、私のお願い。……お願いよ」
「う、うん──……でも……」
「お願い」
「……わかった。どうすればいいの?」
「じゃあ、このエントリーシートにはペンネームとかの必要事項はもう書いてあるから、この封筒にUSBメモリといっしょに入れて……はい、後はこのままポストに投函するだけ」
「……本当にいいの? 陽毬……」
「もちろんだよ。私、里愛とお友だちでいられてよかった」
「なんで、そんな事言うの?」
「……なんでかな」
◇
なんでだろう。わかる? 里愛……。
◇
「は……? なによ……これ」
九月三十一日。
高校生文芸甲子園、その最終審査の結果発表の日。
「なんで、なんでぇっ!?」
部室でスマホを見ていた海凛が叫び出す。
取り巻きたちはびっくりして彼女を目で追う。
「まりん、どしたん?」
のほほんと取り巻きたちが声をかけるが、彼女は血走った目を見開いて、固まっている。
その時。
がらっと音を上げて引き戸が開かれ、里愛が入ってきた。
「お疲れ様でーす」
心無しか明るい声で、里愛が入ってくる。
そうだ。里愛、その顔だよ、私が見たかったのは。
颯爽と自分の席に着く私の愛おしい友達は笑顔で、この張り詰めた空気などどこ吹く風だ。
里愛が、同じくカースト中位文芸部員の
意気揚々と入ってきたのが気に食わなかったのか。
カースト上位を差し置いて、中位同士で話をしているのが気に食わなかったのか。
いや、そんなことは、彼女にとってどうでもいい。香坂海凛が怒りを湛えているのは、もっと深刻で破滅的なものだったから。
「あんた、アタシの作品、盗っただろ」
「へ?」
「へ、じゃねえよ、タイトルそのまんまで、ペンネームだけ変えてりゃわかんないとでも思った?」
「なに……それ」
里愛にとっては青天の霹靂。
わかる、わからないよね?
わかるよ里愛。
がらっ。
「やあやあ、文芸部のみなさん、お揃いで」
部室に校長先生が入ってきた。二週間前と同じ、にっこりとした笑顔を湛えて。
「本日は大変嬉しいニュースを持ってきました。なんと、二年生の中屋敷さんが、高校生文芸甲子園で大賞を──」
「先生」
香坂海凛が、校長先生の話を遮って、挙手をした。
「……香坂さん、いま先生がだいじなお話を伝えていますから、後ほどそれは──」
「その小説、私のです」
「……はい?」
「そこの中屋敷さんに盗まれました」
海凛は、私の大切な里愛の方を指差して糾弾する。
「……どういうことですか、中屋敷さん」
ああ、可哀想な私の里愛。
顔面蒼白で、かちかちと歯を鳴らして震えてしまって。
「あの、何を言ってるのか、わかりません」
はっ。海凛は息を吐いて、ばんっと社会課室の机を叩いた。
「じゃああんた、タイトル言える? 言えないわけないよね、自分で書いたんだったら」
「つ……『月の裏で──』」
「『月の裏側で君は笑った』だよ! 主人公の名前は? 主人公の恋人は? ジャンルは? オチは? あんた、言えんのっ?」
言える訳、ないよね。
里愛は私から原稿受け取って、ポストに投函しただけだもんね?
「……あの……わたし、ほんとは……陽毬から受け取っただけで」
「ちょっと、言うに事欠いて死んだ子の名前出すなんて! この人でなし! ほんと最低!」
真っ青になった里愛は、周囲を必死で見回す。
けれど、味方になる子なんて、どこにもいない。
「……す……いません、ちょっと、気分が悪くて……」
「あ、ちょっと、待ちなさいよ、この盗作女!」
可哀想な私の里愛は、その場から逃げるように、部室から走り去った。
私も、後について行くことにした。
けれど、校門を出たところで、私の足はぴたりと動かなくなる。
ここから先へ、私の足ではどういう訳か行くことが出来ないのだ。
けれど方向から行って、駅の方、つまり自宅の方に向かったに違いなかった。
◇
それから、私はずっとK女子高校でみんなを見守った。
結局、中屋敷里愛──岸井アルカは、受賞を取り消しになった。
代わりに香坂海凛が賞状を受け取る形になった。
学校に来ることができなくなってしまった里愛の代わりに、里愛のお父さんとお母さんが、文芸部に顔を出して、謝罪の言葉と一緒に頭を下げた。
海凛はその様子をスマホで撮影して、取り巻きたちといっしょに笑っていた。
そして十月、十一月と飛ぶように時間が過ぎ、十二月になるころ。
幽霊みたいになった里愛が登校してきた。
どんなに憔悴していても、里愛は、里愛。
真っ暗な私の世界では太陽みたいな存在だ。
だからひとたび校門をくぐれば、すぐにわかるのだ。
今日は校長室に呼び出されているようだ。
私も、後について行くことにした。
校長先生の声色は、とても高圧的で怖かった。
まるであの時の笑顔とは別人のようだった。
そしてそのまま、里愛の意見などまるで聞かないで、退学届にサインをさせた。
「今までおせわになりました」
もう流す涙も枯れ果てた里愛は、振り絞るようにそう挨拶すると、校長室の戸を閉めた。
そしてゆっくり、とてもゆっくりと旧校舎の階段を登っていった。
◇
屋上の鍵は開いていた。
だから、里愛も私も、簡単に『そこ』にたどり着いた。
今年の五月三十一日。
私が飛び降りたのと、同じ場所に。
「里愛!」
私は思わず呼びかけた。
今なら愛しい私の片割れに、届く気がして。
「……陽毬……?」
そして願った通りに、彼女に私の声が聞こえた。
「里愛、待っていたよ、里愛……」
「陽毬……会いたかった。ずっと、ずっと会いたかった」
「私も、待ってたんだよ、里愛」
「でも、どうして? どうしてあの日、海凛の原稿を応募させたりしたの?」
私は黙った。きっと聞いてくるだろうと思っていても言葉にするのはなおも難しい。
「それがね、わからないの。今ここにあるのは、あなたのことが好きという気持ちだけ。生きていた時の好き以外のことは思い出せないの」
「そっか……約束、守れなくてごめん。岸井アルカは、小説家にはなれなかった」
「ううん、いいの。……いいんだよ。さあ、逝こう」
うん。
そういって、私たちは手をつないで飛び降りた。
重力が逆さまになり、屋上から中庭のコンクリートまでは何秒もかからなかった。
中屋敷里愛は、頭蓋を砕いて、即死した。
だが不思議と、その顔には笑顔が浮かんでいる。
きっと今頃、岸井アルカとして執筆が忙しいに違いない。
◇
「陽毬、書けたよ、みてみて!」
「……うわあ、里愛、渾身の傑作だねえ!」
「どかな?」
「うん。受賞間違いなしの名作だよ。岸井アルカ先生」
「あはは、やめてよう、岸井アルカはまだ、小説家の卵だから、ね」
「あははは」
「はははは」
◇
……。
◇
日記。安西陽毬。
四月七日。
最悪。また中屋敷里愛と同じクラスになった。
先生には、あんなにお願いしたのに。
これからまた一年、パシリを肩代わりさせられたり、仲良しのふりしてボディタッチしてきたり。
想像しただけで地獄だ。
四月十五日。
当然のように里愛は文芸部に入ってきた。
まあどうせ、海凛たちのパシリで部室じゃろくに執筆も出来ないし。
……里愛は、中学生のころから何も変わっていない。
あいつは私と仲良くしたいんじゃない。
カースト最底辺の私と話すことで、自分の優位性をアピールしたいだけなんだ。
四月二十日。
今日、週末に里愛のうちでいっしょに執筆しようと誘われた。
うちは、要介護のおばあちゃんがいて、お母さんもずっと介護してるから無理だって言ったら、じゃあうちにおいでよ、と。
里愛、私があんたのこと嫌ってるの、わかってないのかな。
四月二十五日。
里愛の家での執筆活動は、とても楽しく、また有意義なものだった。
正直に書こう。
彼女のことを勘違いしていたようだ。
小説に対して、こんなにも真摯に取り組んでいたとは思わなかった。
それに、一年生のころは過干渉気味で、そこがとてもいやだったのだが……実際は違った。
里愛は、私を守ってくれていたのだ。
教室でも、部室でも。
なぜなら、彼女がいる時、私はイジメられていなかった。
パシリも悪口も、ぜんぶ引き受けてくれていたのだ。
四月二十八日。
あれから、里愛の顔を見るのがつらい。
心臓が、締め付けられそうになる。
里愛の顔を見て、あの時の幸せを思い出すと、逆に今の学校生活で耐えて来られたイジメや嫌がらせが、ひどく耐え難いものなのだと気付いたからだ。
五月三日。
五月に入ってから、学校にいけなくなった。
耐えられない。
里愛がそばにいてくれない時間が。
同級生からゴミを見るような目で見られる日々が。
五月十日。
里愛、なんで会いに来てくれないの。
里愛、なんで。
五月十一日。
里愛、里愛、里愛、里愛。
五月二十九日。
良いことを思いついた。
里愛と、心中しようと思う。
でも、愛する里愛に、いっしょに死んでなんて言えない。
だから、自分から死んでもらうことにした。
やり方は簡単だ。
海凛はノートPCのパスワードを自分の誕生日にしている。
あとはそれをコピーして。
里愛名義で応募させればいい。
なんていいアイデアだろう。
明日、決行しようと思う。
そしたら、明後日死ぬのだ。
簡単だ。
今まで受けてきた仕打ちに比べれば、こんなこと。
ひどく簡単だ。
だって、岸井アルカは。
──小説家の卵だから。
【完】
岸井アルカは小説家の卵だから 杏樹まじゅ @majumajumajurin
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