第2話
「ええと、ごめんなさい志村さん。いま、なんておっしゃったのかしら」
そのとき、わたくしはキッチンでタマネギを切っておりました。
このときの我が家は、ダンボール二箱分のタマネギが届いた直後で、わたくしは、とにかくこのタマネギの山がムダになってしまわないよう、なんとかうまく消費しようと腐心しておりました。
毎日毎日、朝も昼も夜も涙を流しながら、タマネギの茶色く乾いてツヤツヤとした皮をむき、そして、ときおりそれを爪の隙間に通してしまって激痛を覚えたりしていたのです。
「〈まいるこさん〉ですよ。お聞きになったことはありませんか?」
志村さんは、三十代前半の女性特有の落ちついた、しかしまだ十二分にハリのある言葉づかいで、そう改めてわたくしに問いかけました。
志村さんは、今日も濃い緑色のエプロンをつけていらっしゃいます。茶色いセミロングの髪はいさぎよくひとつにまとまっています。エプロンの下には、オフホワイトのモヘアのセーターを着つけていて、両袖は作業がしやすいように、黒いバンドで引き上げて、肘のすぐ下で留めてありました。下肢に履いているジーンズは、いつものとおり、下半身の形にぴったりと添うタイトなスタイルのものでした。
わたくしは、志村さんのジーンズ姿を目にするたびに、女性というものは、スカートを履いているときよりも、パンツスタイルのときのほうが、よほど自らのセクシャリティを自覚させられているのではないかと、なんとなく思っておりました。
「ええと、〈まいるこさん〉、というの? それは、誰かひとのお名前とかなのかしら? でなければ、小説か、映画のタイトル?」
「いいえ、怪談です」
志村さんは、黒いお鍋のふちで、カンカン、とお玉を軽く鳴らしました。音を立てるのが目的ではなく、お玉についたシチューをすこし落とすための仕草でした。志村さんは、そうしてシチューの付着を減らしたお玉を、そばによけてあったお椀に入れて手離してから、キッチンにいるわたくしの方へ戻ってこられました。
「怖いお話なの? その〈まいるこさん〉というのは」
「ええ」
頷きながら、志村さんは流しで手を洗うと、わたくしの隣に立ち、同じようにタマネギの皮をむき、そしてザクザクと切りはじめました。
「他にも色んな呼ばれ方があります。〈まいこさん〉とか、〈いるこさん〉とか、〈すきまさん〉とか、他には、〈みとさん〉というのも」
「あら」
わたくしがぱちりと瞬いて作業を中断し、志村さんの方へ目を向けたのとは反対に、志村さんは、決してタマネギから目を離すことがありませんでした。また、その白く輝く本体を切り刻むことも、中断しようとはしませんでした。しかし、同時にお話も中断されることはなかったのです。そして志村さんは、わたくしが使っている筆名を知っています。
「奥様、民俗学とか、神話とか、怖い話お好きなのに、本当にご存知ありませんか?」
「ああ、ええ、ちょっと、それは、知らないかしら。ごめんなさいね」
志村さんは大変な読書家です。そして速読家でもあり、お付き合いもお上手なので、わたくしのさもない小説にも目を通して下さっているのです。
そして、大変なお話上手でもあります。というのも、元々志村さんは、地元の児童書専門店で働いていらした方で、まだ子供たちが小さかった折に、その書店で開催された本の読み聞かせ会に行ったことが、わたくしたちの出会った切っ掛けだったのです。
今も、そちらのお店には勤務されていて、わたくしたちの家にお手伝いに来て下さるのは、書店がお休みの月曜日と、それから水曜日の週に二日というお約束になっています。この日は月曜日でした。
志村さんがキッチンに戻ってこられたことによって、タマネギは見る見るうちに大量の三日月型の欠片たちに解体されてゆきました。そして、大きなザルいっぱいになったそれを、志村さんは手際よく洗って、水が切れるのを待っている間に寸胴鍋を用意し、これを火に掛けました。それから、お鍋のなかにオリーブオイルと潰したニンニクの欠片を放り込み、木べらで鍋に馴染ませ始めました。じゅうじゅうと、強い香気が立ちのぼりはじめました。
「ほら、奥様先日おっしゃってたじゃないですか。ホラー小説のコンテストに出す作品をどうするか迷っているって」
「ああ、ええ、そうね」
わたくしは口ごもりながら、タマネギの残骸でいっぱいになったザルの外回りについた水滴を新しいふきんで拭いとりました。それから、ワークトップの上にふきんを敷いて、ザルをその上に置きました。つまり、志村さんの傍にタマネギを運びました。
「モキュメンタリー形式のものは、書いていてしっくりこないんでしょう? 奥様がお好きなのは丁寧に作りこまれた物語であって、読者をナラティブで踊らせるようなものではありませんものね」
わたくしは、すこしばかり閉口いたします。
「読むのは、好きなのよ? モキュメンタリー。でも、書くのはどうにもうまくできなくって……やっぱり、わたくしって感性が時代遅れなのかしらねぇ」
「うーん。そこは視点による問題かなとは思いますが。あれはインターネットの掲示板文化のテンプレートをフィクションに落としこんだものですからね。奥様は、骨の髄からアナログ指向じゃありませんか。そもそもの土台にあまり通じてらっしゃらないでしょう?」
「ええ、まあねぇ」
「知らないものは書けないし、慣れていないものはなおさら書けませんよ。Web小説界隈というのは、そもそもがweb文化の中で熟成されてきた娯楽を、ハイコンテクストとして共有していることが大前提なんですから、いわゆるジャパニーズオタクカルチャーを経験してきていない奥様には、現状のweb小説界隈の主流には合致できません」
「――やっぱり、そう思う?」
わたくしが思わず口元に指先をやると、志村さんは「はい」ときっぱり頷きました。
「奥様は、海外での暮らしのほうが長いのですから。韓国のチュソクは経験していても、夏のコミケには参加したことがない。カザフスタンのチャルンでスケートをしたことはあっても、某作品の聖地である福島のハワイアンズには行ったことがない。でしょう?」
「ええ、そうね……」
「ですので、奥様は奥様らしい題材で書けばよろしいのではないかと。となると、やはり重要になってくるのは題材の採集量かなと」
「それで、志村さんはわたくしに、その〈まいるこさん〉のお話を聞かせてくださろうとなさっているってことなのね」
「そういうことです」
志村さんは、はにかんだ表情を浮かべながら、細腕で、ひょいと重たいはずのザルを持ち上げると、タマネギを寸胴鍋のなかに一気に移し入れました。じゃああああっと激しい音を立てて、寸胴鍋から油や水の細かなしぶきが沸き上がり、鍋の周りに飛び散ってゆきました。
次の更新予定
〈まいるこさん〉をお家に入れてはいけません。やがて全員が死にます。 珠邑ミト @mitotamamura
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