〈まいるこさん〉をお家に入れてはいけません。やがて全員が死にます。

珠邑ミト

第1話


 あなたは〈まいるこさん〉について、何かご存知でしょうか?

 ああ、もしかしたら、まったく別の名前でご存知だという可能性もあります。

 それはいくつかの別名を持っております。そのひとつが〈まいるこさん〉なのです。

 その別名というのは、〈まいこさん〉、〈いるこさん〉、もしくは〈すきまさん〉などというものです。他にも〈ごさいさん〉、〈みとさん〉――もしくは〈かかさん〉、などと。



 こんにちは。もしくは、はじめまして。珠邑たまむらミトと申します。

 今回、このコンテストに参加してみようと、こうして筆をとってみたわけですので、「はじめまして」のご挨拶がふさわしい方が多いと喜ばしいのですが、もちろん日ごろからお世話になっている皆様にも、この駄文にお目通しいただければ、過分のしあわせと存じます。

 

 さて。


 わたくしは、某企業の重役職についている夫と、それから三人の子供たちと共にしずかに暮らしております。しがない専業主婦、という身分でございます。

 住まいは某地方都市にございます。中心街からはすこしばかり離れた、静かな林間の別荘地に居を構えております。普段からおつきあいがあるのは、人間よりもリスや猿、過去に一度だけ、イノシシなども目撃したことがありますが、それよりも多いのがスズメバチと百足、それから、室内に無遠慮に侵入してくる蟻の行列などなど。まあ、そういったものは、お手伝いに来てくださっている志村しむらさんが始末をつけてくださるので、わたくしが直接手を下すこともないのですが、そういった暮らしをしております。

 京都にございます本家の大おばあ様(この大おばあ様というのは、夫のほうではなくて、わたくしの家系の話になります)からは、「そないな辺鄙なところに居を構えるだなんて、ずいぶんと酔狂なことをしはるもんや」と笑われましたが。

 よいのです。昔からわたくしは、浮世離れたところでひっそりと静かに、本を読んだり、編み物をしたり、丁寧にお料理をしたり、それから、もちろん小説を書いたりして暮らしたいと、心から望んでおりましたので。

 別荘地ということもあって、隣家とはずいぶんと隔たっております。所有している敷地も広いので、手の入り切っていないところも、正直にいえば、ずいぶんとあります。それでも、レンガでこしらえた古いスタイルの暖炉を使い、そこでシチューを煮込むことや、窓の外で降りしきる雪を眺めながら、子供たちや夫が不在にしている時間に、志村さんとふたりで、のんびりとお話をする時間は、わたくしが小説を書くための、大切なインスピレーションの源泉となっているのです。

 

 さて。

 そろそろ本当に本題に入りましょう。

 

 つい先日のことです。

 なんの因果であったのでしょうか。夫の海外出張と、下の子供たちふたりのニュージーランド語学研修旅行とが重なったことによって、わたくしには、自宅で完全にひとりになれるという、『空白の三日間』が与えられたのです。

 わたくしは、すくなからず困惑いたしました。

 専業主婦というものは、家人を目の前にしたとき、自分個人の時間はないものと心得ているものです。時間の裁量権というものがあるとするならば、それを行使できるのは彼らが不在であるときに限られます。

 家人が目の前にいるとき、わたくしは黒子に徹します。家人たちのスケジュールや、刻一刻と変わる都合や、気分に合わせて動くのです。

 特に、大きく揺らぎがちなのが、食事に関することです。

 家人のお腹のすき具合にあわせて、時刻によってはお茶や焼き菓子を用意したり、また場合によっては、少しばかり食事の時間を早めたりして調整いたします。もちろん、たったひとりの都合にあわせて、全てを大きく動かすのではありません。全員がそのちいさな変動に違和感なく適応できる程度に、さりげなく静かに、流れを乱さないように、要望に応えてゆくのです。暖炉のシチューは、そういったときの大きな助けになりました。

 次に気を付けなくてはならないのが、お洋服です。

 夫が昨日着て、夜のうちに洗濯に出したワイシャツを、あるいは娘が着たブラウスを、コーディネートの都合で、今日もどうしても着たい、着なくてはならないと思ったならば、その希望に応えられるよう、先回りをしておくということも黒子としての仕事の一部にふくまれます。そういった、日常的な利便性を、隙なく、また余すこともなく、そして、決して滞ることなく実現させなくてはならないという使命を、わたくしは帯びているのです。

 そういった、静かな管理の力を、完全に停止させてよいという三日間が、わたくしにふいに与えられたのですから、多少なりとも困惑するというのは、決して不思議なことではないでしょう。

 つまり、わたくしは、本当の自由というものに対して、実に不慣れなのでした。


 そして。


 志村さんが、暖炉の前でシチューをかき混ぜながら、ふいに「奥様は〈まいるこさん〉についてご存知ですか?」と問いかけてきたのは、この『空白の三日間』にさきがけて、家人たちを見送った、そのすぐ後のことでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る