十万字近くある小説を、一気読みした。


 正直なところ、面白いとは思えなかった。

 小手先の技術でここまでやってきたんだろうなというのが透けて見える、「ちょっと上手い」だけの小説。展開は凡庸だ。ただ無駄に文字を連ねているだけに見える描写もあった。表現の重複も多い。くどいし、げんなりする。ミステリなのかそうでないのかも曖昧なまま、ぬるぬる進んでゆくストーリー構成もいまいちだと思った。やっとのことで辿り着いた結末だってカタルシスがあるわけでもなく、ぶち切り状態で終わっていた。終章を読み終え、深い息をつく。時計を見ると既に十二時を過ぎていた。。この三時間は一体何だったんだという酷い虚無感に襲われる。


 兄の小説はとびっきり下手くそな訳ではなかった。だからといって上手いかと言われるとそれも違う。他の小説が果たしてどのレベルなのかは分からないけれど、受賞には程遠いだろうなと私でもなんとなく分かった。


 途中から変な体勢で読んでいたせいで身体が痛かった。立ち上がって、ふらっと兄の部屋へ向かう。真夜中だけど気にしない。それにどうせ兄は起きているだろう。

 兄を抱いて、語りかけてみた。 

「お兄ちゃんの小説、読んだよ」

卵は黙ったままだった。寝ているのだろうかと思ったけれど、しばらくすると返事があった。

「どうだった」

すごかった、と言えば声が上ずりそうで、兄には見抜かれるだろうなと思った。答えあぐねていると、

「つまらなかっただろ」

と兄は何の躊躇もなくそう言い切った。

「分かってる。言わなくても分かるよ」

「そんなことないよ」

中身のない弁明が口を衝く。

「あんなに書けるって才能じゃん。私は絶対できない」


「もういいから」

兄は語気を強めてそう言った。

「そういう慰めみたいな言葉はいらないんだよ。俺は下手くそな小説を褒めてほしいわけじゃない。おだててほしいわけじゃない」

「下手じゃないって。だって現にお兄ちゃんの小説は最終候補まで残ってる」

「たかだか二百作ほどしか応募されてない中で、上から十作目って言われて嬉しい?」

言葉に詰まる。ぴんとこないけど、私なら嬉しいと思う。

「じゃあ、おまえは学校のテストで十位ですって言われてどんな気持ちがする」

「そりゃ、嬉しいよ」

「分からないか、お前には」

諦めたような口調で兄は言った。かちんと来たけれど何も言わなかった。百番台をうろうろしている私にとっては嬉しいに決まってる。兄はいつも学年一位だったから、例えが噛み合わないのも無理はない。やっぱり兄とは、根本的なところで分かり合えないのだと思う。兄と私を隔てるのは卵の殻だけじゃない、そんな気がした。

 

 講評は読んだか、とまた兄の声がした。私が読んでないと告げると兄はそうか、とひりついた声で呟いた。

「審査員の講評に書いてあったんだ。これからも書き続けてくださいって。そういう言葉ほど無責任なものはないよ。いつまでもそうやって、下手くそな出来損ないに夢を見せる。呪いじゃないか。そんなの」

振り絞るような、痛切な声だった。

「どうせならおまえには向いてないって言ってほしかったよ。ちゃんと諦めさせてほしかった」

声は掠れて、そしてついに何も聞こえなくなった。


 私は兄を抱えたまま、ふと本棚の上に目をやる。


 いつぞやの副賞の盾が飾られていた。いや、飾られていたと言うより置かれていた。アクスタのような盾は落としたのだろうか、真っ二つに割れていてセロテープでくっつけた跡があった。埃を被った過去の栄光は鈍い光を宿して卵になった兄を見つめていた。



 *

 冬の美術室は隙間風のせいで暖房を入れても寒い。私達は防寒着を着けたまま作業している。みんなが思い思いに絵を描く中、私はひたすらスケッチブックに卵型を量産していた。


「あんたんとこも大変だねー」

隣の席に座る珠実じゅみは気のない返事をする。ついさっきまで兄のことを話していたのだ。そのあまりの他人事加減に少しイラッとしたけれど、確かに珠実にとってはまるっきり他人事だった。


「プロになろうとしてる人って、それなりのプライドがあるわけじゃん。それを傷つけられた感じがしたんじゃない」

珠実は核心を突いたことを言う。

「珠実も、そういうプライドあるわけ?」

彼女の手元にあるアニメ調のイラストに目を落として、わざとらしく言ってみると

「あたしは絵は趣味だから」

彼女は肩をすくめて言った。

「本気で絵で食っていこうとは思ってないよ」


それから彼女は「お兄さんの話で思い出したんだけどさ」と切り出す。

「あたしのパパも絵を描いてるって話したっけ?」

「画家だったの」

思わず素っ頓狂な声を出してしまう。

「そんな大層なものじゃないよ。いわゆるアマチュア。兼業で、時々個展とかして絵売ってる感じ」

と謙遜しながら彼女は語る。

「一昨年かな。スランプ?っていうの?それでパパ、上手いこと行かなくなっちゃって、卵返りしたんだよね」

「えっ、珠実のお父さんも」

驚いた。

「大変だったよ―。本業の方も休職って感じで、ママあたふたしてた」

彼女はへらへらしながらその苦労を感じさせない風に笑った。

「今はもう大丈夫なの?」

「うん、一ヶ月くらいで孵化して元通りになったよ」

とても人間の話をしているとは思えないのだけれど、貴重な体験談なので深く聞いておきたかった。

「珠実のお父さんは何をきっかけに孵化したの?」

「きっかけはないと思う。本人のタイミングって感じで。ある日家に帰ったらもとに戻ってたって感じ」

「じゃあ、うちの兄ももうすぐかな」

そんな希望的観測をする私を珠実は容赦なく刺す。

「分かんないよ。あたしも色々調べたけど、ずっと卵のままの人もいるらしいし、不注意で割って死んじゃいました、みたいなこともあるんだって」

兄がこのままずっと元通りにならなかったら……聞いただけでぞっとした。


 多分さ、と珠実は言う。

「あんたのお兄さんは、まだ書きたいんだと思うよ。だって諦めるんだったら筆を折ればいいだけの話じゃない。これまでの原稿ぜーんぶ捨ててパソコンのデータも消しちゃって、夢破れたなりの人生を送ればいい。何もかも手放してしまえばいい。それなのに、彼は卵になった。卵になったってことはまだ諦めきれてないんだよ。でも、このまま進む勇気はない……」


――諦めさせてほしかった。

兄の言葉を思い出した。


「卵返りって、葛藤の現れなんじゃないかって、あたしは思うよ」

家族に卵がいた珠実の言葉は、私の胸に強く響いた。


 *

「ただいま、お兄ちゃん」

珍しく、兄はすぐに応えた。

「昨日はごめんな。おまえに当たるのはよくなかった」

「私だって、ごめん」

こんな風に仲直りするのはいつぶりだろう。随分久しぶりのような気がした。

「俺、自惚れてたんだよ。高校生で小説書いて、賞獲って、すごいじゃんって」

兄は滔々と語る。

「でもそんなやつはザラにいたし、自分は特別でもなんでもなかった。だからさ、そう突きつけてほしかったんだ。下手くそなら、下手くそだって。生ぬるい言葉をかけるんじゃなくて、完膚なきまでに打ちのめしてほしかった。お前に未来なんてないって言ってほしかった」


――じゃないと、また、夢を見てしまうじゃないか。


やっぱり、まだ兄は諦めてはいない。

兄に必要なのは、一体何だというのだろう。結局、自分のことは自分で決めるしかないのだろうか。兄は自分自身の力で、殻を割らなければならないのだろう。


 私にできることはないのかもしれない。諦めて1階に降りたとき、リビングに飾られた絵と目が合った。小学生の頃、私が描いたものだった。てっきり県のコンクールに出品されると思っていたのに、選ばれたのは他の子の絵だった。もう絵なんてやめてやる、そんな事を言って泣きながら絵を破り捨てた。本心だった。やめたかった。やめようと思った。それなのに心のどこかでは誰かに止めてほしい、なんて馬鹿なことを思っていた。パフォーマンスでもあったのだと思う。でも、兄の言葉で私は目を覚ました。


「やめたきゃやめろよ。実際下手くそなんだし」


兄は冷徹だった。いや、今なら分かる。あれはきっと兄なりの不器用な愛情だったのだと思う。母にはこっぴどく叱られていたし、私だってすっごく憎んだ。でも、その結果、私はまだ絵を描いてる。悔しさや怒りが原動力だった。美術部に入って、友達と駄弁りながら、子どもの頃の延長みたいな絵を描き続けている。別に何の賞を獲れなくともよかった。私はただ、描くことが好きなだけだったから。その好きという気持ちを繋いでくれたのが、兄だった。やめたくないと思った。こんな奴の言葉に負けた人間になりたくない、そう強く思った。


 兄がビリビリになった絵のパズルを完成させて額縁に入れてくれたことを、私はまだ憶えている。今こそ、兄に報いるときだ。


 じゃあ、今度はお兄ちゃんが――あんたが、私を原動力にすればいい。

 階段を駆け上がって、自分の鞄からパソコンを引っ張り出した。

 ――小説、私が書いてやるよ。


 ノックなんてしない。乱暴に扉を開け放って、私は兄の定位置に座る。兄のパソコンを橋にどけて、自分のパソコンを開いた。まずは、Wordを立ち上げてみる。あまりにもまっさらな画面が立ちはだかって、私は身震いした。

「何してるんだ」

兄が怪訝そうな声を出した。

「見て分からない? 私、これから小説を書くの」

喧嘩腰に兄に言い放った。これはあんたへの宣戦布告だ。

「書いて書いて書きまくって、賞でもなんでも獲ってやる、あんたの三文小説とは比にならないものを生み出してやるから」

「無理だ」

「無理じゃないよ。まだ書き始めてもないんだよ。可能性はいくらでもある。直木だか芥川かに応募して超大型新人になってやるから」

「直木賞も芥川賞も公募制じゃないから……」

「そんなの知らない」

指先にかいた汗がキーボードにつく。息がしづらかった。それでも、やめるわけにはいかない。

「手も足も出なくてご愁傷さま、一生殻の中に閉じこもってぬくぬくしてたらいいじゃん」

「小説は俺のもんだ!」

兄がやっと声を荒げた。

「小説はあんたの専売特許じゃない」

兄はまた黙りこくったけど、ここで終わらせはしない。

「最初の小説は、お兄ちゃんが卵になったことにしよっかな。いわゆる私小説ってやつ?『ある日突然兄が卵になった』とか、どう?書き出し強くない?私才能あるかもね」

キーボードを乱雑にタイプする。小説の書き方なんて分からない。分かってたまるかと思う。それでも書く。死ぬほど下手くそで、読む気も失せるような駄文でも――。


「私、書くから」


そのときだった。背後でめりっと、殻が破れる音がした。


――書き続けてください。

あんたが呪いだって言った言葉。

その呪いをいつか愛せるようになるまで書けばいいと思う。

どうせあんたは諦められないんだから。

書きたいんでしょ。

書きたくて仕方ないんでしょ。

その衝動はきっとこれからもあんたを逃さない。

どっちかっていうとそっちのほうが呪いじゃんって、私は思うよ。






【了】




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卵返り 見咲影弥 @shadow128

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