卵返り

見咲影弥

 ある日突然、兄が卵になった。


 突然ではなかったかもしれない。少なくとも一週間以上前から兄は自室に引き籠もったまま出てこなくなっていた。とはいえ兄は大学生で、私は高校生。一日のタイムスケジュールが違うから、兄がずっと籠もりきりだったのかは分からない。ここ一年、私が兄と顔を合わせるのは食事のときぐらいになっていた。

 いつも通り朝食ができたから兄を起こしに行った。いつもはドアの前で大声で話しかけると気怠そうな顔をして部屋から出てくるのに、返事がない。ノックをしてもうんともすんとも言わない。このままでは埒が明かないので、部屋のドアを開けた。相変わらず汚い部屋だ。机のパソコンは開いたまま放置されていて、その横には太い単行本が山積みだった。本棚には本の上の空きスペースにまで文庫本がねじ込まれている。床には野球ボールみたいにグシャグシャに丸められたコピー用紙がそこら中に落ちていて、私はそれを踏まないようにベッドの方まで向かう。


 カーテンの締め切られた薄暗い部屋に、兄の姿はなかった。代わりに、ベッドの上にはその場には異質なものが転がっていた。


 これは――卵じゃないか。


 それもやたら大きい。理科の授業でダチョウの卵を見せてもらったのを思い出したけど、眼の前にあるものはあれよりもずっと大きかった。真っ白な殻はカーテンの隙間から差し込む朝日に照らされて艷やかに光っている。そっと近づいて、試しにその卵を撫でてみた。滑らかな表面は生まれたてみたいに温かかった。生まれたてを触ったことなどないのに、そんなことを思って、そして同時にその殻の中に宿る命について、考えを巡らせる。


 これは、兄なんじゃないか。

 そんな馬鹿なこと、あるはずがない。でも、そうだとしたら兄は何処に行ったんだろう。この卵は一体何だというのだろう。


 卵をそっと抱えてみる。私がギリギリ抱くことができるサイズだった。ずっしりとした重みが腕に伝わって、私は慌てて卵をベッドに降ろした。割ってしまいそうで怖かったのだ。でも、この奇妙な状況を一刻も早く他の家族に共有したくて、私は再度卵を抱きかかえる。恐る恐る階段を降りる。父は既に会社に行っているから、話せるとしたら母しかいない。

 

 母は既に朝食を食べ終えて皿洗いをしていた。

「ねぇ、お兄ちゃんが卵になってるんだけど」

母は私の抱える卵を見て、口を抑える仕草をしてみせたが、どうも白々しい。

「まあ、大変ね」

そう言う割には全然驚いていなさそうだった。

「これ、どうするの」

「どうするもこうするも、仕方ないじゃない」

やけに冷たい反応に面食らうけれど、そういえば兄はここ最近母と折り合いが悪かった。ごはんに一切手を付けずに残したり、勝手に大学をさぼったりしていたからだ。


「病院行ったほうがいいんじゃないかな」

卵が兄である前提の話をしている自分がなんだか酷く滑稽に思えた。

「あんたが連れて行ってあげてよ」

母はタオルで手を拭きながらそう言う。

「お母さん、忙しいから」

「でも」

「いいでしょ、冬休みなんだし」

部活があるんですけどーと言いたくなったけれど、ここで不毛な口論をする気にはなれなくて、素直に従うことにした。


 *

 こういうときに歩いてすぐの場所にクリニックがあるのは助かる。兄を段ボールに入れて、緩衝材代わりに毛布を巻いた。外を歩いていると、これから卵を出荷する人だと思われそうで恥ずかしかった。

「お兄ちゃん、寒くない?」

なんだか赤ちゃんを世話しているみたいで、この中身が兄だと思うとなんだか情けなくて笑ってしまった。

 先生は卵を見ても、特別驚いてはいなかった。私の精神を心配されるんじゃないかと不安でドキドキしたけれど、それは杞憂で先生は平然とした顔で補聴器を卵に当て始めた。それから大きなパソコンに向き直って、何かカタカタと打って、それから私に告げた。


「卵返りですね」


聞いたこともない症名だ。何だ、その赤ちゃん返りみたいなネーミングは。

「なんですか、それ」

「ほらよく言うでしょう。医者の卵とか研究者の卵とか。そういう何か夢を目指している人が罹患しやすい、一種の心の病ですね。何か夢破れるような強烈な出来事があった時、自信を喪失して、殻に閉じこもってしまうんです」


先生の説明は分かりやすかった。でも意味が分からなかった。


「中でも特に罹患率が高いのは表現をやってる人ですね。絵や漫画を描く人とか、小説を書く人とか、プロになる前の方がなりやすいんです」

生真面目そうな表情を崩さないまま、にわかに信じがたい事実を淡々と告げるそのシュールさに苦笑いしてしまう。嘘みたいな話なのに、今、兄が卵になっているという現実が否応なくそれを事実だと突きつけている。珍しいことじゃないですよ、と先生は言った。


「このまま様子を見ましょう」

先生はそう言って診察を終わらせようとしたけれど、ひとつ気になることがあった。

「治るんですか、これ」

「なに、大抵の方は時間が解決します。でもできればポジティブな言葉をかけるよう心がけてください。外界の言葉は本人には聞こえていますので。本人が望めばの話ですが意思疎通もできますよ」

卵なのに喋れるんだということに驚いたけれど、まだ卵になった兄とは話せていない。これは、兄が私と話すのを拒んでいるんだろうか。


 *

 この卵の中に兄がいる。いくらダチョウより大きい卵とは言え、このサイズの卵の中に兄が収まっているなんて到底信じられない。兄の身長は百七十、体重だって痩せ型だけど六十はあったはずだ。コンパクトになり過ぎである。一体どれだけ折りたたまれて格納されているんだ。この卵、不注意で割ったらどうなるんだろう……。ふとそんなことが頭をよぎったけれど、怖くて先生には聞けなかった。


 とにかく――兄は夢破れて卵になったらしい。その夢に、私は心当たりがあった。

 兄は小説を書いていた。

 小学生の頃からだろうか。ノートに書いたものを読まされることがよくあった。中学に入って兄が自室を持つようになってからそれはなくなったけれど、相変わらず書き続けているようではあった。


 私が再び兄の動向を知ったのは、昨年のことだった。

 お風呂上がり、リビングでテレビを見ていたところ、やけに嬉しそうな顔で兄が一階に降りてきて、興奮気味に私達家族に伝えた。小説で賞を獲ったのだと。

 兄はどうも高校生になって小説投稿サイトに小説を投稿するようになったらしい。そこで見つけた高校生限定のコンテストに数作応募したところ、見事賞に選ばれたのだという。賞と言っても一番下で、頑張ったで賞に近いものだったけれど、出版社から授賞式に招かれたのだと話していた。実際東京行きチケットが送られてきて、東京土産を買ってきてくれたのだから、嘘ではない。


 そのとき兄は初めてペンネームを教えてくれた。平々凡々とした本名とは一文字も掠っていない、痛々しい名前だと思った。ペンネームを知っているからといって、じゃあネットで調べて小説を読んでやろう、とはならなかった。どうしても私は小説で語られることを兄に重ねてしまうと思ったからだ。きっとむず痒くて悶絶してしまうに違いない。

 だから私は、兄のことを何も知らない。


 * 

 一週間経っても、兄は卵のままだった。うんともすんとも言わないままで、自室のベッドからちっとも動かない。卵なのだから当然と言えば当然なのだけれど。

 どうも卵返り中は食事の必要がないらしいので、兄はずっと放置されている。父も母も卵にはまるで無関心で、心配しているのは私だけだった。いつか治るんでしょ、なら放っておきましょうよ、なんて他人事みたいに言う母の気持ちが私に分からなかった。


 ここまで来ると本当にこの物体が兄なのかという疑念が湧く。そもそも人間は胎生なのだから卵になるわけないじゃないか。私は一体何の生物を育てているんだろう、なんて考え始める。


 部屋の掃除をするため、兄の部屋に入った。散乱した紙ゴミを集めていく。くしゃくしゃに丸められた紙を広げてみると、それは何かの原稿のようだった。何を書いていたのだろう、と読んでみようとすると、やめろ、とくぐもった声が聞こえた。振り返って卵を見る。兄の声、だろうか。 

「お兄ちゃん」

そう呼んでも返事はない。でも、あれは兄の声だった。兄のもとに近づく。兄を抱き上げ、ベッドに座る。兄の殻にそっと触れる。

「何があったの」

私が問うと、もぞもぞと声がした。殻の中だからか酷くくぐもっていた。


「最高傑作が書けたんだ」

兄はポツポツと語り始めた。

「夏の終わりから、ずっとこれにかかりきりだったんだ。馬鹿みたいに頭を使って、朝も昼も夜も書いた。ぶっ壊れるほど実直に、物語に向き合ってた。このまま壊れてしまってもいいって思えるほど、我武者羅に書いた。これまでで一番長い小説ができたんだ。凄まじいものができたって、心の底からそう思った」

そんなとき、大学生まで応募できるコンテストを見つけたのだという。

「選ばれると思ったんだ」

兄は吐き出すようにそう語った。

「去年のあの出来で選ばれた。賞は違うけれど、今年は間違いなく選ばれる。そういう自信があった」


――でも、いくら待っても、電話はかかってこなかった。


殻の中から鈍い自嘲が聞こえた。

「俺さ、他のやつのこと散々馬鹿にしてきたんだ。この作品に賭けてますとか、心血注いで書きましたとか。正直馬鹿じゃねーのって思ってた。お前の作品なんて何万字、何十万字書こうが、駄作には変わりねーんだよって。読まれる価値もねーよとかさ。そういう嘲りが特大ブーメランとして返ってきたんだ」

卵の中の兄はやけに饒舌だった。殻で守られているから、語ることができたのかもしれない。

「そっか」

私は何も言えなかった。兄の絶望が果たしてどんなものなのか想像もできなかった。そもそも私は兄が賞を獲るまで小説サイトのことなんか知らなかったし、コンテストの存在など全く知らなかった。端から見れば何が凄いのかも分からない、ごくごく小さな畑で盛り上がっているコンテストなのだろう。それに掠ったからと言って喜ぶ兄も、落ちたからと言って殻に閉じこもる兄も、私にはよく理解できなかった。


「ごめん、ひとりにしてくれないか」

話し疲れたのだろうか、兄はそう言って私をやんわりと拒絶した。卵をベッドに降ろして、私は自室に戻る。学校のパソコンで、兄のペンネームを調べてみた。最初にヒットしたのは、賞を獲ったときのサイト内の記事。大賞、優秀賞、優良賞、入選……と続いて一番下に兄のペンネームがあった。


 そのサイトで直近のコンテストを調べてみる。多分これだろうというのは分かった。

 でも結果発表のページをいくらスクロールしても名前は出てない。

 ずっと、ずっと、スクロールしていく。

 そして、一番下までたどり着いた。

『惜しくも受賞を逃したものの、最終候補として残った作品は以下の作品です』

兄のもう一つの名前は、無様に輝いていた。

 

 落選した兄の小説はまだウェブ上に残っていた。仰々しいタイトルに思わず面食らう。こんなものを書いていたなんて、今の今まで知らなかった。

 兄の小説を読むのは初めてだった。緊張しながら、あらすじに目を走らせる。息子を亡くした母の物語。正直、これが兄の小説でなければ読もうとは思わなかった。あまりにもありきたりだと感じたからだ。第一話を開くと、びっちり敷き詰められた文字列に目が眩む。小説をデジタルで読むのは初めてで、目がチカチカしたけれど、それでも読もうと思った。今読まなければいけない気がした。



【続】





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