第4話:気高き淑女の微笑み

凍りついた料亭の個室は、まるで時が止まったかのようだった。私の祖父、水瀬宗一郎が放つ静かな威圧感は、部屋の空気を支配し、橘家の人々の呼吸さえも奪っていた。目の前に並べられた豪華絢爛な料理は、誰の手もつけられないまま、ただ美しく並んでいる。


その息の詰まるような沈黙を破ったのは、義母・美代子だった。彼女は、震える体を無理やり動かし、座っていた座布団からずり落ちるようにして畳に手をついた。そして、今まで私に向けられたことのない、卑屈なまでの媚びを含んだ声で言った。


「さ、紗良さん……! い、いえ、紗良様…! こ、このようなことになるなど、わたくし、夢にも思っておりませんでした…! どうか、どうか、これまでの無礼の数々を、お許しくださいませ…!」


床に額をこすりつけんばかりの勢いで頭を下げる美代子。その姿は、かつて私を「家柄が釣り合わない」と見下し、支配者として君臨していた面影など微塵もなかった。権威の前ではかくも無力に、そして滑稽に、人は変わるものなのか。そのあまりの変わり身の早さに、私はもはや怒りよりも深い憐憫を覚えた。


「お義母様、お顔を上げてください。そんなことをなさらないで」


私は静かにそう言った。その声は自分でも驚くほど穏やかだったが、その中に以前のような従順な響きはもうない。


私の言葉に、今度は大輝が我に返ったようだった。彼は顔面蒼白のまま、私に向かって叫ぶように言った。


「紗良! どうして…! どうして、今まで言ってくれなかったんだ! お前がミナセホールディングスのお嬢様だって、一言でも言ってくれていれば、こんなことには…!」


責任転嫁。これ以上ないほど醜い、自己保身の言葉だった。彼は、自分の母親が私にしてきた仕打ちも、それに同調し、私を傷つけてきた自分の言動も、全て棚に上げている。私が素性を隠していたことが、全ての元凶だとでも言いたげな口ぶりだ。


私はそんな大輝を、冷たい目で見つめ返した。


「言って、どうなりましたの? もし私が最初から素性を明かしていたら、あなたや、お義母様の態度は違っていたかもしれません。けれど、それは『水瀬紗良』という個人ではなく、『ミナセホールディングスの令嬢』という肩書きに向けられたものでしょう? 私が求めていたのは、そんなものではありませんでしたわ」


私の言葉に、大輝はぐっと息を呑んで押し黙る。彼の瞳が、絶望と後悔の色に揺れていた。最高の妻を、そして会社の危機を救うかもしれない最大のチャンスを、自らの手で破壊してしまったことに、ようやく気づいたのだろう。しかし、もう遅い。私たちの間にあったはずの愛や信頼は、彼のその手によって、とうにズタズタに引き裂かれてしまった後なのだから。


私は静かに立ち上がると、懐から一枚の紙を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。それは、あらかじめ記入と署名を済ませておいた、離婚届だった。


「お義父様、お義母様、そして大輝さん。これまで、大変お世話になりました」


私は、橘家の三人に順番に視線を送り、はっきりとした声で告げた。


「お義母様が常々おっしゃっていた『橘家に釣り合う嫁』に、どうやら私は、最後までなれなかったようですわ。力不足で、大変申し訳ございませんでした」


その言葉は、彼らが私に浴びせ続けてきた言葉そのものだった。しかし、今の私が口にすると、それは強烈な皮肉となって彼らの胸に突き刺さる。美代子は「あ…」と声にならない声を漏らし、その場にへなへなと座り込んだ。


「紗良、待ってくれ! 頼む、考え直してくれ! 俺が悪かった! 何でもするから!」


大輝が、私の腕を掴もうと必死に手を伸ばす。その手には、これまでの冷たさとは打って変わって、見え透いた焦りがまとわりついている。私はその手をひらりとかわし、一歩、後ずさった。


「もう、遅いのよ、大輝さん」


その瞬間、私の口から出た彼の呼び名は、もう夫に対するものではなく、完全に他人に向けられたものに変わっていた。


私は、橘家の人々に向き直り、背筋をすっと伸ばす。そして、幼い頃から祖父に厳しく教え込まれてきた作法に則り、完璧なまでに美しい、深いカーテシー(淑女のお辞儀)をした。それは、もはや「橘家の嫁」としてではなく、「水瀬家の令嬢」としての、別れの挨拶だった。


ゆっくりと顔を上げた私の顔には、もう悲しみも屈辱もなかった。ただ、晴れやかな解放感と、自らの足で未来を歩き出すという確固たる決意だけが満ちていた。


去り際に、私はもう一度、絶望に打ちひしがれる夫と義母を振り返った。そして、これまで彼らに見せたことのない、気品と自信に満ちた、極上の微笑みを向けた。それは、虐げられてきた淑やかな妻が見せた、最初で最後の、そして最も鮮やかな勝利の微笑みだった。


「……っ!」


私のその微笑みを見て、大輝は膝から崩れ落ちた。彼が何を失ったのか、その本当の意味を、骨の髄まで理解したのだろう。美代子は、ただ嗚咽を漏らすばかりで、もう言葉を発することもできないようだった。プライドも、見栄も、そして会社の未来も、全てを失ったことを悟ったのだ。


私は、そんな彼らに背を向け、毅然とした足取りで部屋を後にした。襖が閉まる直前、祖父の冷静で威厳のある声が、私の背中を後押しするように聞こえてきた。


「さて、橘社長。感傷に浸るのはそのくらいにして、本題に入りましょうか。…追加融資の件ですが」


その声は、孫娘に見せる優しい祖父のものではなく、巨大企業グループを率いる冷徹なビジネスマンのものだった。その後の橘製作所がどうなったのか、私には知る由もない。ただ、私の耳にはもう、彼らの絶望の叫びは届かなかった。


料亭の玄関を出ると、ひんやりとした夜風が私の頬を優しく撫でた。見上げた夜空には、美しい満月が輝いている。まるで、私の新しい門出を祝福してくれているかのようだった。


迎えに来ていた祖父の黒塗りの車に乗り込むと、後部座席で待っていた祖父が、私の肩を力強く抱きしめた。


「よくやったな、紗良。辛かっただろう」

「…ううん。もう、大丈夫。ありがとう、おじい様」


祖父の腕の中で、私はようやく心の底から安堵のため息をついた。涙は、もう出なかった。


車は静かに走り出す。窓の外を流れる景色を見つめながら、私はこれからの自分の人生に思いを馳せた。家柄や誰かの評価に縛られることのない、私だけの人生。きっと、大変なこともあるだろう。でも、もう二度と、自分の心を偽って生きることはしない。


私は、水瀬紗良。誰かの妻でも、誰かの嫁でもない。ただ、私自身として、気高く、しなやかに生きていく。


上品な微笑みの裏に隠していた本当の私を取り戻した今、私の未来は、あの夜空の月のように、明るく輝き始めている。清々しいほどのカタルシスと共に、私の長い復讐劇は、静かに幕を閉じたのだった。

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「うちの家には釣り合わない嫁」と見下す義母へ。~実は私、日本を代表する大企業の創業家令嬢でした~ @jnkjnk

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