第3話:審判のディナー

あの結婚披露宴から数週間、橘家はかつてないほどの緊張感に包まれていた。発端は、義父が経営する町工場「橘製作所」の経営状況が、急速に悪化したことだった。主要な取引先からの契約打ち切りが相次ぎ、資金繰りは火の車。会社の存続は、メインバンクである東都銀行からの追加融資を受けられるかどうかにかかっていた。


そして、その東都銀行の筆頭株主であり、絶大な影響力を持つのが、ミナセホールディングス――私が「平凡な家庭」という嘘のベールで隠してきた、本当の実家だった。


運命の皮肉とでも言うべきだろうか。彼らが喉から手が出るほど欲しているものが、彼らがずっと見下してきた私の足元に転がっている。私は、この状況を静かに、そして冷徹に見つめていた。祖父・水瀬宗一郎との電話の後、私は彼に橘製作所の現状を伝え、全てを委ねていた。祖父は多くを語らなかったが、その声色から、彼が私のために最善の舞台を用意してくれるであろうことを確信していた。


そんなある日の夜、大輝が思い詰めた顔で私に話しかけてきた。あの夜以来、私たちの間の空気は凍りついたままだ。彼は私を腫れ物のように扱い、私は彼を存在しないものとして扱っていた。


「紗良、話がある」

「……何かしら」


私はテレビの画面から目を離さずに答えた。ソファの反対の端に座る彼との間には、広くて冷たい川が流れているようだった。


「親父の会社のこと、知ってるだろ。かなり、やばいらしい。それで…今度、銀行の担当者と会食することになった。うちの存続がかかってる、大事な席だ。お前にも、同席してほしい」


その言葉に、私はようやく彼の方を向いた。彼の顔には焦りの色が浮かんでいる。だが、私に向けられるその眼差しには、妻への信頼ではなく、何か得体の知れないものを利用しようとする打算の色が見て取れた。


「私に、同席してほしい? どうしてかしら。私は『身の程をわきまえない』女なのでしょう?」


私の皮肉のこもった言葉に、大輝はぐっと言葉を詰まらせた。


「……悪かった。あの時は、俺もどうかしてた。頼む、紗良。お前があの銀行の重役と知り合いだったのは事実なんだろ? お前がいてくれるだけで、心強いんだ。それに、母さんも…お前がいてくれた方が、話がスムーズに進むんじゃないかって…」


義母・美代子の名前が出た瞬間、私の心に冷たい笑いが込み上げた。あれほど私を罵り、見下していた人間が、今度は私を利用しようとしている。なんと身勝手で、愚かな人たちだろう。


「……分かりましたわ。橘家の嫁として、当然の務めですものね」


私は、淑やかな妻の仮面を再び被り、にっこりと微笑んでみせた。その微笑みの裏に隠された本当の意図など、彼には到底理解できないだろう。彼は私の承諾に、あからさまに安堵の表情を浮かべた。


「本当か! よかった…ありがとう、紗良。助かるよ」


彼は心底ほっとしたようにそう言ったが、その感謝の言葉は、私の心には少しも響かなかった。


会食の当日。美代子は「家長の威厳を見せるため」と息巻いて、都内でも有数の高級料亭に席を設けた。今日の彼女は、いつものような刺々しさは鳴りを潜め、代わりに不気味なほど私にへりくだっていた。


「紗良さん、そのお着物、とても素敵よ。本当によくお似合いだわ」

「紗良さん、髪型も綺麗に結えて。さすがね」


料亭へ向かうタクシーの中で、美代子はやたらと私を持ち上げる。その変わり身の早さには、もはや憐れみすら感じた。彼女にとって、私はもう「家柄の釣り合わない嫁」ではなく、「銀行との交渉を有利に進めるための道具」でしかないのだ。大輝も義父も、緊張した面持ちで黙り込んでいる。一家の命運がこの夜にかかっているのだから、当然だろう。


料亭の門をくぐり、仲居に案内されて個室へと続く長い廊下を歩く。静まり返った廊下に、私たちの足音だけが響く。部屋の前で深呼吸をし、義父が覚悟を決めたように襖に手をかけた。


「橘です。本日はよろしくお願いいたします」


しかし、襖の向こうから返ってきたのは、想像していた銀行員のものではなく、聞き覚えのある、重々しくも穏やかな声だった。


「おお、橘社長。お待ちしておりましたよ。さあ、どうぞお入りください」


その声を聞いた瞬間、私の計画が完璧に動き出したことを知った。


部屋の中には、上座にどっしりと腰を下ろす一人の老紳士がいた。その隣には、先日結婚式で会った東都銀行の常務・高坂氏が、緊張した面持ちで控えている。そして、その老紳士こそ――私の祖父、ミナセホールディングス会長・水瀬宗一郎、その人だった。


「み、水瀬…会長…!?」


義父が、喘ぐような声を上げた。無理もない。一介の町工場の社長が、日本経済界のトップに君臨する人物と直接顔を合わせることなど、通常ではあり得ないのだから。大輝と美代子に至っては、目の前で起きていることが理解できず、ただ口をパクパクさせて立ち尽くしている。


「なぜ、水瀬会長が、ここに…? 担当の、林課長は…」


義父が震える声で尋ねると、高坂常務がすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。


「申し訳ございません、橘社長。本日は、弊行にとって最大の株主様でいらっしゃる水瀬会長が、ぜひ橘製作所の件について直接お話を伺いたいと仰せでして…。林は、別室にて待機させております」


その説明に、橘家の三人は完全に思考が停止したようだった。顔面は蒼白になり、まるで幽霊でも見たかのような表情で祖父と私を交互に見ている。


私は、この完璧なタイミングを待っていた。打ち合わせ通り、少し遅れて部屋に入った私は、三人の脇をすり抜け、まっすぐに祖父のもとへ歩み寄った。そして、優雅に微笑みながら、はっきりとした声で言った。


「おじい様、お待たせいたしました。少し、準備に手間取ってしまいまして」


その言葉は、静かな部屋に明瞭に響き渡った。


「お、おじい…さま…?」


美代子が、か細い、信じられないといった声を漏らす。


祖父は、そんな彼らの動揺を意にも介さず、満面の笑みを浮かべて私の手を取った。そして、ゆっくりと立ち上がると、私の肩を優しく抱き寄せ、凍りついている橘家の一同に向かって、厳かに告げた。


「橘社長、そしてご家族の皆様。ご紹介が遅れましたな」


祖父の目は、優しく細められている。しかし、その奥には、氷のように冷たく、絶対的な権力者だけが持つ威圧感が宿っていた。


「紹介します。私の、たった一人の、目に入れても痛くないほど可愛い孫娘、紗良です」


審判の鐘が、鳴り響いた。


「え……」


大輝の口から、間の抜けた声が漏れる。


「そん…な……まさか……」


美代子は、膝から崩れ落ちそうになるのを、かろうじて隣のテーブルに手をついて支えていた。その顔は、血の気が完全に引いて、まるで能面のようだった。自分たちが散々「平凡」「家柄が釣り合わない」と見下し、罵ってきた嫁が、自分たちが今、必死に助けを乞わねばならない相手の、最も大切な肉親であったという事実。その悪夢のような現実を、彼らの脳は処理しきれずにいるようだった。


これまでの義母の言動が、走馬灯のように頭をよぎっているのだろう。『あなたのご実家の収入で、こんな立派なもの、無理してるんじゃないの?』『育ちっていうのは大事なものよ。どんなに着飾ったって、隠しきれないものがあるもの』。それらの言葉はすべて、巨大なブーメランとなって、今まさに彼女自身に突き刺さっているのだ。


「さあ、皆様、どうぞお座りください。固まっていないで」


祖父は、にこやかにそう促した。しかし、その声には逆らうことを許さない響きがある。三人は、まるで操り人形のように、ぎこちない動きで席についた。誰も、一言も発することができない。部屋の中には、重苦しい沈黙だけが満ちていた。


私は、祖父の隣に静かに腰を下ろした。そして、目の前に並べられた美しい懐石料理に、そっと箸を伸ばす。一口、口に運ぶ。上品な出汁の香りが、口の中に広がった。


ああ、美味しい。


こんなにも、食事が美味しいと感じたのは、いつ以来だろうか。


長年私を苦しめてきた屈辱と悲しみが、すうっと浄化されていくような、不思議な解放感があった。私は、顔面蒼白で震えている夫と義母を一瞥し、静かに、そして心の底から微笑んだ。私の戦いは、今、勝利の瞬間を迎えようとしていた。

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