後編: 僕
あの恒星系はもう何億光年もの彼方に遠ざかってしまった。僕の生まれた惑星は、もうきっとすっかり様変わりしてしまっただろう。というか、僕たちの社会はおろか、種族すらいなくなってしまった頃合いかもしれない。
僕はいくつもの恒星系の最後を見てきた。同じくらいの数の始まりの頃合いも目撃してきた。
僕が乗ってきた探査機は何億年も前にプラズマの海に消えてしまった。僕はたった一人で、この無数の意識の飛び交う宇宙空間を泳いでいる――ほとんど光速みたいなスピードで。何よりも早いはずの光の速さであっても、宇宙の前には緩慢なものだった。
宇宙はあまりにも広い。自由自在に旅をすることのできる僕でも、この天壌無窮な世界にはほんのりうんざりし始めていた。
いろんな銀河を訪れた。ただ暗く、そして時としてうんざりするほど明るい。ブラックホールに飲み込まれそうになったこともある。僕には質量もないのに、不思議だろ? だけど、巨大なブラックホールは僕の意識すら
それから僕はブラックホールを慎重に避けるようになった。宇宙は思いのほかスッカスカだったから、それは難しくはなかった。
中性子星のパルサーには心底参った。宇宙の灯台とも言われる彼らけど、頭がおかしくなりそうなほどの光をぶち当ててくる。生身だったら即死している死のビームだ。僕は悪態をつくくらいで済んだけど。
だけど、彼らのおかげで旅立ってから数千万年程度の僕は正気を保てたと言ってもいい。それくらい、宇宙には何もないんだ。無遠慮なイベントとはいえ、何もないよりずっといい。
それから僕はパルサーからパルサーを渡るように旅行した。宇宙に漂う意識たちとの交流も試みるくらいには、僕は暇だった。退屈だった。だけど、何億年もかけてみたけど、未だに成功していない。彼らの囁きをノイズとして認識できるようにはなったけど、まだ意志疎通には程遠い。
僕らの宇宙の観測範囲は、確か138億光年。それに比べれば僕の数億年の旅路なんてまだまだ点みたいなものだ。僕も長生き――いや、生きているという定義に当てはまるかはともかく――しているとはいえ、自分としてはそんなに長く存在しているという自覚はない。もっとも、僕の存在意義ってなんだろうなとは思うのだけど。母星に情報を送るなんて無駄なことだったし、四方八方に電波を飛ばし続けるなんてのもなんだか虚しい。
だから結果として、僕は僕の周りを漂う意識たちにちょっかいをかけて退屈をしのぐということをしていたわけだ。
「僕はさ、遠くに行きたかったんだ」
僕は凍て付いた暗黒の空間に囁く。声を出すイメージだ。
僕は生きている間、どこにも行けなかった。喋れなかった。動けなかった。ただ太陽の照らす窓辺で毎日過ごしていた。夜の空を知らなかった。星の存在を知らなかった。
「それがなぜか探査機に乗っていたんだよね」
死んだのかもしれない。魂になって宇宙にやってきたのかもしれない。今となっては確かめようがないけれど。
「たぶん、君たちもそうして
ん?
新しい銀河を発見した。あれは「棒渦巻銀河」に分類される、オーソドックスな形の銀河だ。何て名前の銀河か、なんて問題じゃない。あの銀河の中に知的生命体のいる恒星系でもあれば、情報は集められるかもしれない。けど、僕的にはそんなことはどうでもよかった。大事なのは名前なんかじゃなくて、新しい刺激だ。
僕はまだ百万光年ほど遠くにある銀河に向けてまっすぐに飛んだ。燦然たる美しい銀河だった。差し渡し十万光年くらいはある。数多くの銀河を旅してきた僕の目見当だけど、たぶん当たらずとも遠からずだ。
僕にとって百万年なんて一瞬だった。……いや、言い過ぎた。さすがに百万年は退屈だった。僕はその退屈な暗黒空間をスパッと飛んで、銀河の腕の一つに飛び込んだ。
その辺境の地と言ってもいいくらいの外れの場所に、赤い恒星によって組織された恒星系を発見した。僕の近くは宇宙規模に拡大されているから、直径一万キロのちっぽけな惑星だって決して見逃さない。その恒星系は奇麗な形をしていた。変な軌道をとる惑星や準惑星もあったけど、おおむね整然としていた。
「あれ、
ということは、この
「あ」
遥か遠い闇の中で、恒星が死んだのだ。最後に巨大で破壊的な花を咲かせて。その跡地にはブラックホールが残るだろうか。
何度も感じてきた恒星の死だが、慣れることはなかった。目にするたびに、感じ取るたびに、感傷的な気持ちになる。その恒星たちが気の遠くなるほどの年月をかけて培ってきた世界が終わる瞬間なのだから。
「ん?」
ヘリオポーズのすぐ外側に、僕は信じられないものを見つけた。
ボロボロの建造物だ。明らかに知的生命体の手が入っている物。エンジンもカメラも太陽光パネルももはや機能していない、ただの
僕は慎重に軌道を操作して、探査機のそばにやってきた。
「もしもし? 誰かいる? 探査機君、話せる?」
『はいはい!』
即座に、一秒とかからずに反応があったことに僕は驚いた。女の子の声だということはわかった。
「探査機くん?」
『ううん、1号君の相棒みたいなもの』
「僕も最初はそうだった」
『本当!?』
「もう何億年も昔のことだけれど」
僕が言うと、彼女は少し黙った。
僕にしてみれば一瞬なんだけど、なぜか僕は何十万年もの時間放置されたんじゃないかとすら感じてしまった。
「あの」
『大先輩! 宇宙を旅してきたの?』
「う、うん。何億光年かは飛んできたかな」
僕は正直にそう伝えた。
『私、アリス。地球から来たの』
「地球っていうのは、この先にある小さな惑星のこと?」
『小さい……のかもしれないね。あなた、なんでも見えるのね』
「この生活が長いからね」
『うふふ、あなた、面白い!』
唐突に笑われて僕は困惑する。
だけど、久しぶりに誰かと話ができて、僕は確かに高揚していた。
『私が生きていた時世界は小さかったの。だけど、こうして1号君と旅しているうちに、世界はどんどん大きくなった。これからもどんどん大きくなっていくんだろうなって思ってる』
「確かにそうかもしれないけど、銀河系を抜けたら、宇宙は退屈かもしれないよ」
『それでもいいわ。あなたも一緒でしょ』
「え?」
『1号君もついに眠っちゃった。最後に1号君は言ったんだよ』
「1号君って、その探査機の名前?」
僕が
『1号君はね、最後の電文を送った後で、私にメッセージをくれた。Hello Alice. God be with you.ってね』
「神が共にありますように?」
『いまさらだけど、地球語わかるの?』
「言語なんて些細な問題さ。君だって僕の言葉がわかるでしょ」
『それもそうか』
アリスはコロコロと笑った。数億年ぶりに聞く他人の笑い声に、僕も楽しくなる。
『それとね、さっきの言葉にはもう一つ意味があるんだ。さようならっていうね。だから私、今まさに一人ぼっちになるところだったんだ』
「そこにタイミングよく僕が来たと」
『そういうこと。これをね、私たち地球人は運命って言うらしいよ』
「僕の文明でもそれは運命と言っていたよ」
あら素敵! アリスはそう言って手を叩いて喜んだ。
「これから何十億年かしたら、僕たちの意識は宇宙に溶けてしまうと思う」
『私は向こう十万年の退屈の話をしているの』
「お、おう」
『二人だったら退屈しないかもしれないでしょ。一人ぼっちよりずっといい。くだらないお話したり、星がきれいって言ってみたり、時々喧嘩してみたり。私、憧れてたの、誰かとお話することに』
「確かに一人は退屈だよ。パルサーくらいしか刺激がないし」
実は僕もアリスと同じ気持ちだった。僕も生きていた頃は誰とも意思疎通なんてできなかったし。何ならこの対話が人生初めての知的生命体との会話だった。
『ねぇ、あなた。名前は何ていうの?』
「えっ?」
名前?
名乗ったことすらない自分の名前を、僕はそもそも知らない。僕はずっと僕だった。親たちが語り掛けてくれた記憶もない。
「ごめん、わからない」
『いいのよ。何億年も誰にも呼ばれなければ、忘れちゃうわ』
そして彼女は思案顔で腕を組んだ。
『あなたが女の子ならドロシーって名前を付けてあげたんだけど、男の子でしょう?』
「たぶんそうだと思う」
『じゃぁ、そうねぇ……』
アリスは僕が焦れるくらいの間考えた末、パンと手を打った。正直僕はびっくりした。真空の宇宙空間で音が鳴ったように感じたからだ。
アリスはあっけらかんと言った。
『ごめん、思いつかないや。でもいいでしょ、これからちょびっとの間だけ、名前を考えて退屈をしのげるわ』
「そ、それはいいけど。君はどこに行くつもりなの?」
『どこもそこもないわ。行けるところ、行きたいところに。できればあなたの行ったことのない場所に』
なるほど、と、僕は応答した。
『ところであなた。光あれって言葉、知ってる?』
「創世の物語でそんなのがあったな」
『遠く離れたあなたの故郷でも!? 宇宙共通なのかな』
「かもね。趣味の悪い言葉だよ」
『あら!』
アリスは破顔した。
『私たち、とっても気が合うわ、きっと!
「そのくせ、みんな僕を太陽にあてたがった。
『おんなじ! でも、夜空は奇麗だったわ』
「僕はずっと部屋に閉じ込められていたからなぁ」
『でも今は誰よりも自由じゃない』
アリスは前向きだった。僕は確かに、この知的生命体の意識に
『1号君、おやすみ。ゆっくり眠って』
アリスは祈るようにそう呟き、ふわりと舞い上がった。そして僕の手を取る。
『さ、旅に出ましょ。いくつもの銀河を渡って、
「遠いよ」
『時間は無限にあるわ、きっと』
きっと、だ。
未来はわからない。これだけ生きていても、僕は未来を知ることができない。
アリスは元気よく言った。
『私の旅のスタート地点はここなの』
「地球には寄らないの?」
『望郷の念を抱くには早すぎるわ。私たちの時間は億年を刻むんでしょう?』
「うん……億年だ」
僕はそう言って、彼女の手を握りなおした。
『さよなら、地球! 行ってきます!』
アリスは大きな声でそう言った。
僕の視線の先には、わずか直径一万キロメートルの小さな小さな惑星が、昼と夜とを繰り返しながら
ヘリオポーズを超えた空間で。 一式鍵 @ken1shiki
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