ヘリオポーズを超えた空間で。
一式鍵
前編: アリス
1977年9月5日、二号機に遅れること約二週間、ボイジャー1号は宇宙へと旅立った。数多の惑星を飛び越え、2013年には
地球を出発してから48年。今や振り返っても地球の影も形も見ることはできない。それどころか太陽だって怪しいものだった。太陽までの距離は、約170天文単位――つまり、1億5000万kmの170倍。すなわち、255億kmということになる。人類の建造物としては、史上地球より最も遠いところに存在している――それが、彼、ボイジャー1号だ。
アリスは幾分誇らしげにそう語って聞かせた。
「光の速さでも一日かかるのよ、故郷に情報を送るのに」
アリスはボイジャー1号と並走するかのように、宇宙をまっすぐに泳いでいる。アリスの姿を観測することのできる地球人はいない。しかし、アリスは地球人だった。
生まれた時から身体の自由が利かなかった。だから一日中天井を眺めて過ごしていた。ある時、家族がアリスを夜空の下に連れ出した。アリスはその時、強い衝撃を覚えた。それを言葉にすることはできなかったけれど、アリスは瞬きも忘れて空を見続けた。
太陽はあんなにぎらぎらと遠慮なしに眩しいのに、星々はなんて美しいの。空の色も奇麗。さらさらの青を頂点に、夜が
その気持ちを言葉にできないことがもどかしかった。空に手を伸ばすことができないことが悔しかった。アリスの知能は同年代の子どもとほとんど同等か、あるいは熱心に本を読み聞かせてくれた母たちのおかげでそれ以上だった。
ただ、自ら何をすることもできなかった。
そしてあの日。アリスはその不自由な身体を脱ぎ捨てた。ボイジャーたちが呼んだのだ。それはあるいは気のせいだったのかもしれない。けれど、実際に、アリスはボイジャー1号と共に宇宙空間を泳いでいた。
宇宙を泳ぐうちに、アリスは宇宙にもたくさんの意識があることに気が付いた。言葉は通じないし、姿も見えない。けれど、彼らは思い思いに好きなように宇宙を泳いでいた。だからアリスは寂しくはなかった。
優しい家族を思えば胸は痛む。けれど、それ以上にアリスは喜びの中にいた。小さな小さな世界しか知らなかったアリスは、今や全人類の意識を飛び越えた宇宙空間を泳いでいる。何億kmもの旅を経て、そして宇宙の意識たちを感じたことで、その視野は何万倍にも広がっていた。
ある時はボイジャー1号の故障修理を手助けしたりもした。地球から送られてくる無機質なメッセージを共に感じ、気付かれないようにこっそりとボイジャー1号にアドバイスをしたり。
「もうちょっとで感じられる気がするんだけど」
アリスは残念そうにつぶやく。彼女は今、宇宙の意識たちを明確に知覚できないものか挑戦していた。
「ん-、だめかぁ」
アリスはふぅと息を吐く仕草をしてみせた。寝たきりだった頃には呼吸さえ自発的にはできなかった。もっとも、宇宙空間でも呼吸なんかはしていないわけだが。
「君もほんっとボロボロになっちゃったよね」
地球を出たばかりの頃はピカピカだった。だけど、四十年以上を経た今となっては、そして宇宙の風に晒され続けた今となっては、もはや見る影もないほどにボロボロだった。だけどボイジャー1号は今でも忠実に地球に情報を送り、地球からの指示に懸命に答えようとしている。
「早く宇宙人に拾われて、ピカピカにしてもらえたらいいね。でも君は博物館行きになっちゃうかも」
宇宙人、か。
アリスはまた「ほぅ」と息を吐いた。気のせいだろうが、目の前がほんのり白く煙った。
「ねぇ、1号君。君はそこらへんにいる意識と何か話せている?」
ボイジャー1号は何も答えない。最初の時からずっとそうだ。だけど、アリスは知っている。ボイジャー1号にも意志があることを。彼は地球からの通信をアリスに横流ししてくれるからだ。アリスが寂しさを感じないようにという配慮だと、アリスは理解していた。
「大丈夫、私は寂しくないよ」
太陽はもはや恒星の一つに過ぎなかった。リゲルやアンタレスの方が太陽よりもよほど大きく見える。あれほど忌々しかった太陽が、今や星空のアクセントのほんの一つの要素でしかない。
アリスは背面飛行をするように身体をぐるりと巡らせて、少し顔を足の方に向けて太陽の位置を特定した。
「地球の場所はわかんないや」
星星星……。暗黒の海の中に張り付いている白い輝きたち。空気がないから瞬くことはない。だから一層、それらは非現実的で、そして異様なまでに美しかった。
アリスの視覚は人間を超越していた。赤外線、X線、そういったものでも宇宙空間を見ることができた。最初は驚いたものの、慣れれば面白いものだった。アリスの意識の中では、宇宙は明確な色を持っていた。
神様はこの景色を独占したくて、だから言ったんだ。
光あれ――って。
闇を駆逐して星々を覆い隠して、そして人間が闇を恐れるように仕向けて。そのために、そのためだけに太陽を創造したのかもしれない。
そんなことを想像して、アリスは楽しくなってきた。
それにしたって神様はセンスがないな。
罰当たりなことを考えたりもするが、「きっと私たちの位置は神様の手の届かないところだよね」とアリスは自分を納得させた。
神様って、どんな意識なんだろう。アリスは考える。
宇宙には無数の意識が漂っている。彼らが
無音の宇宙、凍て付いた宇宙。人間が生身で出たら一秒だって耐えられない過酷な環境。だけど、ボイジャーたちは身一つで泳いでいる。そしてアリスにとってはこの上なく自由で快適な空間ではあった。
ちょびっとだけ退屈である――ことを除けば。
だからアリスはずっと、漂う意識たちを知覚する方法はないものかと試行錯誤していたのだ。話し相手が欲しかったのかもしれない。地球にいた頃は誰とも話をしたことがなかった。どれだけ伝えたいことがあってもできなかった。
「太陽が眩しいよ」
その一言だけでも伝えられれば、地球での人生はかなり快適だったに違いない。
今は誰かと話がしたかった。地球と交信できるボイジャー1号が
Hello, world! I’m Alice. How do you do?
そんな言葉をこっそりボイジャー1号の電文に紛れ込ませたいという誘惑に駆られたことは、一度や二度ではなかった。
遥か遥か、遥か遠くで恒星の一つが一生を終え、その時に放たれた微弱な電磁波がチリチリと届く。
アリスは小さくため息を
この宇宙から太陽が一つ消えたのだ。
私たちの太陽もあと50億年も経つ頃には消えてなくなってしまう。もっともその頃には、私もボイジャー1号も、とっくに宇宙の意識の一つに溶けてしまっているだろうけれど。
アリスは電磁波のやってきた方向を見つめ、小さく祈りを唱えた。
「おやすみ、恒星くん」
長い間、空を彩ってくれてありがとう。
アリスはボイジャー1号のボロボロの身体に触れる。繊細に繊細を重ねたようなシステム。あと5万6千年後にはオールトの雲を抜ける。けれど、それまでこの自動車一台分くらいの、ちっぽけな機体が持つとは思えない。きっと遠からずプラズマの海に消えていくことだろう。
「ああ、そうか」
アリスは地球出発から48年目にして突然、合点した。
神様が「光あれ」なんて言った理由をだ。
「神様は太陽を知らなかったんだね」
ね、1号君?
恒星の美しい輝きを手元に置いておきたくて、神様はそんなことを言ったんだ。
光あれ、と。
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