第35話「湊の告白」

 三月に入った。

 アフマドさんの転勤は、正式に決まった。四月一日付けで、アブダビ本社への異動。


 残された時間は、一ヶ月を切っていた。


 ライラさんが俺たちの関係を認めてくれたのは、大きな進歩だった。でも、帰国という現実は変わらない。

 ファーティマは日本を離れる。俺たちは、離れ離れになる。


 その事実を、俺はまだ受け入れられずにいた。


 * * *


 三月十四日。ホワイトデー。

 俺はファーティマを呼び出した。


 場所は、最初に二人で桜を見た学校の校庭。あの日から、もうすぐ一年が経とうとしている。


「湊、何の話?」


 放課後、ファーティマは少し緊張した面持ちでやってきた。


「これ、ホワイトデーのお返し」


 俺は小さな箱を差し出した。中には、シルバーのネックレスが入っている。シンプルなデザインで、小さな星のペンダントがついていた。


「わあ……綺麗」


「お前に似合うと思って」


「ありがとう、湊。大切にする」


 ファーティマは嬉しそうにネックレスを見つめていた。

 でも、俺が呼び出したのは、プレゼントを渡すためだけじゃなかった。


「ファーティマ」


「ん?」


「話がある。大事な話」


 彼女の表情が引き締まった。


「聞くわ」


 俺は深呼吸をした。ずっと考えていた言葉。何度も練習した言葉。でも、いざ口にしようとすると、緊張で声が震えそうになった。


「俺、お前のことが好きだ」


「……知ってるわ」


「でも、ちゃんと言葉にしたことなかったと思う。だから、今日、言いたい」


 ファーティマは黙って俺を見ていた。


「お前と出会って、俺は変わった。毎日が楽しくなった。誰かのために頑張りたいって、初めて思えた」


「湊……」


「お前がいない人生なんて、もう考えられない。お前と一緒にいたい。ずっと」


 俺は彼女の手を取った。


「だから——」


 言葉が詰まった。

 ここから先を言うのが、怖かった。


 でも、言わなければならない。今日、この場所で。


「俺と、付き合ってくれ」


 ファーティマの目が大きくなった。


「付き合う……って」


「恋人として。正式に」


「でも、私、もうすぐ帰国——」


「わかってる」


 俺は彼女の言葉を遮った。


「遠距離になる。会えなくなる。簡単じゃないのはわかってる」


「じゃあ、なんで——」


「それでも、お前と一緒にいたいんだ」


 俺の声が、少し震えていた。


「離れていても、お前のことを想い続ける。何年かかっても、また会える日まで待つ。だから、俺の恋人でいてくれないか」


 ファーティマの目から、涙がこぼれた。


「湊……」


「返事、聞かせてくれ」


 長い沈黙があった。

 彼女は涙を流しながら、俺を見つめていた。


 そして——。


「はい」


 小さな声だった。でも、はっきりと聞こえた。


「私も、湊と付き合いたい。恋人になりたい」


「ファーティマ……」


「遠距離は辛いと思う。会えない時間は寂しいと思う。でも、湊となら乗り越えられる気がする」


 彼女は涙を拭いながら、微笑んだ。


「だから、私の答えは、はい。湊の恋人になります」


 俺は彼女を抱きしめた。

 強く、強く。


「ありがとう」


「こっちこそ。ありがとう、湊」


 彼女の温もりが伝わってくる。心臓の音が聞こえる。

 この瞬間を、ずっと待っていた。


「愛してる、ファーティマ」


 初めて、その言葉を口にした。


「ウヒッブキ」


 彼女が驚いたように顔を上げた。


「今の……アラビア語?」


「ああ。勉強した」


「愛してるって、意味よね」


「合ってたか?」


「ええ。完璧よ」


 ファーティマは泣きながら笑った。


「私も。アナ・ウヒッブカ。愛してる、湊」


 俺たちは見つめ合った。

 夕日が校庭を照らしている。一年前と同じ、春の光。


「一年、早かったな」


「ええ。あっという間だった」


「でも、濃い一年だった」


「そうね。私の人生で、一番濃い一年」


 ファーティマは俺の胸に顔を埋めた。


「離れたくない」


「俺も」


「でも、行かなきゃ」


「わかってる」


「待っててくれる?」


「当たり前だろ。何年でも待つ」


「本当に?」


「本当だ。約束する」


 俺は彼女の髪を撫でた。ヒジャブの上から、そっと。


「大学に入ったら、アラビア語を専攻する」


「え?」


「お前の国の言葉を、もっと学びたい。いつかアブダビに行けるように、準備する」


「湊……」


「遠距離の間、できることを全部やる。お前に会いに行くために」


 ファーティマは顔を上げた。涙で濡れた瞳が、夕日に輝いている。


「私も、日本に戻れるように頑張る。大学で日本語を勉強して、いつか日本で働けるように」


「じゃあ、日本で再会だな」


「ええ。そうしましょう」


「約束だぞ」


「インシャアッラー」


「神が望めば、だな」


「ええ。でも今回は、神様だけじゃなくて、私たちも頑張る」


 彼女は微笑んだ。


「私たちの未来は、私たちで作る」


「ああ。一緒にな」


 俺たちは手を繋いだ。

 夕日が沈んでいく。空が赤から紫に変わっていく。


 残り時間は少ない。

 でも、これからの人生は長い。


 今は離れても、必ずまた会える。

 そう信じて、俺たちは歩き始めた。

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