第34話「母への手紙」
ユーセフから連絡が来た。
『母さんが、湊さんに会いたいって』
その一文を見た瞬間、心臓が跳ねた。
『会いたい? ライラさんが?』
『うん。手紙読んだみたい。何か話があるって』
『いつ?』
『今週の土曜日。うちに来てほしいって』
ついに、返事が来た。
良い返事なのか、悪い返事なのか。わからない。でも、会って話す機会をくれた。それだけでも、進歩だ。
『わかった。行く』
『頑張ってね、湊さん』
* * *
土曜日。
俺はファーティマの家を訪れた。
玄関で迎えてくれたのは、アフマドさんだった。
「湊さん、来てくれましたね」
「はい。ライラさんは……」
「リビングで待っています。私も同席しますから、安心してください」
安心。そう言われても、緊張は解けなかった。
リビングに入ると、ライラさんがソファに座っていた。
その表情は、前回会った時とは少し違っていた。厳しさは残っているが、どこか静かな雰囲気がある。
「座りなさい」
ライラさんが言った。前回よりも、声が柔らかい気がした。
俺は向かいのソファに座った。アフマドさんがライラさんの隣に座る。
ファーティマとユーセフは、別室にいるらしい。
「手紙、読みました」
ライラさんが口を開いた。
「はい」
「正直、驚きました」
「……」
「日本の高校生が、こんな手紙を書けるとは思っていませんでしたから」
俺は黙って聞いていた。
「娘のことを、本当に大切に思っていることは伝わりました」
その言葉に、少しだけ希望が見えた。
「でも——」
ライラさんの声が厳しくなった。
「それだけでは、足りないのです」
「足りない……」
「あなたは手紙の中で、娘を幸せにすると書きました。でも、どうやって?」
「それは……」
「あなたはまだ高校生です。将来のことも決まっていない。宗教も違う。そんな状況で、娘を幸せにできると、どうして言えるのですか」
鋭い質問だった。
俺は、正直に答えた。
「おっしゃる通りです。今の俺には、何もありません」
「では——」
「でも、これから作ります」
俺はライラさんの目を見た。
「ファーティマさんを幸せにするために、できることを全部やります。勉強して、働いて、力をつけます」
「それは、いつの話ですか。五年後? 十年後?」
「時間がかかるかもしれません。でも、必ずやります」
「そんな約束、信じられません」
「信じてもらえなくても構いません。俺が、やるかやらないかの問題ですから」
ライラさんは黙った。
俺は続けた。
「俺は、ファーティマさんのことが好きです。この気持ちは、変わりません」
「……」
「彼女が帰国しても、遠距離になっても、諦めません。何年かかっても、彼女のそばにいられるように努力します」
「なぜ、そこまで」
「好きだからです」
シンプルな答えだった。でも、それが全てだった。
「ファーティマさんは、俺にとって特別な人です。彼女に会って、俺は変わりました。もっといい人間になりたいと思うようになった」
「……」
「だから、諦めたくないんです。彼女を失いたくない」
ライラさんは、しばらく黙っていた。
アフマドさんが、そっと妻の手を握った。
「湊さん」
ライラさんが、ゆっくりと口を開いた。
「一つ、聞かせてください」
「はい」
「イスラムについて、どう思いますか」
予想していた質問だった。
俺は深呼吸をしてから、答えた。
「正直、最初は何も知りませんでした。ムスリムの人と話したこともなかったし、イスラムについて考えたこともなかった」
「……」
「でも、ファーティマさんと出会って、少しずつ学びました。礼拝のこと、断食のこと、食事の規則のこと」
「それで?」
「素晴らしい信仰だと思いました」
ライラさんの目が、少し大きくなった。
「規律があって、神様を大切にして、家族を大切にして。俺の知らない世界だったけど、尊敬できると思いました」
「……」
「改宗するかどうかは、まだ決められません。でも、イスラムを否定する気持ちは全くありません。むしろ、もっと学びたいと思っています」
俺は続けた。
「ファーティマさんの信仰を、尊重します。彼女が大切にしているものを、俺も大切にしたいんです」
長い沈黙が流れた。
ライラさんは目を閉じて、何かを考えているようだった。
アフマドさんは、静かに妻を見守っている。
やがて、ライラさんは目を開けた。
「湊さん」
「はい」
「私は、まだあなたを完全に信頼しているわけではありません」
「……はい」
「でも、あなたの言葉は、本心だと感じました」
その言葉に、胸が熱くなった。
「娘は、あなたのことが好きです。それは、私にもわかります」
「……」
「だから、少しだけ、様子を見ることにします」
「え……」
「今すぐ認めるわけではありません。でも、反対し続けることも、やめます」
アフマドさんが微笑んだ。
俺は、信じられない思いでライラさんを見た。
「本当ですか」
「ええ。ただし、条件があります」
「何でしょうか」
「娘を泣かせたら、許しません」
その言葉には、母親としての強い意志があった。
「わかりました。絶対に泣かせません」
「約束ですよ」
「はい。約束します」
ライラさんは、小さく頷いた。
それは、俺がこれまで見た中で、最も穏やかな表情だった。
* * *
リビングを出ると、廊下でファーティマが待っていた。
俺の顔を見るなり、彼女の目が潤んだ。
「湊……どうだった?」
「お前の母さん、少し認めてくれた」
「本当?」
「完全じゃないけど、反対はしないって」
ファーティマの目から、涙がこぼれた。
「良かった……本当に良かった……」
「泣くなよ」
「だって、嬉しいんだもの」
彼女は涙を拭いながら笑った。
「ありがとう、湊。母に向き合ってくれて」
「当たり前だろ。お前のためなら、何でもする」
「……大好き」
「俺も」
俺たちは見つめ合った。
長い戦いが、一つの区切りを迎えた瞬間だった。
でも、まだ終わりじゃない。
帰国の問題は、まだ解決していない。
それでも、一歩前に進めた。
それが、今は嬉しかった。
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