第33話「バレンタインの文化衝突」

 二月十四日。バレンタインデー。

 日本中がチョコレートとピンク色に染まる日だ。


 教室に入ると、いつもと違う空気が流れていた。女子たちがそわそわしていて、男子たちは落ち着かない様子でいる。


 俺は自分の席に着いた。隣のファーティマは、まだ来ていなかった。


「湊くん」


 後ろから声をかけられた。振り返ると、クラスメイトの女子が小さな包みを差し出していた。


「義理チョコだけど、よかったら」


「あ、ありがとう」


 受け取ると、彼女は足早に去っていった。

 義理チョコ。日本独特の文化だ。本命じゃなくても、お世話になっている人にチョコを渡す習慣。


 そうこうしているうちに、ファーティマが教室に入ってきた。

 俺の姿を見つけると、少し緊張した面持ちで近づいてくる。


「おはよう、湊」


「おはよう」


 彼女の手には、小さな紙袋があった。


「あの、これ……」


 彼女は紙袋を俺に差し出した。


「バレンタインのチョコ。日本ではそうするんでしょう?」


 俺は受け取った。ずっしりと重みがある。


「ありがとう。手作り?」


「ええ。昨日、頑張って作ったの」


 ファーティマの頬が、少し赤くなっていた。


「本命チョコって言うのよね、こういうの」


「……ああ」


 周りの視線が集まっているのを感じた。クラスメイトたちが、こっちを見ている。

 俺たちの関係は、もうクラス公認のようなものだった。


「ありがとう。大事に食べる」


「うん」


 ファーティマは嬉しそうに微笑んだ。


 * * *


 昼休み、俺たちはいつもの場所で一緒に過ごしていた。

 ファーティマがくれたチョコを開けてみると、ハート型のトリュフが並んでいた。


「すごいな、これ」


「初めて作ったから、上手にできてるかわからないけど……」


「食べていい?」


「もちろん」


 一つ口に入れると、甘いチョコレートが溶けていく。ほんのりとオレンジの香りがした。


「美味い」


「本当?」


「ああ。プロみたいだ」


「大げさよ」


 でも、ファーティマは嬉しそうだった。


「ねえ湊、バレンタインってどういう意味があるの?」


「意味?」


「元々は何の日なの? キリスト教の行事?」


「ああ、確かそうだな。聖バレンタインっていう人に由来してるらしい」


「へえ……」


「でも日本では、女の子が好きな人にチョコを渡す日になってる。本来の意味とは違うかもな」


「クリスマスと同じね。宗教行事が、別の形になってる」


 ファーティマは少し考え込んでいた。


「私、こういうの参加していいのかなって、ちょっと悩んだの」


「宗教的に?」


「ええ。イスラムでは、他の宗教の行事を祝うことに抵抗がある人もいるから」


「そうなのか」


「でも、私は湊に気持ちを伝えたかった。だから、作ったの」


 彼女は俺を見た。


「母には内緒よ。知ったら、また怒られるから」


「……ライラさんか」


 その名前を出すと、少し空気が重くなった。

 ユーセフに託した手紙は、もう渡してくれたはずだ。でも、まだ返事はない。


「手紙、読んでくれたかな」


「わからないわ。母、何も言わないから」


「そうか……」


「でも、読んではいると思う。ユーセフが、ちゃんと渡したって言ってたから」


 読んでも、反応がない。それが良いことなのか悪いことなのか、わからなかった。


 * * *


 放課後、俺たちは一緒に帰っていた。

 二月の夕暮れは早い。もう空がオレンジ色に染まり始めている。


「ねえ湊」


「ん?」


「ホワイトデーって、何をするの?」


「バレンタインのお返しをする日だ。三月十四日」


「お返し?」


「チョコをもらった男子が、お返しにプレゼントを渡すんだ」


「へえ……面白い習慣ね」


 ファーティマは少し寂しそうな顔をした。


「三月十四日……私、まだ日本にいるかしら」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


「いるさ。絶対に」


「でも、父の辞令が——」


「まだ決まってないだろ」


「来週には、正式に決まるって」


 来週。もう時間がない。


「俺、諦めないから」


「湊……」


「手紙も書いた。お前にもちゃんと伝えた。後は、待つしかない」


「待つ……」


「お前の母さんが、俺の気持ちをわかってくれるのを。アフマドさんが、何か方法を見つけてくれるのを」


 俺は立ち止まって、ファーティマを見た。


「でも、どんな結果になっても、俺の気持ちは変わらない」


「え?」


「お前が帰国しても、俺はお前のことが好きだ。遠距離になっても、待ってる」


 ファーティマの目が潤んだ。


「湊……」


「だから、諦めるな。最後まで」


「……うん」


 彼女は涙を拭いて、頷いた。


「私も、諦めない。湊と一緒にいたいから」


「ああ」


「何があっても」


 俺たちは見つめ合った。

 夕日が、彼女の顔を照らしている。涙の跡が、光っていた。


「ホワイトデー、絶対にお返しするから」


「期待してる」


「美味いもの、用意するから」


「楽しみにしてるわ」


 彼女は微笑んだ。泣き笑いのような顔だった。


「ありがとう、湊。今日のチョコ、気に入ってくれて」


「こっちこそ。ありがとう、ファーティマ」


 俺たちは手を繋いで、駅まで歩いた。

 冷たい風が吹いていたが、繋いだ手は温かかった。


 三月十四日。ホワイトデー。

 その日まで、彼女が日本にいてくれることを祈った。


 そして、それ以上のことも。

 彼女とずっと一緒にいられることを。


 バレンタインの夜空に、一番星が輝いていた。

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