第26話「湊の決意」

 ライラさんとの対面から、一週間が経った。

 俺は毎日、考え続けていた。


 ファーティマとの将来。宗教の壁。文化の違い。帰国のこと。

 考えれば考えるほど、答えが遠のいていく気がした。


 学校ではファーティマと普通に話していた。でも、以前のような気軽さはなかった。お互いに、何かを待っているような緊張感があった。


 * * *


 ある日の放課後。

 俺は一人で図書室にいた。イスラムについての本を何冊か借りて、読み込んでいた。


 コーランの教え。五行。ハラールとハラーム。結婚に関する規定。

 知らないことばかりだった。ファーティマから聞いた話は、ほんの一部に過ぎなかった。


「湊?」


 顔を上げると、ユーセフが立っていた。


「お前、なんでここに」


「姉さんを探してたんだけど、いないから。湊さんなら知ってるかなと思って」


「ファーティマなら、礼拝じゃないか」


「ああ、そっか」


 ユーセフは俺の向かいに座った。テーブルの上に積まれた本を見て、目を丸くした。


「イスラムの本? 湊さん、勉強してるの?」


「まあ、少し」


「へえ……」


 ユーセフは俺をじっと見た。いつものおちゃらけた様子はなく、真剣な目だった。


「母さんと話したんでしょ。姉さんから聞いた」


「ああ」


「大変だった?」


「まあな」


 俺は苦笑した。


「お前の母さん、怖いな」


「でしょ。僕も時々怖い」


 ユーセフは少し笑ったが、すぐに真顔に戻った。


「湊さん、姉さんのこと、本気なの?」


「本気だよ」


「なら、諦めないでね」


 意外な言葉だった。


「お前、俺の味方なのか?」


「当たり前じゃん。姉さんが幸せなら、僕はそれでいい」


 ユーセフは真剣な顔で続けた。


「姉さん、湊さんと一緒にいる時、すごく楽しそうなんだ。日本に来てから、一番笑ってる」


「……」


「母さんは反対してるけど、姉さんの気持ちは本物だと思う。だから、湊さんも頑張って」


「でも、宗教のこととか——」


「そんなの、後から何とかなるよ」


 ユーセフは軽く言った。


「大事なのは、気持ちでしょ。好きって気持ちがあれば、壁なんて乗り越えられるよ」


 中学生の言葉とは思えなかった。いや、だからこそ、純粋で真っ直ぐだった。


「お前、いいやつだな」


「知ってる」


 ユーセフはにやりと笑った。


「姉さんをよろしくね、湊さん」


 そう言って、彼は図書室を出ていった。


 * * *


 その夜、俺は自分の部屋で考え続けていた。


 ユーセフの言葉が、頭の中で響いている。

 好きって気持ちがあれば、壁なんて乗り越えられる。


 本当にそうだろうか。

 気持ちだけで、宗教の壁を越えられるのか。文化の違いを乗り越えられるのか。


 わからない。

 でも、一つだけわかることがあった。


 俺は、ファーティマを失いたくない。


 彼女がいない日常なんて、もう考えられない。一緒に過ごした時間、一緒に笑った記憶、一緒に見た景色。全部が、俺の宝物だ。


 それを手放したくない。

 たとえ壁があっても、乗り越えたい。


 俺は机の上のノートを開いた。

 この一週間で調べたことが、びっしりと書かれている。


 イスラムへの改宗。シャハーダという信仰告白。五行の義務。食事の制限。礼拝の作法。


 正直、全部を受け入れられるかどうかわからない。

 でも、学ぶことはできる。理解しようとすることはできる。


 ファーティマのために。

 そして、俺自身のために。


 * * *


 翌日、俺はファーティマを呼び出した。

 放課後、いつもの公園のベンチ。


「話があるんだ」


「……うん」


 彼女は緊張した面持ちで、俺の隣に座った。


「この一週間、ずっと考えてた」


「私も」


「お前との将来のこと。宗教のこと。全部」


 俺は彼女の目を見た。


「答えが出た」


 ファーティマが息を呑んだ。


「俺、お前と一緒にいたい。これからも、ずっと」


「湊……」


「宗教の壁があるのはわかってる。お前の母さんが反対してるのも。でも、諦めたくない」


 俺は続けた。


「イスラムのこと、勉強した。まだ全然わからないことだらけだけど、理解しようとしてる」


「勉強したの?」


「ああ。本を読んだり、ネットで調べたり。改宗のことも、少し」


 ファーティマの目が潤んだ。


「湊、私のために——」


「お前のためだけじゃない。俺自身のためでもある」


 俺は首を横に振った。


「お前を失いたくないんだ。だから、できることは全部やりたい」


「……」


「すぐに改宗するとは言えない。まだ、俺の中で整理がついてないから。でも、可能性を閉ざしたくない」


「うん」


「だから、待っててくれないか。俺がちゃんと答えを出すまで」


 ファーティマは涙を流していた。

 でも、その顔は笑っていた。


「待つわ。いつまでも」


「ありがとう」


「私こそ、ありがとう。諦めないでくれて」


 彼女は俺の手を取った。


「一緒に、乗り越えましょう。どんな壁があっても」


「ああ。約束する」


 * * *


「それで、これからどうするの?」


 少し落ち着いてから、ファーティマが聞いた。


「まず、お前の母さんにもう一度会いたい」


「母に?」


「ああ。この前は、何も言えなかった。でも今は、ちゃんと話したいことがある」


「何を話すの?」


「俺の気持ちと、覚悟を伝えたい」


 ファーティマは少し考えてから、頷いた。


「わかった。母に伝えてみる」


「すぐじゃなくていい。タイミングを見て」


「ええ」


 彼女は俺の顔をじっと見た。


「湊、変わったわね」


「そうか?」


「前より、強くなった気がする」


「そうかな」


「そうよ。前は、どこか迷ってた。でも今は、目がまっすぐ」


 俺は照れくさくなって、視線を逸らした。


「お前のおかげだよ」


「私?」


「お前がいなかったら、俺はずっとぼんやり生きてた。何も考えずに、流されるままに」


「そんなことない」


「いや、本当だ。お前に会って、俺は変わった」


 ファーティマは微笑んだ。


「私もよ。湊に会って、日本が好きになった。この国で暮らすのが、楽しくなった」


「じゃあ、お互い様だな」


「そうね」


 俺たちは顔を見合わせて、笑った。


 空は夕焼けに染まっていた。

 十一月の風が、冷たく吹き抜けていく。


 まだ、何も解決していない。

 ライラさんは反対したままだし、宗教の壁は高いままだ。


 でも、俺は決めた。

 諦めない。逃げない。


 ファーティマと一緒に、未来を切り開いていく。

 それが、俺の決意だった。


「寒くなってきたな」


「そうね。もう冬が近いわ」


「帰るか」


「ええ」


 俺たちは立ち上がり、並んで歩き出した。


 手は繋がなかった。

 でも、心は繋がっている気がした。

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