第25話「母との対立」

 日曜日の午後。

 俺はファーティマの家の前に立っていた。


 何度も来た場所なのに、今日は違って見えた。ガラス張りの高層マンションが、まるで要塞のように威圧的に感じられる。


 深呼吸をして、インターホンを押した。


『はい』


 ファーティマの声だった。


「湊です」


『今開けるわ』


 エントランスのロックが解除され、俺は中に入った。

 エレベーターで最上階へ。ドアが開くと、ファーティマが待っていた。


「来てくれたのね」


「約束したからな」


 彼女は緊張した面持ちだった。俺も同じだ。


「母はリビングにいるわ。父も一緒」


「わかった」


 俺たちは並んでリビングに向かった。

 ドアを開けると、ライラさんとアフマドさんがソファに座っていた。


 ライラさんの表情は厳しかった。文化祭の時とは違う、冷たい目。

 アフマドさんは穏やかだが、どこか緊張しているようだった。


「失礼します」


 俺は頭を下げた。


「座りなさい」


 ライラさんが言った。命令口調だった。

 俺は向かいのソファに座った。ファーティマは俺の隣に座ろうとしたが、ライラさんに止められた。


「ファーティマ、あなたは向こうに座りなさい」


「でも——」


「座りなさい」


 有無を言わせない声だった。ファーティマは俯いて、母親の隣に座った。


 俺とライラさんが、向かい合う形になった。


 * * *


「湊さん」


 ライラさんが口を開いた。


「あなたに聞きたいことがあります」


「はい」


「娘と、どういう関係なのですか」


 直球だった。

 俺は覚悟を決めて答えた。


「ファーティマさんのことが好きです」


 ライラさんの目が細くなった。


「好き、というのは、友達としてですか」


「いえ。それ以上の意味です」


 はっきり言った。ここで曖昧にしても意味がない。


「娘も、同じ気持ちだと聞いています」


「はい。お互いに気持ちを伝え合いました」


「いつからですか」


「先月です。紅葉を見に行った時に」


 ライラさんは深くため息をついた。

 失望と怒りが混じった、重いため息だった。


「湊さん。あなたは、私たちの文化をどれくらい理解していますか」


「完全に理解しているとは言えません。でも、ファーティマさんから色々教わりました」


「では聞きますが、ムスリムの女性が非ムスリムの男性と結婚することについて、どう思いますか」


 結婚。

 その言葉に、心臓が跳ねた。


「イスラムの教えでは、許されていないと聞いています」


「そうです。ムスリマは、ムスリムの男性としか結婚できません。それが私たちの信仰です」


 ライラさんの声は淡々としていた。でも、その奥に強い信念があった。


「あなたは、イスラムに改宗するつもりがありますか」


「……」


「答えてください」


 俺は言葉に詰まった。

 正直、そこまで考えていなかった。ファーティマのことは好きだ。でも、宗教を変えるということは——。


「今すぐには、答えられません」


「そうでしょうね」


 ライラさんの声が冷たくなった。


「宗教というのは、そんな簡単に変えられるものではありません。生き方そのものですから」


「はい」


「では聞きますが、あなたは娘と、どうなりたいのですか。結婚するつもりもないのに、付き合うのですか」


 鋭い質問だった。

 俺は必死に言葉を探した。


「今は、高校生です。結婚のことまでは——」


「高校生だから許される、と思っているのですか」


「そうは思っていません」


「では、何を考えているのですか。娘と遊びたいだけですか」


「違います」


 俺は強く否定した。


「ファーティマさんのことは、本気で好きです。遊びなんかじゃない」


「本気なら、なおさらです」


 ライラさんは立ち上がった。


「本気なら、娘の将来を考えるべきです。あなたと一緒にいることで、娘がどれだけ苦しむか。考えたことがありますか」


「……」


「娘はいずれアブダビに帰ります。そこで、ムスリムの男性と結婚し、家庭を持ちます。それが娘の幸せです」


「それは、ファーティマさん自身が決めることじゃないですか」


 俺は言い返した。


「本人の気持ちを無視して、幸せを押し付けるのは——」


「押し付ける?」


 ライラさんの目が鋭くなった。


「私は娘を守ろうとしているのです。あなたのような、無責任な若者から」


「無責任じゃない」


「無責任です。将来のことも考えず、宗教のことも理解せず、ただ好きだからと言って近づいてくる。それを無責任と言わずして何と言うのですか」


 言葉が出なかった。

 ライラさんの言うことは、ある意味で正しかった。俺は何も考えていなかった。ファーティマのことが好きだという気持ちだけで、ここまで来てしまった。


「お母様」


 ファーティマが立ち上がった。


「湊を責めないで。私が——」


「座りなさい、ファーティマ」


「でも——」


「座りなさいと言っているの」


 ライラさんの声が、一段と厳しくなった。

 ファーティマは唇を噛んで、座り直した。


 * * *


「湊さん」


 今度はアフマドさんが口を開いた。

 ライラさんとは違い、穏やかな声だった。


「妻の言葉は厳しいかもしれません。でも、娘を思う気持ちは本物です」


「はい」


「私も、最初はあなたに反対でした。でも、文化祭であなたの作ったパネルを見て、少し考えが変わりました」


 アフマドさんは俺を見た。


「あなたは、娘のために勉強してくれた。私たちの文化を理解しようとしてくれた。それは、素直に嬉しかったです」


「ありがとうございます」


「でも、それだけでは足りないのです」


 アフマドさんの声が、少し重くなった。


「娘を幸せにするには、気持ちだけでは足りません。覚悟が必要です」


「覚悟……」


「あなたには、その覚悟がありますか。娘のために、すべてを捧げる覚悟が」


 俺は答えられなかった。

 覚悟があるのか。自分でもわからなかった。


 沈黙が流れた。

 長い、重い沈黙。


「今日のところは、これで終わりにしましょう」


 アフマドさんが言った。


「湊さん、考える時間をあげます。自分の気持ちと、娘の将来について、よく考えてください」


「はい」


「そして、答えが出たら、また来てください。その時は、私たちも真剣に話を聞きます」


 俺は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ライラさんは何も言わなかった。ただ、厳しい目で俺を見ていた。


 * * *


 玄関まで、ファーティマが見送ってくれた。


「ごめんなさい、湊。母があんなに厳しくて……」


「いや、いいんだ」


 俺は首を横に振った。


「ライラさんの言うこと、間違ってない」


「え?」


「俺、何も考えてなかった。お前のことが好きだってことだけで、突っ走ってた」


 ファーティマは黙って俺を見ていた。


「少し、考える時間が必要だ」


「……そう」


「嫌いになったわけじゃない。むしろ、ちゃんと考えたいんだ。お前との将来について」


「湊……」


「待っててくれるか」


 ファーティマは少し考えてから、頷いた。


「ええ。待つわ」


「ありがとう」


「でも、一つだけ約束して」


「何だ」


「逃げないで。ちゃんと答えを出して」


 彼女の目は真剣だった。


「逃げない。約束する」


「信じてる」


 俺はマンションを出た。

 外は夕暮れだった。空が茜色に染まっている。


 ライラさんの言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。

 無責任。将来のことも考えず。覚悟があるのか。


 全部、その通りだった。

 俺は何も考えていなかった。


 でも、これからは違う。

 ちゃんと考える。ファーティマのことも、自分のことも。


 そして、答えを出す。

 逃げないと、約束したから。

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