第23話「紅葉デート」

 十月下旬。

 秋が深まり、街路樹が色づき始めていた。


 文化祭から一ヶ月。あの日、ファーティマが言いかけた言葉は、まだ聞けていなかった。

 打ち上げの後、中間テスト、体育祭の後片付け。忙しさにかまけて、二人きりで話す機会がなかった。


 いや、正直に言えば、俺が避けていたのかもしれない。


 そんなある日、ファーティマからメッセージが来た。


『紅葉を見に行きたいの』


『紅葉?』


『ええ。日本の秋は紅葉が綺麗なんでしょう? まだ見たことないの』


 そういえば、彼女は桜を見て感動していた。紅葉も同じように、初めての体験になるのだろう。


『いいよ。どこに行きたい?』


『湊に任せるわ。おすすめのところ、連れて行って』


 俺は少し考えて、高尾山を提案した。都心から近くて、紅葉の名所だ。


『高尾山? 山に登るの?』


『ケーブルカーもあるから、楽に行けるよ』


『楽しみ! じゃあ日曜日ね』


 こうして、俺たちは紅葉を見に行くことになった。

 デート——という言葉が頭をよぎったが、すぐに打ち消した。友達同士の外出だ。それ以上でも以下でもない。


 * * *


 日曜日の朝。

 高尾山口駅で待ち合わせた。


 ファーティマは秋らしい装いだった。ベージュのニットに、茶色のロングスカート。ヒジャブは深い赤色で、紅葉を意識したのだろうか。


「待った?」


「今来たとこ」


 いつものやり取り。でも今日は、なぜか少し緊張していた。


「ケーブルカー、乗ってみたいわ」


「じゃあ行くか」


 駅からケーブルカー乗り場へ向かう。紅葉シーズンとあって、人が多かった。


「すごい人ね」


「紅葉の名所だからな」


「日本人は紅葉が好きなのね」


「まあ、季節の風物詩だから」


 列に並んでいると、ファーティマがぽつりと言った。


「アブダビには、こういうのがないの」


「紅葉か?」


「季節の変化そのものが少ないのよ。暑い時期と、少しマシな時期。それくらい」


「そうなのか」


「だから、日本の四季は新鮮だわ。春の桜、夏の花火、秋の紅葉、冬の雪。全部、初めての経験」


 彼女は少し寂しそうに笑った。


「あと一年で、全部見られるかしら」


 あと一年。

 その言葉が、胸に刺さった。


「見られるよ。俺が全部、連れて行く」


「本当?」


「約束する」


 ファーティマは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、湊」


 * * *


 ケーブルカーに乗ると、窓の外に紅葉が広がった。

 赤、橙、黄色。色とりどりの葉が、山肌を彩っている。


「わあ……」


 ファーティマが息を呑んだ。

 窓に顔を近づけて、食い入るように外を見ている。


「綺麗……」


「だろ」


「こんなに色が違うのね。同じ木でも、赤いところと黄色いところがある」


「種類によって色が違うんだ。モミジは赤くなるし、イチョウは黄色くなる」


「不思議ね。どうして色が変わるの?」


「気温が下がると、葉緑素が分解されて——」


「科学的な説明じゃなくて」


 彼女は俺を見た。


「湊は、どうして紅葉が綺麗だと思うの?」


 難しい質問だった。

 少し考えてから、答えた。


「終わりが近いから、かな」


「終わり?」


「紅葉って、葉が散る前の最後の輝きだろ。もうすぐ冬が来て、全部なくなる。だからこそ、綺麗に見えるんじゃないかな」


 ファーティマは黙って俺を見つめていた。

 何か、考え込んでいるようだった。


「……そうね」


 彼女は窓の外に視線を戻した。


「終わりが近いから、綺麗なのかもしれないわね」


 その言葉には、別の意味が込められているような気がした。


 * * *


 山頂に着いた。

 展望台からは、紅葉に染まった山々が一望できた。遠くには都心のビル群も見える。


「すごい景色ね」


「ああ」


「写真撮りたいわ」


 ファーティマはスマホを取り出して、景色を撮り始めた。

 俺は彼女の隣に立って、同じ景色を眺めていた。


「ねえ湊、一緒に撮らない?」


「え?」


「二人で。記念に」


 彼女はスマホを構えた。俺は少し照れながら、彼女の隣に並んだ。


「はい、チーズ」


 カシャ、とシャッター音が鳴った。


「見せて」


 画面を覗き込むと、二人の姿が映っていた。紅葉を背景に、俺とファーティマ。


「いい写真ね」


「そうか?」


「ええ。宝物にするわ」


 彼女はスマホをしまいながら言った。


「日本での思い出、全部大切にしたいの」


 * * *


 山を下りて、参道の茶屋で休憩した。

 俺はみたらし団子、ファーティマは抹茶を注文した。


「抹茶、苦いわね」


「そういうもんだ」


「でも、好き。この苦さが癖になるわ」


 彼女は抹茶を啜りながら、俺を見た。


「ねえ湊」


「ん?」


「文化祭の時、言いかけたこと。覚えてる?」


 心臓が跳ねた。


「ああ、覚えてる」


「今日、ちゃんと話したいの」


 彼女の目は真剣だった。もう逃げられない。いや、逃げたくなかった。


「聞くよ」


「ありがとう」


 ファーティマは深呼吸をした。


「私ね、湊のことが——」


 その時、俺のスマホが鳴った。

 着信。母さんからだ。


 無視しようかと思ったが、ファーティマが言った。


「出た方がいいわ。お母さんでしょう?」


「でも——」


「大丈夫。待ってるから」


 俺は渋々電話に出た。


「もしもし」


『湊、今どこにいるの?』


「高尾山。友達と」


『そう。帰りにスーパーで牛乳買ってきて。切れちゃったの』


「……わかった」


 用件はそれだけだった。電話を切って、ファーティマに向き直る。


「ごめん。続きを——」


「ううん、いいの」


 彼女は首を横に振った。


「また邪魔が入っちゃったわね。私たち、タイミングが悪いみたい」


「いや、今聞く。ちゃんと」


「本当に?」


「ああ」


 俺は彼女の目を見た。逃げない。今度こそ。


 ファーティマは少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。


「わかった。じゃあ、言うわね」


 彼女は俺をまっすぐ見つめた。


「私、湊のことが好き」


 時間が止まったような気がした。


「友達としてじゃなくて、一人の男の人として。好きなの」


 俺は何も言えなかった。言葉が出てこなかった。


「ずっと言いたかったの。海の日も、文化祭の日も。でも、タイミングが悪くて」


 彼女の頬が、少し赤くなっていた。


「返事は、今じゃなくていいわ。急かすつもりはないから」


「ファーティマ——」


「私の気持ちを知ってほしかっただけ。それだけで十分よ」


 彼女は立ち上がった。


「帰りましょう。牛乳、買わないといけないんでしょう?」


「待て」


 俺も立ち上がった。


「俺の答え、聞かないのか」


 ファーティマは足を止めた。

 振り返らずに、立っている。


「俺も——」


 言葉が詰まった。

 好きだ。そう言いたい。でも、その先のことを考えると、怖くなる。


 彼女はあと一年で帰国する。宗教も文化も違う。母親は反対している。

 それでも、好きだと言っていいのか。


「俺も、お前のことが——」


「湊」


 ファーティマが振り返った。


「無理しないで」


 彼女は微笑んでいた。でも、その目は少し悲しそうだった。


「私たちには、色々な壁がある。わかってるわ」


「でも——」


「だから、ゆっくり考えて。私は待つから」


 彼女はそう言って、歩き出した。


 俺は彼女の後を追った。

 隣に並んで歩きながら、言葉を探した。


「ファーティマ」


「ん?」


「俺、お前のことが好きだ」


 彼女が足を止めた。


「壁があるのはわかってる。お前の母さんのことも、宗教のことも、帰国のことも。全部わかってる」


 俺は彼女の目を見た。


「それでも、好きなんだ。ずっと」


 ファーティマの目から、涙がこぼれた。


「湊……」


「答えは出てない。どうすればいいかも、わからない。でも、気持ちだけは伝えたかった」


 彼女は涙を拭いながら、笑った。


「私たち、同じね」


「ああ」


「答えは出てないけど、気持ちは同じ」


「そうだな」


 俺たちは見つめ合った。

 紅葉が風に舞っていた。赤い葉が、俺たちの周りを踊るように落ちていく。


「これから、どうする?」


「わからない」


「私も」


「でも——」


 俺は彼女の手を取った。初めて触れる、彼女の手。細くて、温かかった。


「一緒に考えよう」


 ファーティマは俺の手を握り返した。


「ええ。一緒に」


 紅葉の中、俺たちは手を繋いで歩き出した。

 答えはまだ出ていない。壁はたくさんある。


 でも、気持ちは同じだった。

 それだけで、今は十分だった。

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