第19話「海を見たい」
夏休み最後の日。
俺たちは電車に乗って、湘南の海へ向かった。
ファーティマは窓の外を眺めていた。都会の景色が、少しずつ海辺の町に変わっていく。
「海、久しぶりだわ」
「アブダビにも海あるんだろ?」
「ええ。ペルシャ湾に面してるから。でも、日本の海は初めて」
彼女の目は、もうすっかり元気を取り戻していた。
あの電話から一週間。お見合いの話は保留のままだが、彼女は前を向くことを選んだようだった。
「ねえ湊」
「ん?」
「ありがとう。あの時、来てくれて」
「いいって。もう何回も言っただろ」
「何回でも言いたいの」
ファーティマは微笑んだ。
「あなたがいなかったら、私、ずっと部屋に籠もってたと思う」
「そんなことないだろ。お前は強いから」
「強くないわよ。湊の前では、弱い自分を見せてしまうもの」
その言葉に、少しどきりとした。
彼女が弱さを見せるのは、俺の前だけなのだろうか。
「それって、信頼してくれてるってことか?」
「当たり前でしょう」
彼女はさらりと言った。
「湊は私の一番の友達よ。誰よりも信頼してる」
友達。
その言葉を聞くたびに、嬉しいような、物足りないような、複雑な気持ちになる。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
電車が海沿いを走り始めた。窓の外に、青い水平線が広がる。
「わあ……」
ファーティマが歓声を上げた。
「綺麗……!」
「まだ着いてないぞ」
「でも、見えたら嬉しいじゃない」
彼女は子供のように窓に顔を近づけていた。その横顔を見ながら、俺は思わず微笑んでしまった。
* * *
駅に着き、海岸へ向かった。
八月最終日とはいえ、平日だからか人は少なかった。砂浜には数組の家族連れと、サーファーが何人かいるだけだ。
「靴、脱いでいい?」
「いいんじゃないか」
ファーティマはサンダルを脱いで、裸足で砂浜を歩き始めた。
「あつっ」
「砂、熱いだろ」
「熱いわね……でも気持ちいい」
彼女は波打ち際まで歩いていった。波が足元に触れると、小さく悲鳴を上げた。
「冷たい!」
「当たり前だろ」
「アブダビの海は、もっと温かいのよ」
「へえ、そうなのか」
俺もサンダルを脱いで、彼女の隣に立った。
波が足首を濡らす。確かに冷たいが、夏の暑さには心地よかった。
「ねえ湊、もう少し沖まで行きたい」
「泳ぐのか?」
「泳がないわ。膝くらいまで浸かりたいだけ」
ファーティマは今日、例のブルキニを着てきていた。その上から薄手のワンピースを羽織っている。泳ぐつもりはなくても、濡れる準備はしてきたらしい。
「じゃあ行くか」
俺たちは少しずつ沖へ進んだ。膝下まで海水に浸かると、波の力が感じられる。寄せては返す、規則正しいリズム。
「気持ちいいわね」
「ああ」
「海って不思議よね。どこまでも続いてる」
ファーティマは水平線を眺めていた。
「この海の向こうに、アブダビがあるのね」
「……方向違くないか?」
「細かいことはいいのよ」
彼女は笑った。
「気持ちの問題」
* * *
しばらく海に入った後、俺たちは砂浜に座った。
持ってきたタオルを敷いて、並んで海を眺める。
「お腹空いたわね」
「コンビニで買ったおにぎり、あるぞ」
「食べましょう」
俺はリュックからおにぎりを取り出した。ツナマヨと鮭。ファーティマの好きな具だ。
「いただきます」
「ビスミッラー」
二人でおにぎりを頬張る。海を見ながら食べるおにぎりは、なぜか特別に美味しく感じた。
「ねえ湊」
「ん?」
「夏休み、楽しかったわね」
「ああ」
「プールに行って、花火を見て、夏祭りに行って。ラマダンもあったし、いろいろあった」
彼女は膝を抱えて、海を見つめていた。
「日本で初めての夏。忘れられない夏になったわ」
「俺も、忘れられない夏になった」
去年の夏は何をしていただろう。多分、家でゴロゴロしていただけだ。友達と遊んだ記憶もあまりない。
でも今年は違った。毎日のように彼女と会って、色んなところに行って、色んな話をした。
「来年の夏も、一緒に過ごせるといいわね」
ファーティマがぽつりと言った。
「……ああ」
「再来年は、わからないけど」
その言葉に、胸が痛んだ。
再来年。彼女が帰国する年。
「再来年のことは、再来年に考えればいい」
「そうね」
「今は、来年の夏のことを考えよう」
「来年は何をしたい?」
「そうだな……」
俺は少し考えた。
「もっと遠くに行きたいな。京都とか、北海道とか」
「いいわね。私も行きたい」
「じゃあ、計画立てるか」
「ええ。楽しみにしてる」
ファーティマは嬉しそうに笑った。
* * *
夕方が近づいてきた。
太陽が傾き、海がオレンジ色に染まり始めている。
「夕日、見ていこう」
「うん」
俺たちは砂浜に座ったまま、沈む太陽を眺めた。
空が赤く、オレンジに、紫に変わっていく。海面に光の道ができて、キラキラと輝いている。
「綺麗……」
ファーティマが呟いた。
「アブダビの夕日も綺麗よ。砂漠に沈む太陽は、本当に美しいの」
「見てみたいな」
「いつか、見せてあげる」
彼女は俺の方を向いた。
「約束よ」
「ああ」
「インシャアッラー」
「神が望めば、だな」
「覚えてるじゃない」
彼女は微笑んだ。その顔が、夕日に照らされて輝いていた。
俺は彼女から目を逸らせなかった。
綺麗だと思った。海よりも、夕日よりも、彼女の方がずっと。
「湊」
「ん?」
「私、あなたに言いたいことがあるの」
彼女の声が、少し真剣になった。
俺は身構えた。何を言われるのだろう。
「私——」
その時、彼女のスマホが鳴った。
着信音が、静かな海辺に響く。
「……母からだわ」
ファーティマは少し迷ってから、電話に出た。
「はい……ええ……わかった、すぐ帰る」
電話を切ると、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。帰らないと」
「何かあったのか?」
「父の同僚が来るみたいで、家族で食事するって」
「そうか」
仕方ない。俺たちは荷物をまとめて、駅に向かった。
さっきの言葉が気になった。彼女は何を言おうとしていたのだろう。
「なあ、さっきの話」
「え?」
「言いたいことがあるって」
ファーティマは少し考えてから、首を横に振った。
「ううん、いいの。また今度」
「今度って——」
「大したことじゃないから」
彼女は笑顔を作った。でも、どこか無理をしているように見えた。
「じゃあ、また学校でね」
「ああ」
改札の前で別れた。
彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
彼女は何を言おうとしていたのだろう。
気になって仕方なかった。
でも、聞く勇気がなかった。
もし、俺の期待している言葉じゃなかったら。もし、全然違うことだったら。
考えすぎだ。
俺は頭を振って、帰りの電車に乗った。
窓の外には、夜の海が広がっていた。
さっきまでの夕日は消えて、暗い水平線だけが見える。
夏が終わる。
明日から二学期が始まる。
彼女との関係は、このままでいいのだろうか。
友達という距離で、満足していていいのだろうか。
答えは出ないまま、電車は夜の街を走り続けた。
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