第18話「アブダビからの電話」
夏休みも残り数日となった八月下旬。
その日、ファーティマからの連絡が途絶えた。
朝、いつものように「おはよう」とメッセージを送った。返信がない。昼になっても、夜になっても、既読すらつかない。
翌日も同じだった。
何かあったのだろうか。体調を崩したのか。それとも——Loss家族に何かあったのか。
三日目の朝、俺は思い切ってユーセフに連絡した。
『ファーティマと連絡取れないんだけど、何かあった?』
すぐに返信が来た。
『姉さん、部屋に籠もってる。アブダビから電話があってから、ずっと』
『電話?』
『詳しくは知らない。でも、祖父母から何か言われたみたい』
祖父母。アブダビにいる、ファーティマの父方の祖父母だろうか。
『会いに行っていい?』
『来てくれると助かる。僕じゃ、姉さんの力になれないから』
俺はすぐに家を出た。
* * *
ファーティマの家に着くと、ユーセフが玄関で待っていた。
「湊さん、ありがとう」
「ファーティマは?」
「自分の部屋。三日間、ほとんど出てこないんだ」
ユーセフの顔は不安そうだった。いつものおちゃらけた様子はない。
「何があったか、わかるか?」
「詳しくは……。でも、祖父からビデオ通話があったんだ。その後から様子がおかしくなった」
「祖父さんが何か言ったのか」
「多分。姉さん、電話の後、泣いてたから」
胸がざわついた。ファーティマを泣かせるほどのことが、何かあったのだ。
「部屋、行っていい?」
「うん。二階の突き当たり」
俺は階段を上がった。
廊下の奥に、白いドアがあった。ノックする。
「ファーティマ、俺だ。湊」
返事がない。
「入るぞ」
ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中は薄暗かった。カーテンが閉められていて、ベッドの上に人影がある。
「……湊?」
かすれた声がした。
目が暗さに慣れてくると、ファーティマの姿が見えた。ベッドに座り、膝を抱えている。髪を覆うヒジャブはなく、長い黒髪が肩にかかっていた。
初めて見る、彼女の素顔だった。
「大丈夫か」
「……どうして来たの」
「連絡なかったから。心配した」
俺は部屋の中に入り、ベッドの近くに座った。彼女の顔が見える。目が腫れている。たくさん泣いたのだろう。
「ユーセフから聞いた。電話があったって」
「……」
「話したくないなら、話さなくていい。でも、一人でいるより誰かといた方がいいと思って」
ファーティマは黙っていた。
長い沈黙の後、彼女はぽつりと話し始めた。
「祖父から電話があったの」
「うん」
「お見合いの話だった」
お見合い。その言葉に、俺は息を呑んだ。
「アブダビに、私と結婚したいという人がいるって。祖父の知り合いの息子で、いい家柄の、ムスリムの男性」
「……」
「私が帰国したら、会ってみないかって」
彼女の声は震えていた。
「まだ高校生なのに。まだ日本にいるのに。どうしてそんな話をするの」
俺は何も言えなかった。言葉が見つからなかった。
「祖父は悪い人じゃないの。私のことを心配してくれてるのよ。でも——」
ファーティマの目から、涙がこぼれた。
「私、まだ結婚なんて考えられない。日本での生活が楽しくて、学校が楽しくて、友達がいて——」
彼女は言葉を詰まらせた。
「湊がいて——」
俺の名前が出て、胸が締めつけられた。
「なのに、帰国したらお見合いなんて。私の気持ちは、どうでもいいの?」
彼女は膝に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
俺はただ、そばにいることしかできなかった。
* * *
しばらくして、ファーティマは少し落ち着いた。
俺は部屋にあったティッシュを渡した。彼女は目元を拭いながら、小さく笑った。
「ごめんなさい。みっともないところ見せて」
「いいよ。気にすんな」
「ヒジャブもしてないのに……」
彼女は慌てて髪を手で押さえた。
「見ないで」
「あ、ああ。悪い」
俺は慌てて視線を逸らした。彼女がヒジャブを被り直すまで、窓の方を見ていた。
「もう大丈夫よ」
振り返ると、いつものファーティマがいた。黒いヒジャブで髪を覆い、背筋を伸ばして座っている。でも、目の腫れは隠せなかった。
「お見合いの話、断れないのか?」
「わからない。祖父は頑固だから……」
「お前の親父さんは何て言ってるんだ」
「父は、私の意思を尊重するって言ってくれた。でも、祖父を説得するのは難しいって」
ファーティマはため息をついた。
「アブダビでは、まだ家族が結婚相手を決めることも多いの。特に、いい家柄の娘は」
「それって、お前の意思は関係ないってことか?」
「完全に無視されるわけじゃないわ。でも、家族の意見は重い。特に祖父は、一族の長だから」
俺には理解しがたい世界だった。でも、それが彼女の文化なのだ。否定することはできない。
「お前は、どうしたいんだ」
俺は聞いた。
「お見合い、したいのか?」
「……したくない」
彼女は首を横に振った。
「まだ早いわ。結婚なんて考えられない。私は、自分の人生を自分で決めたい」
その言葉に、強い意志があった。
「じゃあ、そう言えばいい」
「え?」
「祖父さんに、自分の気持ちを伝えろよ。まだ早いって、自分で決めたいって」
「でも——」
「聞いてもらえないかもしれない。でも、言わなきゃ始まらないだろ」
俺は彼女の目を見た。
「お前、いつも言ってたじゃないか。私は私だって。私の気持ちは私が決めるって」
ファーティマは目を見開いた。
「その通りにすればいい。誰かに言われたからって、簡単に折れるな」
「湊……」
「俺は、お前の味方だ。何があっても」
その言葉が、自然と口から出た。
言ってから、少し恥ずかしくなった。でも、撤回する気はなかった。
ファーティマの目に、また涙が浮かんだ。でも、さっきとは違う涙だった。
「ありがとう、湊」
「礼はいい。元気出せよ」
「……うん」
彼女は涙を拭いて、小さく微笑んだ。
* * *
その夜、ファーティマは祖父に電話をかけたらしい。
翌日、彼女からメッセージが来た。
『祖父に話した。まだ結婚は考えられないって』
『どうだった?』
『怒られたわ。でも、父が間に入ってくれて、とりあえず保留になった』
『そうか。良かったな』
『うん。湊のおかげよ』
『俺は何もしてない』
『してくれたわ。背中を押してくれた』
しばらく間があって、また通知が来た。
『ねえ湊』
『ん?』
『私、湊に会えて本当に良かった』
その言葉を見て、俺の心臓が跳ねた。
『俺も、お前に会えて良かった』
返信を送ってから、スマホを置いた。
天井を見上げる。
お見合いの話は、保留になっただけだ。解決したわけじゃない。
彼女が帰国したら、また同じ話が持ち上がるかもしれない。
でも今は、彼女が元気を取り戻してくれたことが嬉しかった。
俺にできることは限られている。彼女の文化に口を出す権利はない。
でも、味方でいることはできる。そばにいることはできる。
それだけは、絶対に変わらない。
夏休みが、もうすぐ終わる。
二学期が始まれば、また忙しい日々が待っている。
でも、その前に——。
俺はスマホを手に取り、メッセージを打った。
『明日、海に行かないか』
すぐに返信が来た。
『行きたい!』
夏の終わりに、彼女と海を見に行こう。
そう決めて、俺は目を閉じた。
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